表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/22

第1話:その声だけ、台本通りに読まない

 瀬名律は、自分の書いた台本が「音」になる瞬間を見るのが苦手だった。

 正確に言えば、聞くのが、怖かった。


 匿名音声劇アプリ《コエバコ》。

 夜十時を過ぎる頃、部屋の灯りを落とした学生や、仕事帰りの社会人、寝る前に誰かの声だけ浴びたい人間たちが集まってくる。

 律はそこで、短い台本を投稿していた。


 名前は出していない。アイコンも初期設定のまま。投稿者名は「空欄」。

「ふざけた名前」とコメントされたこともあるが、律は返信しなかった。ふざけているわけではない。ただ、名前を書く場所を埋めたくなかっただけだ。


『本日の即読み枠、次はこちら。作者さんは……空欄さん。タイトルは、えっと――』


 イヤホン越しに、女の子の声が流れてくる。


 ミオリ。

 アプリ内では名の知れた演者だ。顔も年齢も出していないが、投稿されるボイスには毎回かなりのハートがつく。

 明るい声も、泣く声も、怒る声も上手い。何より、コメント欄が欲しがっている声を出すのが上手かった。


『タイトルは、「屋上で待ってるふりをした」。……うわ、空欄さん、また変なタイトル』


〈空欄さん来た〉

〈タイトルの湿度よ〉

〈これ絶対刺すやつ〉

〈空欄台本、読む人を選ぶんだよな〉


 律は机に肘をついたまま、画面を見ていた。

「読む人を選ぶ」

 それは半分当たっていて、半分違う。律は、読む人を選んで書いたことはない。ただ、読めない人には徹底して読めないらしい。


 台詞が少ない。

 感情の名前も、ほとんど書かない。

 そのせいで、読んだ人が勝手に間を埋める。

 自分の声で、隙間をふさいでしまう。

 律はそれが少し怖かった。


『じゃあ、読みます』


 ミオリの声が、少しだけ変わった。

 配信用の軽さが消えて、台本の中へ入る声になる。コメント欄の速度が落ちる。


 ――屋上で待ってるふりをした。

 ――本当は、誰にも見つけてほしくなかった。

 ――でも、誰も来ないと分かった瞬間だけ、少しだけ腹が立った。


『屋上で待ってるふりをした』


 ミオリが読む。うまい。

 声が台本にきれいに乗る。重すぎず、軽すぎず、少しだけ笑っているようにも聞こえる。


〈入りうま〉

〈はい好き〉

〈ミオリちゃんの低め声いい〉


 律はコメント欄を見なかった。台本の二行目に目を落とす。


『本当は、誰にも見つけてほしくなかった』


 ここも、きれいだった。きれいすぎた。

 律はマウスの横に置いたシャーペンを転がした。芯の先が机に当たって、小さく鳴る。


(違う)


 そこは、そんなに上手く読める場所じゃない。

 見つけてほしくない、と言いながら、誰かが来ないことに腹を立てる。そんな支離滅裂な人間の台詞だ。

 でも、ミオリの声はちゃんと整っていた。上手い演者の声だった。


 やっぱり、自分の台本はこの人には合わない。

 律がブラウザを閉じようとした、そのときだった。


『でも、誰も来ないと分かった瞬間だけ――』


 一秒、ミオリの声が止まった。

 配信事故と呼ぶには短すぎる。コメント欄も反応していない。


 けれど律は、指を止めた。


『……少しだけ、腹が立った』


 その一行だけ。彼女の声から、技術が消えていた。

 いや、下手だったわけではない。ただ、さっきまでの「ミオリの声」ではなかった。


 コメント欄が喜ぶ声ではない。聞きやすい声でもない。喉の奥に引っかかっていて、最後の「立った」が小さく不格好に潰れた。

 まるでその台詞だけ、読む前に飲み込もうとして失敗したみたいだった。


〈今の間よかった〉

〈腹が立った、刺さる〉


 違う。律は思った。

 今のは「間」じゃない。演技の工夫でもない。

 ミオリが、台本を読めなかった音だ。


『――あのさ』

 配信画面の中で、ミオリが小さく笑った。

『この子、めんどくさいね』


 コメント欄が笑う。律も笑えばよかった。けれど、笑えなかった。


 ミオリはすぐに続きを読んだ。その後の台詞は、またいつもの「うまい声」に戻っていた。

 でも律は、もうそこを聞いていなかった。


 さっきの一行だけが、耳に残っている。

『少しだけ、腹が立った』


 自分が書いた台詞なのに、そんなふうに聞こえるとは思っていなかった。律は台本ファイルを開き、該当箇所を見つめる。

 画面上の文字は、ただの文字だった。


 でも、あの声が通ったあとは違って見えた。

 まるで、自分が書いたはずの台詞が、知らない誰かに一度奪われたみたいだった。


『以上です。空欄さん、ありがとうございました』


 ミオリの声が明るく締める。律は、何も打たなかった。

 いつもなら「ありがとうございました」とだけ送る。それくらいは礼儀だ。でも今日は、指が動かなかった。


 代わりに、台本の空いている行に一文を書き込んだ。

 ――その声だけ、台本通りに読まない。


 打ってから、すぐに消そうとした。その前に、通知音が鳴った。


 アプリの個別メッセージ。送信者は、ミオリ。


『空欄さん。今日の台本のことで、少しだけ相談してもいいですか』


 律は画面を見たまま、息を止めた。

 返信欄には、まだ何も書かれていない。それなのに、なぜかもう、自分が余計なことを書いてしまう予感だけがあった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