第1話:その声だけ、台本通りに読まない
瀬名律は、自分の書いた台本が「音」になる瞬間を見るのが苦手だった。
正確に言えば、聞くのが、怖かった。
匿名音声劇アプリ《コエバコ》。
夜十時を過ぎる頃、部屋の灯りを落とした学生や、仕事帰りの社会人、寝る前に誰かの声だけ浴びたい人間たちが集まってくる。
律はそこで、短い台本を投稿していた。
名前は出していない。アイコンも初期設定のまま。投稿者名は「空欄」。
「ふざけた名前」とコメントされたこともあるが、律は返信しなかった。ふざけているわけではない。ただ、名前を書く場所を埋めたくなかっただけだ。
『本日の即読み枠、次はこちら。作者さんは……空欄さん。タイトルは、えっと――』
イヤホン越しに、女の子の声が流れてくる。
ミオリ。
アプリ内では名の知れた演者だ。顔も年齢も出していないが、投稿されるボイスには毎回かなりのハートがつく。
明るい声も、泣く声も、怒る声も上手い。何より、コメント欄が欲しがっている声を出すのが上手かった。
『タイトルは、「屋上で待ってるふりをした」。……うわ、空欄さん、また変なタイトル』
〈空欄さん来た〉
〈タイトルの湿度よ〉
〈これ絶対刺すやつ〉
〈空欄台本、読む人を選ぶんだよな〉
律は机に肘をついたまま、画面を見ていた。
「読む人を選ぶ」
それは半分当たっていて、半分違う。律は、読む人を選んで書いたことはない。ただ、読めない人には徹底して読めないらしい。
台詞が少ない。
感情の名前も、ほとんど書かない。
そのせいで、読んだ人が勝手に間を埋める。
自分の声で、隙間をふさいでしまう。
律はそれが少し怖かった。
『じゃあ、読みます』
ミオリの声が、少しだけ変わった。
配信用の軽さが消えて、台本の中へ入る声になる。コメント欄の速度が落ちる。
――屋上で待ってるふりをした。
――本当は、誰にも見つけてほしくなかった。
――でも、誰も来ないと分かった瞬間だけ、少しだけ腹が立った。
『屋上で待ってるふりをした』
ミオリが読む。うまい。
声が台本にきれいに乗る。重すぎず、軽すぎず、少しだけ笑っているようにも聞こえる。
〈入りうま〉
〈はい好き〉
〈ミオリちゃんの低め声いい〉
律はコメント欄を見なかった。台本の二行目に目を落とす。
『本当は、誰にも見つけてほしくなかった』
ここも、きれいだった。きれいすぎた。
律はマウスの横に置いたシャーペンを転がした。芯の先が机に当たって、小さく鳴る。
(違う)
そこは、そんなに上手く読める場所じゃない。
見つけてほしくない、と言いながら、誰かが来ないことに腹を立てる。そんな支離滅裂な人間の台詞だ。
でも、ミオリの声はちゃんと整っていた。上手い演者の声だった。
やっぱり、自分の台本はこの人には合わない。
律がブラウザを閉じようとした、そのときだった。
『でも、誰も来ないと分かった瞬間だけ――』
一秒、ミオリの声が止まった。
配信事故と呼ぶには短すぎる。コメント欄も反応していない。
けれど律は、指を止めた。
『……少しだけ、腹が立った』
その一行だけ。彼女の声から、技術が消えていた。
いや、下手だったわけではない。ただ、さっきまでの「ミオリの声」ではなかった。
コメント欄が喜ぶ声ではない。聞きやすい声でもない。喉の奥に引っかかっていて、最後の「立った」が小さく不格好に潰れた。
まるでその台詞だけ、読む前に飲み込もうとして失敗したみたいだった。
〈今の間よかった〉
〈腹が立った、刺さる〉
違う。律は思った。
今のは「間」じゃない。演技の工夫でもない。
ミオリが、台本を読めなかった音だ。
『――あのさ』
配信画面の中で、ミオリが小さく笑った。
『この子、めんどくさいね』
コメント欄が笑う。律も笑えばよかった。けれど、笑えなかった。
ミオリはすぐに続きを読んだ。その後の台詞は、またいつもの「うまい声」に戻っていた。
でも律は、もうそこを聞いていなかった。
さっきの一行だけが、耳に残っている。
『少しだけ、腹が立った』
自分が書いた台詞なのに、そんなふうに聞こえるとは思っていなかった。律は台本ファイルを開き、該当箇所を見つめる。
画面上の文字は、ただの文字だった。
でも、あの声が通ったあとは違って見えた。
まるで、自分が書いたはずの台詞が、知らない誰かに一度奪われたみたいだった。
『以上です。空欄さん、ありがとうございました』
ミオリの声が明るく締める。律は、何も打たなかった。
いつもなら「ありがとうございました」とだけ送る。それくらいは礼儀だ。でも今日は、指が動かなかった。
代わりに、台本の空いている行に一文を書き込んだ。
――その声だけ、台本通りに読まない。
打ってから、すぐに消そうとした。その前に、通知音が鳴った。
アプリの個別メッセージ。送信者は、ミオリ。
『空欄さん。今日の台本のことで、少しだけ相談してもいいですか』
律は画面を見たまま、息を止めた。
返信欄には、まだ何も書かれていない。それなのに、なぜかもう、自分が余計なことを書いてしまう予感だけがあった。




