中編
一見すれば簡素な箱馬車が、静かに揺れている。
婚約破棄の場へと変わった学園の大広間を離れ、石畳を打つ車輪の音だけが、規則的に続く。その静けさの中を進む馬車は、この国で一般的に使われているものとはまるで違う。昨年から数を制限して商路に乗せている、商会製の最新型の馬車だ。
長年乗る者を悩ませてきた揺れはほとんど感じず、長時間の移動にも支障がない造り。元の揺れを知っている身からすれば雲泥の差で、程よい弾力で体を支えてくれる布張りのソファに身を任せた。
向かいに座る従者に脱いだ上着を渡し、代わりに受け取った商会製の万年筆を手に取り、机の前以外で執務を行う人間にとって必需品となっている、こちらも商会が販売しているライティングホルダーに挟んだ紙に思考を書き出していく。
先程の茶番。表向きは身分を越えた若き王子と令嬢の恋として、大衆受けする物語として扱われることになるだろう。
王太子が婚約者である国有数の公爵家の令嬢を捨て、元平民の男爵令嬢を選んだ。最低でも美談に聞こえる話にしなければ、王家の面子も、侮辱に等しい扱いを受けた公爵家の面子も死んだも同然だ。
けれど、ただそれだけで終わらせるには証人の数が多過ぎる。
今夜の出来事は家に戻った者たちの口から、その親へと伝わることは避けて通れない。緘口令が意味をなさないのであれば、国家の内部は当然荒れる。
まず書いたのは簡単な図だ。
王家を頂点に、その下に主要な貴族。更にその下に連なる寄子と位置づけられる下位貴族たち。
線を引き、丸で囲み、いくつかの家門の横にバツをつける。
「まず、寄子が動いていない」
──本来であれば。
婚約破棄などという、家同士の契約の破棄が公の場で宣言された時点で、寄親への攻撃と見なして寄子は即座に動く。
抗議。撤回要求。あるいは場の制圧。少なくとも──あのまま進行することなどあり得てはならない。
「……誰も止めなかった」
ペン先が、紙の上で止まる。
そもそも誰もがあの場で動かなかったのは何故なのか。当然あるべき行動を取らず、囁くだけで、窺うだけで、何故止められなかったのか。
寄親が権力抗争から転落してしまえば、寄子である自らの家門への影響が計り知れないというのに。
「あるいは止める意思がなかったのか」
暫し思考を巡らせたが、どちらにしても致命的であることは変わらないかと、ペン先の動きを再開させる。
派閥内の統制が取れていないのか、もしくは既に崩壊している可能性もある。推測はいくつも浮かぶが、どんな理由であったとしても、やるべきことをやるべき時にできないのなら、商売相手としては論外だ。
「次に、王太子自身」
名を書き、その横に短く線を引く。
「感情で契約を切る人間は、信用できない」
それが恋愛だろうと、政治だろうと同じことだ。むしろ王族であるのなら、その手の教育は必ず受けて然るべきものだ。
一度でも前例を作れば、間違いなく次もやる。
契約の重みを理解していない相手とは、長期的な取引は成立しない。しようとも思わない。
「……そして、一番まずいのは」
視線を窓の外へ向ける。
すっかり更けた夜でも、舗装された道に等間隔で建てられている商会が融通した魔道街灯が、通りを行き交う人々の姿を照らす。
「民衆が、誰も危機感を持っていないことだ」
通りには荷物を抱えて足早に進む人間が。家族や友人、恋人と楽しげに歩く集団が。仕事を終えたような疲労感を纏って家に帰る者もいれば、これから出勤する者もいるのだろう。だが、皆一様に普段と変わらない姿をしている。
件の王太子と男爵令嬢は、休日に城下に出ていた。
令嬢の気を引こうとする王太子が、二人だけで連れ添う姿を大衆に見られているのだ。
この国は王族の顔を秘匿していない。式典や祭事で民衆の前に立つことも多く、仮に簡素な衣服を着ていたとしても、気がつく者は少なくはないだろう。
家の商会や、商品を卸している系列店でも購入実績が存在した。それもかなりの頻度で。
婚約者でもない令嬢と仲睦ましげに街を歩き、物を買い与える姿は誠実とは程遠い。それでもすべては若き王太子の学生時代の火遊びだと楽観視されていたのか、あるいは本当に危機感を覚えなかったのか。
