前編
シャンデリアの計算された光が、夜の帳を昼のように照らしていた。
王立学園の大広間は、この夜ばかりは社交界そのものへと姿を変えている。磨き上げられた床には、色とりどりのドレスが花弁のように広がり、若き貴族の令息や令嬢たちの笑い声と弦楽の調べが甘く溶け合っていた。
国で最も権威ある学園の卒業記念舞踏会。ここでは未来の権力と縁談が交差する、彼らの社交の場──のはずだった。
「……へぇ」
思わず、そんな声が漏れた。
口をつけずに持っていたグラスの中身を手持ち無沙汰に揺らしながら、壁際からその光景を眺めた。
本来ならここは値踏みの場だ。
誰が誰と繋がるか。どの家がどの派閥に寄るのか。誰が誰を取り込むのか。
笑顔の裏で計算が飛び交い、未来のための種を静かに蒔く、極めて合理的な空間であるべきはずのこの場所で、こんなにも浅慮な人間を見ることになるとは思ってもみなかった。
「本日、この場をもって宣言する!」
場の中心に立つ、この国の第一王子であり、未来の王でもある王太子ウィリアムが声を張り上げた。
彼の隣に立つはずの、完璧な淑女とも称される婚約者である公爵令嬢の前に立ち、見下すように目を細めた王太子は、一人の令嬢の手を取っていた。──公爵令嬢ではない。揺れる髪や細い体を王太子の目や髪の色に合わせて装っているのは、数年前に男爵家に引き取られた元平民の娘だ。
突然の声にざわり、と空気が波打つ。美しい調べを乗せた弦楽が止まった広間の中で、卒業生たちの囁きがざわめきとなって波紋のように広がっていったと思えば、呼応するように視線が一点に集まり、そして静寂が落ちる。
「私は、シルビア・ローゼンベルクとの婚約を──破棄する!」
息を呑む音が、あちこちで重なった。
あまりにも馬鹿馬鹿しくて、あまりにも愚かな宣言。その声を前に真っ直ぐに王太子を見つめている公爵令嬢の瞳には、驚きも怒りさえも見えない。ただ静謐な光だけを宿し、続きを促すように王太子を見返している。
ややあって──扇子が開かれた。
繊細な金打ちの細工がシャンデリアの光を返して輝いた。その動きはあまりにも正確で、あまりにも無駄がない。まるでこの場の流れすら織り込み済みであるかのように。
「──理由をお聞かせいただけますか?」
問い掛けは酷く穏やかだった。だがそれは弁明を許す声ではない。説明を求めているのではない──最後通告にも似た確認に近いものだった。
だが隙がない所作で立つ公爵令嬢とは裏腹に、熱に浮かされたような王太子は、大袈裟とも思える動きで隣に立つ少女の腰を抱き寄せる。
「ここにいる彼女──リナは、私に真実の愛を教えてくれた。この国の王太子ではない、ただの一人の人間として私と向き合い、私の手を取ってくれたのだ。貴様のように身分や打算に縛られた関係など、彼女の前では何の意味も持たない」
あまりにも陳腐で、あまりにも致命的な言葉だった。それでも王太子は何の疑いもなく言い切り、男爵令嬢もまたその手を離そうとはしなかった。
「……はぁ」
あまりにも分かりやすい構図。観劇のような陳腐な光景に、小さく息を吐いた。
理由はいくらでもある。
身分違いの恋? ──別にいい。
婚約破棄? ──政治的に整理ができるのであれば問題ない。
だが──、
「場所が最悪だな」
ポツリと口の中で言葉を落とした。
ここは”公開の場”だ。その上、貴族は慣例として王子が生まれる年に合わせて子供を作ることが多いため、例にも漏れずこの場には国内で力を持つほぼすべての家門が揃っていると言っていい。
つまりこれは内輪の問題ではなくなった。社交界全体に、家門全体に対する──宣言だ。
凍りついた高位貴族の令息や令嬢たち。息を押し殺して様子を窺っているのは下位貴族。逆に囁くように視線を動かすのは爵位を持たない者たちだ。だが誰もが中央に立つ者たちを見る中で、グラスを傾けたまま、視線だけで場をなぞる。
「──誰も動かない、か」
本来なら動くべき者たちが、公爵家の寄子が、誰一人動かない。
ローゼンベルク公爵家に連なる貴族は、この場に少なくない数がいるはずだ。なにせあの家はこの国でも有数の大派閥である。
──にもかかわらず。
誰も、王太子の暴挙を諫めない。
誰も、公爵令嬢の名誉を守らない。
誰も、場を収めようと、最低限の形すら整えない。
様子を窺い、視線を逸らし、はたまたどこか馬鹿にしたように見ている者すらいるのだから、呆れて物が言えなくなるのは仕方がないが──すべてが遅い。それも、致命的に。
「終わってるな」
自然とそう結論が出て、小さく零れた声に、隣に控えていた従者が僅かに目を伏せた。
俺の家は爵位を持たず、特定の国にも属さない商家だ。ただし”一介の商家”と呼ぶには、あまりにも規模が違う。複数の国に拠点を持ち、あらゆる商路を握る。小国一つ程度なら、国家予算ごと買い叩ける資産を有する大商家。
あらゆる場所に根を張った俺の家は、下手を打てば国ごと倒れる状態に持ち込まれると知られており、その実績すらあるのだ。たとえ目障りだとしても潰すことはできない。手出し無用の不文律すら存在し、世界規模で見て影響力を有していると言っても過言ではない。
だからこそ理解できる。これはただの恋愛沙汰では終わらない。──では何を意味するのか。答えは簡単だ。
これは──国家運営の破綻。即ち統制の崩壊である。
王太子が公の場で公爵令嬢を最悪の形で斬り捨てた。それはこの国の貴族制度そのものを否定したに等しい。ならば明日から誰が王に従うというのか。誰が税を納め、誰が忠誠を誓い、誰が剣を捧げるというのか。
今この瞬間──従わない理由が生まれた。
若輩ということは言い訳にはならない。止めるべき者が動かず、取り返しがつかない愚かさを放置した結果、貴族全体どころか国家そのものが醜態を晒したのだ。
グラスの中で揺れる液体を見ていた視線を王太子に向ける。
自信に満ちた精悍な顔。己の発言を真実だと疑わない声。横に立つ男爵令嬢を抱くその仕草は丁寧だが力強くもあり、芝居としては満点だ。──だが、商人の視点で見れば最低評価でしかない。
信用がない。
契約を守らない。
感情で判断する。
そんな相手と誰が取引を行えるというのか──……いや。
「切り替えている奴らがいるな」
俺と同じように、いくつかの視線が静かに動いていた。特に爵位を持たない、俺の家に連なる契約に依って立つ家。次に、取引の際に随分と強かだと評価した家紋の子女たち。判断を誤れば、明日には取引先が消えると知っている者たちだ。
彼らは一様に俺へ視線を向けており、声を上げる者こそいないが、理解している者はいるのだと雄弁に語っている。
これは──見世物だと。それも国家を終わらせる可能性がある、最悪の喜劇であり悲劇だ。
その中央にいるのはこの国の王太子であり、この国の派閥である公爵家の令嬢でもある。
一方的に婚約を破棄された女は泣き喚きもせず、ただ静かに立ち、その表情はあまりにも整い過ぎていた。崩れることも、折れることもない。ただ──切り替えている。冷静に、冷徹に思考を回し、国の崩壊を止めるための選択をしているのか──それでも、だ。
俺は揺れる液体をそのままに、グラスをテーブルに静かに戻す。
「帰るぞ」
「よろしいのですか」
「ああ、ここから先は見なくても問題ない」
従者が静かに頷き、俺の後に続いて歩き出す。
王太子の声はまだ続いている。愛がどうとか、真実がどうとか。あまりにもどうでもいい言葉の羅列は、国を終わらせる呪いの言葉だ。だが問題はそこではなく、俺がするべき判断に必要な材料は十分過ぎるほどに揃っていた。
この国に投じている資金や、流している物資。そしてこれから広げる予定だった商路。そのすべてを一度止める必要がある。
「……あーあ」
小さく肩をすくめる。
「使えると思ったんだけどな、この国」
規模は大きくなくとも、大陸の中では場所が悪くはなかった。だからこそ長期的な滞在を決め、学園に通い、数年掛けて根を張った。だからこそ残念だ。だからこそ──切る判断も早い。
靴底で床を叩き、騒ぎから離れて扉を抜ける。背後では茶番が続いているが、振り返ることはない。その代わりに鼻歌交じりに頭の中で次の段取りを組み立てていく。
資金の引き上げ。在庫の調整。他国への振り分け。回収できないものはあり、損失も出るが、それでも許容範囲だろう。
「一応、明日までは様子を見るか」
見世物にされても崩れない令嬢を思い出し、念のため猶予期間を設けることも忘れない。
この馬鹿げた喜劇を、国家の恥のような醜聞を、王家や貴族たちがどう動き、どこまで面子を保ち、立て直すのか。
それ次第で完全撤退か、部分縮小かを決める必要がある。今後もこの国に投資する価値があるのかも判断しなければならない──もっとも。
「期待できるような感じではないけどな」
あの場での反応。あそこから立て直せるというのなら、最初からああはなっていない。他国ならこうなる前にすべてが秘密裏に終わっているような騒動だ。挽回の可能性を僅かに残した公爵令嬢とて、結果だけを見れば社交界の立ち回りを失した敗者でしかなく、事前に防げなかった時点で、期待など過剰にするはずもない。
努力したけど無理だった。できなかった。という言い訳は、商売の世界では意味を持たないのだから。
「──さてと」
先程までの光景が嘘のように、人気のない外は静寂に包まれている。
月が浮かぶ夜空を見て、背筋を伸ばす。
「帰って、報告ついでに話すか」
あいつならどう見るのか。あの妙に現実的なのに、妙にずれている奴なら。
「どうせまた、変なこと言うんだろうけど」
蹲る小さな背中を思い出して少しだけ笑った。
──その方が面白い。
そう思っている自分に、気がつかないまま。




