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第2話:匿名声優さんから、個別依頼が来ました

 個別メッセージには、既読表示がない。

 それが《コエバコ》の良心であり、不便な点でもあった。


 瀬名律は、画面に表示された一文をしばらく眺めていた。


『空欄さん。今日の台本のことで、少しだけ相談してもいいですか』


 送信者は、ミオリ。

 アプリ内で何度も名前を見たことがある演者。さっき、自分の台本に声を乗せた人。

 そして、一行だけ台本通りに読まなかった人だ。


 律は返信欄を開いた。

『はい』。打つ。短すぎる気がした。『大丈夫です』。足す。何が大丈夫なのか分からない気がした。『どうぞ』。さらに足す。

 三語並ぶと、こちらが何も考えていない人間に見えてきた。律は全部消した。その間に、もう一通届く。


『すみません、いきなり個別で。変だったら無視してください』


 律は少しだけ眉をひそめた。「変だったら無視してください」という文章は、無視されたくない人間が書くものだ。そう思ったあとで、自分も似たような文面を何度も打っては消してきたことを思い出した。


 律は、もう一度返信欄に指を置く。

『変ではないです。大丈夫です』

 今度は、送った。


 数秒で返事が来た。

『ありがとうございます。あの、さっきの台本なんですけど』

『はい』

『私、途中で一回止まりましたよね』


 律は画面を見つめたまま固まった。本人も、自覚していた。

 コメント欄の大半は「間の取り方がいい」と好意的に受け取っていた。でも、ミオリ自身はそれが正解ではないと分かっている。


 律は返信を打つ。

『止まっていました』

 少し考えて、付け加える。

『ただ、配信事故というほどではなかったと思います』


 すぐに返信が重なる。

『やっぱり止まってましたよね』

『はい』

『あれ、台本が悪いわけじゃないです』


 律の指が止まった。「台本が悪いわけじゃない」。

 それは一見、書き手への慰めに見える。けれど、おそらくは違う。

 この人は律を慰めたいのではない。

 自分の読み方に欠けていた何かを、こちらに見つけてほしいのだと思った。


『悪いという話ではないです』

 送った直後、律は後悔した。また、中身のない返事になった。


 ミオリからの返信は、少し間が空いた。

『空欄さんって、こういう会話でも空欄なんですね』


 律は画面を見て、初めて少しだけ笑った。

『名前のせいにしないでください』

『ごめんなさい、ちょっと言ってみたかったんです』

『読まれた側の気持ちも考えてください』

『読まれたのは私の方です』


 律の指が止まる。その返しは、予期せぬ鋭さを持っていた。


 ミオリは続けて送ってくる。

『あの一行、私、読んだというより、読まれた感じがしました』


 律は、画面の放つ光を見つめた。さっきの声が、脳裏に蘇る。

 ――少しだけ、腹が立った。

 上手い声ではなかった。けれど、その一行だけは、台本ではなく、ミオリ本人の方から出てきた気がした。


『どの一行ですか』

 律は、分かっていて聞いた。ミオリの返信は、弾かれるように返ってきた。

『「少しだけ、腹が立った」のところです』


 やっぱり、と律は確信した。椅子にもたれかかり、夜の闇に沈む窓を見る。

 そこには、表情の消えた自分が薄く映っていた。

 イヤホンはまだ耳を塞いでいる。配信は別の演者に移っていたが、音量はほとんど聞こえない。


 律は返信欄に文字を並べる。

『あそこだけ、声が違いました』

 送ろうとして、指が止まった。「違いました」だけでは足りない。かといって、何がどう違ったのかを書くのは危うい領域に踏み込む気がした。

(飲み込もうとして、失敗したみたいだった)

