第7話:本番のマイクは、空白を拾う
《コエバコ朗読ミニライブ》の本番は、週末の午後に行われた。
会場はリハーサルと同じ多目的スタジオだったが、人の気配が満ちた部屋は、以前とは別の場所のように見えた。並べられた椅子、壁際の物販台、舞台上のマイクスタンド。人が入ると、部屋の音は変わる。
律は、後方の音響卓に近い関係者席へ案内された。
「ミオリさんも、かなり気合い入ってましたよ」
スタッフの言葉に、律は短く頭を下げた。気合い。そんな言葉で合っているのか、律には分からなかった。怒りか、負けたくない意地か、あるいは読めないままにしたくない執着か。たぶん、その全部が混ざっている。
律は舞台を見ないようにして座った。正確には、そこに立つ人の「顔」を見ないようにした。
客席には二十人ほどの観客。画面の端では、配信を待つ匿名たちのコメントがゆっくりと流れていく。
『待機』『ミオリさん楽しみ』『タイトルからして刺さりそう』
律はその文字列から目を逸らした。「空欄」という名で置いた言葉が、いま、実体を持って人の前に出ようとしていた。
開演のスタッフの声が響き、拍手が起きる。律は膝の上で手を組んだ。
* * *
前半の演目が進んでいく。
演者たちは皆、上手かった。声を出すことに慣れ、沈黙の長さも呼吸の戻し方も、きちんと分かっている。
けれど、ミオリが出てきた時、部屋の空気が変わった。
拍手の質が変わる。名前を呼ぶ声はないし、顔を大きく出しているわけでもない。それでも、観客の中に小さな期待が膨らんだのが分かった。
舞台上の姿は照明の加減で輪郭しか分からない。律は顔を見なかった。見る必要がなかった。マイクの前に立ったミオリが、短く息を吸う。その予兆だけで、律には十分だった。
「次は、ミオリさんによる朗読です。タイトルは、『マイクは顔を知らない』」
ミオリがマイクの前に立つ。最初の一音は、もう漏れなかった。リハーサルの時のあの無防備な「あ」ではない。それは、完全に観客へ渡すために研ぎ澄まされた声だった。
* * *
「見ないでって言ったのに、分かったんだ」
客席が静まり返った。ミオリの声は、かわいくはなかった。けれど、聞きづらくもない。怒りを丸めず、そのまま人前に置ける声だった。
「顔じゃないなら、もっと嫌かもしれない」
律は、台本の文字を思い出した。自分が書いた行。自分が避けた言葉。自分が、逃げなかったふりをした場所。それらが今、彼女の声で逃げ場を失っていく。
「声だけで分かるなんて、ひどい」
観客の誰かが、小さく息を呑んだ。成功している、と律にも分かった。
声の置き方が違う。誰か一人に刺すのではなく、部屋全体に届く声。けれど、真ん中の核だけは一切薄めていない。
「ひどいって言ったのに、まだマイクの前にいる」
コメント欄が速くなる。『声低いのいい』『かわいくない声なのに好き』『怒ってるのにちゃんと届く』。
律は視線を逸らそうとしたが、一つだけ見えてしまった。
『怒ってる声、かわいくなくて好き』
律は手の中で指を丸めた。ミオリが次の行へ入る。
「怒ってる声なら、切ってもいいはずなのに」
そこで、声が少し沈んだ。沈んだだけで、逃げはしなかった。
ミオリは、最後の一行の前で止まった。ほんの一拍。
観客には演技の間に見えただろう。配信のコメント欄にも、おそらく「間がすごい」と流れる。
でも、律には違って聞こえた。そこには、台詞がなかった。書かなかった言葉が、声になる前に一度だけ置かれた。ミオリはその空白を踏んでから、最後の一行を読んだ。
「切らない理由を、まだ名前にしたくない」
声が部屋の奥まで届き、静寂が数秒続いた。
それから、遅れて拍手が広がった。スタッフが安堵し、コメント欄が熱狂で埋め尽くされる。
誰が見ても成功だった。ミオリは舞台の上で、いつもの彼女として短く挨拶をした。「ありがとうございました」。その声も上手かった。さっきの剥き出しの空白など、最初からなかったように。
律は拍手をした。少し遅れて。自分の手の音が、周りよりずれて聞こえた。
* * *
終演後、律はすぐに会場を出なかった。関係者席にいたため、スタッフへの挨拶が必要だったからだ。物販台の前では、観客が感想を言い合っている。
「最後のやつ、短いのに刺さった」「怒ってる声、あんな感じでもいいんだね」。
律は立ち止まった。台本が自分とミオリの間を離れ、知らない人の口に乗っている。それが不思議で、少し怖かった。
スマホが震えた。ミオリからだった。
『聞きました?』
律は会場の端に寄り、返信する。
『はい』
『どこですか』
律は、すぐには打てなかった。分かっていた。でも、分かっていたと返していいのか分からなかった。
『最後の一行の前です』
既読はすぐについた。
『やっぱり』
『あれは、本番では演技の間です』
『そう聞こえました』
『お客さんには、そう聞こえたと思います』
『はい』
『でも空欄さんには、違うふうに聞こえたんですよね』
律は、指を止めた。嘘はつけなかった。
『違うふうに聞こえました』
『嫌です』
『すみません』
『でも、聞かれなかったら、それはそれで腹が立ちます』
ミオリのメッセージだけが、やけに静かだった。
『どう返せばいいですか』
そう送ると、しばらく既読だけが残った。やがて、返事が来る。
『分かりません』
その次の一文は、少し遅れた。
『だから、次の台本で考えてください』
律は画面を見つめた。
ミオリは、分からないものをまた台本の方へ押し返してくる。
そして、律にも同じことをさせる。
『分かりました』
『分かった顔をしないでください』
『顔は見えていません』
『そういうところです』
律は、少しだけ息を吐いた。その時、もう一つメッセージが来た。
『空欄さん』
『はい』
『最後の一行の前、空欄さんも止まりましたよね』
律は指を止めた。ミオリから、続きが届く。
『見えたわけじゃありません。でも、あの空白の時、空欄さんも止まった気がしました』
律は、舞台の方を見た。照明は落ち、スタッフがマイクスタンドを片づけている。さっきまでミオリがいた場所には、もう誰もいない。
自分が止まったかどうかは分からなかった。ただ、拍手が遅れたことだけは覚えていた。あの一拍を聞いて、自分の中でも何かが止まった。
『たぶん、止まりました』
そう返すと、すぐに既読がついた。
『私だけが、読めなかったんじゃないですね』
その一文は、責めているようでも、許しているようでもなかった。ただ、事実としてそこに置かれていた。
律は返信欄を開く。何かを打とうとして、やめる。メモアプリも台本も開かなかった。
会場の奥で、片づけられていくマイクが少しだけ揺れた。何も拾っていないはずなのに。まだそこに、さっきの空白が残っているように見えた。




