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第8話:空欄さんも、読んでください

 イベントの配信アーカイブは、翌日の昼には《コエバコ》の特設ページに上がっていた。

 律は、開かなかった。開かないようにした。けれど、見ないようにしたところで、視界から消えるわけではなかった。


 昼休みの教室。スマホの通知欄に《コエバコ》のおすすめ投稿が流れてくる。昨日の朗読ミニライブの感想が、画面の上位を占拠していた。

『ミオリさんの低い声、すごかった』

『「切らない理由を、まだ名前にしたくない」刺さった』

『空欄さん本人の声も聞いてみたい』


 律はそこで画面を閉じた。

 空欄さん本人の声。

 文字列に深い意味はないだろう。投稿者本人がどんな声をしているのか、ただの好奇心。数秒後には誰もが忘れるような一文。それでも、その言葉だけが意識の底に澱のように残った。


 台本は声にされるために書くものだ。けれど、自分の声まで求められるとは想定していなかった。律はスマホを机に伏せたが、一度読んでしまったものはもう消えなかった。


 五限のチャイムが鳴る直前、スマホが震えた。ミオリからだった。

『見ました? 空欄さんの声も聞いてみたい、ってコメント』


 見ていた。律は、しばらく返信できなかった。

『見ていません』

 送った瞬間、自分でも無理があると思った。既読はすぐに付いた。


『見た声がします』

『声は送っていません』

『そういう逃げ方、もう少し分かってきました』


 律はスマホを伏せた。授業は始まったが、黒板に並ぶ文字よりも、画面に残った最後の一文の方がずっと濃かった。


* * *


 放課後、律は一人で教室に残っていた。

 誰もいなくなった部屋は、昼間より少し広く見える。窓の外から遠い運動部の声が響く。机の上のスマホは、まだ伏せられたままだ。


 開かない方がいい。そう思ったから、開いた。

 ミオリから、新しいメッセージが届いていた。


『空欄さんも、読んでください』

『配信でですか』

『違います。私にだけです』


 律は返信欄に指を置いたまま、沈黙した。

『僕は演者ではありません』

『知ってます』

『声で伝える人間でもありません』

『だからです。上手に読まなくていいです。読めないところを、聞きたいんです』


 律は、その一文を見た。

 ミオリの声が、初めて台本から外れたあの夜を思い出す。台本の一行を、彼女が読めなかった音。律だけがそれを聴き取ってしまい、そこから全てが始まった。

 読めないところを聞きたい。今度は、ミオリがそれを求めていた。


* * *


『何を読めばいいですか』

『一行だけでいいです。「切らない理由を、まだ名前にしたくない」』


 律は、肺の空気が止まるのを感じた。

 昨日、ミオリが本番のマイクに拾わせたあの空白の後に放った一行。自分が綴った言葉だ。だから、読めるはずだった。


『それは、ミオリさんの台詞です』

『空欄さんが書いた台詞です。私だけが読めなかったんじゃないなら、空欄さんだけが書く側でもないですよね』


 律はスマホを伏せた。

 教室の音が遠ざかる。運動部の声、廊下を過ぎる足音。その全部の中で、自分の喉の存在だけが、嫌に近くにあった。


 律は、スマホの録音アプリを立ち上げた。

 録音ボタンの赤色が、やけに目に残る。押す前から、その後の音を想像してしまっていた。息を吸い込む音。言葉が零れる直前に、喉が硬直する場所。


 律は録音ボタンを押した。秒数のカウントが動き出す。

「切らない理由を、まだ名前にしたくない」


 言えた。言葉の形としては。

 律は録音を停止した。再生ボタンに指をかけようとして、やめた。聴かなくても分かっていた。読めた。けれどそれは、ただ「読めたこと」にしただけの音だった。


 律はデータを消去し、もう一度録音ボタンを叩く。自分の吐息。

「切らない理由を、まだ――」


 止まった。

「まだ」の二文字の直前で、声が微かに引っかかった。

 まだ名前にしたくない。いつかは名前にするかもしれない。けれど、今はしない。そんな卑怯な逃げ道が、その二文字にこびりついていた。


 律は録音を止めた。消そうとして、指が動かなかった。

(これは送れない)

 そう思ったから、消さなかった。


* * *


 日付が変わる頃、律は録音データを送信した。

 最初に録った方、一度も淀まずに最後まで読み切った音声だった。


 送信した直後、律は逃げるようにスマホを伏せた。けれど、スマホはすぐに震えた。

『聞きました』

『どうでしたか』


 ミオリの返信は、少し遅れて届いた。

『上手でした。だから、読めてません』


 律は指を止めた。

『読めました』

『読めたことにしました』


 律は画面を見つめたまま固まった。あの夜、ミオリが自分の声について認めた言葉が、今度は律の方へ正確に跳ね返ってきていた。


『もう一つ、ありますよね』

『ありません』

『あります』

『送っていません』

『送っていないだけです』


 律は録音アプリの画面を見た。二つ目のデータ。「まだ」の直前で、声が止まった方。

『どうして分かるんですか』

『私も、読めたことにする声を知っているので』


 律は短く、浅い呼吸を吐き出した。録音アプリを開き、二つ目の音声データを選択する。送信ボタンに指を添える。けれど、どうしてもその先へは進めなかった。


『今すぐじゃなくていいです。でも、消さないでください』


 その一文だけで、指が止まった。

 書かないことと、なかったことにすることは違う。送らないことと、消去することも、おそらくは別の意味を持つ。


 律は録音アプリを閉じた。メモも台本も開かなかった。ただ、スマホの中に、途中で止まったままの自分の声が取り残された。

 画面には、ミオリの最後のメッセージが残っている。


『でも、消さないでください』


 律は、その録音データに名前を付けなかった。

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