 そんな感想、いきなり送られたら恐怖でしかないだろう。律は打った文章を消した。


『あそこだけ、いつものミオリさんの声ではなかったです』

 今度は、送った。


 返信は、すぐには来なかった。律はスマホから目を逸らし、パソコンの画面へと意識を移す。台本ファイルは開いたままだ。

 ――その声だけ、台本通りに読まない。

 さっき書き加え、消し忘れていた一文が残っている。削除キーに指を置いた瞬間、再び通知音が鳴った。


『それ、困ります』

『いつもの声じゃなかったって、私が一番困ります』


 間髪入れずに次のメッセージが届く。

『いつもの声で読めると思ってたんです。ああいう子、いつもなら読めます。ちょっと面倒で、ちょっと拗ねていて、でも本当は来てほしい子。そういう役、よくありますから』

『でも、あそこだけ、読もうとしたら喉の奥で引っかかりました』


 律は、返信を打てなかった。自分が聴き取った違和感と、彼女が抱いた体感が、ほとんど同じ形をしていた。それが少し怖かった。


『読めなかったんですか』

 律の問いに、ミオリの言葉が短くなった。

『読めました。……読めたことにしただけです』


 律は、その一文を三度読み返した。

 コメント欄に溢れた称賛は、あくまで外側の、整えられた音に対する感想だ。


 律は台本ファイルに視線を戻した。

 あの台詞を読みにくく書いたつもりはない。


『読めたことにした音は、聞こえました』

 送信する。今度こそ、ミオリの返信が止まった。余計なことを書いた、という自覚はあった。それなのに、送信を取り消す気にはなれなかった。


 一分ほど経ってから、メッセージが届いた。

『空欄さん、怖いですね』

 律は画面を見つめた。直後の続きで、拒絶ではないことが分かった。

『でも、たぶん、相談してよかったです』


 律は息を吐き出した。机の上のシャーペンを無意識に転がす。芯の先が、また小さく机を叩いた。


『相談というのは、さっきの読みのことですか』

『それもあります』

『他にも?』

『はい』

 少しの間。

『次の配信で読む台本を、書いてもらえませんか』


 律は画面の文字をなぞった。予想していなかったわけではない。ただ、回避したい展開だった。

 あの一行の指摘だけで、十分だったはずだ。

 これ以上踏み込めば、自分はまた、余計な言葉を書いてしまう。


『即読み枠なら、投稿すれば誰かが読みますよ』

 律はそう返した。

『空欄さんに書いてほしいです』

『なぜですか』

『私が、読めたことにして逃げてしまうところを、書いてくれそうだからです』


 律の指が止まった。ミオリは、想像していたよりもずっと、逃げない人間だった。

 自分が読めなかった場所を正確に把握し、それを晒されることを恐れながら、それでもなお、もう一度そこへ手を伸ばそうとしている。


 律は返信欄を開いた。

『条件をください』

 送った直後、律は少し後悔した。引き受けるとは言っていない。だが、これは半分以上承諾したに等しい返事だった。


 ミオリから、すぐに返信が来る。

『かわいい子の話がいいです』

 律は怪訝そうに眉を寄せた。

『かわいい子』

『はい』

『それだけですか』

『それだけだと、空欄さん、絶対にかわいくなくしますよね』


 律は、思わず少しだけ笑った。

『偏見です』

『さっきの台本を書いた人に言われたくないです』

 それは反論の余地がない正論だった。ミオリは続ける。

『かわいい子です。でも、本当は怒ってます』


 律の指が、今度は別の意味で止まった。

『怒っている』

『はい』

『何にですか』

『それが分からないから、台本が欲しいんです』


 律は、画面を見つめたまま黙り込んだ。


 分からない怒り。かわいい声で隠している怒り。読めたことにしてしまう場所。

 条件としては、かなり悪い。悪いというのは、書けないという意味ではない。むしろ、書けてしまう気がするのが悪かった。


『配信日はいつですか』

『三日後です』

『短い台本でいいですか』

『はい。三分くらいで』

『登場人物は』

『女の子一人でお願いします』

『一人芝居ですか』

『はい』


 律は、そこまで読んで返信を打つ。

『一人芝居は逃げ場がないです』

 ミオリから、しばらく返事がなかった。少しして届いた。

『だからお願いしてます』


 律は、スマホを置いた。それから、パソコンの画面に向き直る。台本ファイルの白い余白。そこに、さっきの一文がまだ残っている。

 ――その声だけ、台本通りに読まない。


 律はその下に、新しい行を作った。まだタイトルではない。台詞でもない。ただ、次に書くべきものの輪郭だけが、少し見えていた。

 スマホがまた鳴る。


『それと、空欄さん』

『はい』

『文字だと、私たぶんまた上手く作ります』

 律は、画面を見た。

『通話で、相談してもいいですか』


 部屋の中が、少しだけ静かになった。律は返信欄に指を置く。「はい」と打てば済む。済むはずだった。

 けれど、ミオリの声を、次は台本越しではなく直接聞くことになる。


 律は、まだ開いたままの配信画面を見た。別の演者の声が、小さく流れている。そのどれも、今は遠かった。

 律は返信欄に、短く打った。

『十分だけなら』


 送信。すぐに返事が来る。

『十分で終わると思いますか?』

 律は少し考えた。

『終わらないと思います』

『じゃあ、十分だけお願いします』


 律は、また少しだけ笑った。

 通話開始の通知が、画面に表示された。

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