どちらでもいい。重要なのは──、
「この国は情報統制が稚拙過ぎる」
危機感のなさの原因が、そう統制を取った結果であれば、まだ評価はできたが、そうではない。学園内でも外でも彼らは自らやりたいことをやっていただけだ。そして周囲は結果的にそれを許す形を取った。
だからあそこまでやったし、民衆は上が何もしないのであればと勘違いをした。
情報が遅れる国は、必ず沈む。
これは憶測や推測ではなく、経験則だ。規模の問題ではない。小国でも情報が早ければ生き残る。逆に大国でも鈍ければ呆気ないほど簡単に崩れてしまう。
「さて」
紙を軽く叩き、思考を切り替える。
「問題はどこまで影響が出るか──だな」
短期的な混乱は小さい。貴族社会の中で話は留まり、表には出てこない。
だが中期になれば話は違う。国の上澄みである王族と公爵家の一方的な婚約破棄で崩れた権力の地盤や派閥の力関係が、残った他の貴族の婚約や領地間の取引の再編へと繋がり、それが派閥の変動にすらなる。そして最後には王家の信用低下へと影響は広がっていく。
そして長期。
「最悪、政変──……」
そこまで呟いて苦笑する。
流石にそこまでは思考が飛躍し過ぎるか──いや。
「十分、あり得るな」
否定はできない。楽観視できるほど安い行為ではない。
先程の大広間で見た顔を思い出す。切り替える人間がいた以上、それが国にとって負債となった王太子を傀儡へと望むのか、もっと端的に損切りと判断したのか。王政によって国を動かす王侯貴族の世界で何を捨て、何を選び、何を掴むのかを考え、行うことができる人間がいるのなら。
「撤退ラインは早めに決めるか」
この国で展開している事業の一覧を、覚えている限り脳裏に並べていく。
商品の流通、魔石や魔材の加工。魔道具や生活を少しだけ便利にしてくれる道具の数々。どれも相応の利益は出ており、このままいけば国に完全に根を張れる。だが──。
「切るなら、今が一番安く済む」
こちらに被害が出る前に引く。当然のことだ。それが商人という生き物で、爵位を持たない身でありながら巨万の富を築き、国とすら渡り合う俺の家のやり方だ。
人であるのなら感情は必要だ。それが商売を回すために必要になる場面もある。だが、情が判断を鈍らせるのなら、捨てることも必要だった。
「一日だけ様子を見る」
王家の動きは勿論だが、主要貴族がどう反応するのか。そして棒立ちだった寄子の遅延対応があるのか。最低限、公の場で虚仮にされたローゼンベルク公爵家がまったく動かない選択をするのなら──それだけで判断は決まる。
「駄目なら全面撤回で進める」
あっさりと酷薄な結論を口にして、万年筆を置いてライティングホルダーごと従者に投げた。
少々乱暴に手に収まったそれに目を通してはいるが、従者は俺に何かを問うことはない。それは服従ではなく、必要なことはここまでの俺の言葉で終わっているからだ。
既に未練はない。たとえ俺の判断でこの国が傾いたとしても、それはこの国が招いた帰結だ。
商会の利益は他で作ればいいだけだと薄く笑った俺の顔に、従者が一つ言葉を返す。
「そのお顔では──嫌がられますよ」
「そうか?」
「ええ。今にも獲物を食い荒らそうとしている猛獣のようで、それでいて退屈な玩具を迷いなく捨てる無邪気な子供のようなお顔です。あの方は商売であれ、政治であれ、ただの人間関係だとしても、人の感情が強く振れる状態にかかわることを好んでおられません」
容赦のない指摘に、片手で頬を撫でる。三日月のように吊り上がっている唇の端に触れ、それが間違いではないと自覚できたが、どうにも戻りそうにない。
思考が止まらず、頭の中は既に次の段階に移っていた。撤退時の物流経路。契約解除の順序。損失の最小化──完全に切れると確信をした時点で、俺は一日待つと言っておきながら、この国をとっくに捨てるつもりでいるのかもしれない。
それは冷酷な商人の血筋が生み出す感情なのか、あるいは単純に見世物を楽しんだ結果なのかは分からないが、確かにこのままではよくはないだろう。
「まあ、家に着く前に戻すさ」
あいつと話す、ただそれだけのために。
この先に持つ、俺の傍に囲い込んだ”異常”のために、いつもの“俺”に。




