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第18話:録音ではなく、今の声で

 翌朝、律は録音ファイルを送らなかった。

 昨日、自分で自分の声を聞いた。嫌だったが、消したくはなかった。台詞にも、まだしなかった。けれど、それで何かが決着したわけではなかった。


 スマホの中には、名前のない録音が澱のように残っている。メモアプリには、昨夜打った一行が浮いている。


>まだ、台詞にしない。


 その言葉は、昨夜の自分には確かに必要だった。けれど、朝の光の中で見ると、それだけでは足りない気がした。

 台詞にしない。名前も付けない。消しもしない。では、その声をどうするのか。

 律は録音ファイルを開きかけて、指を止めた。再生はしない。送信ボタンにも触れない。ファイルは、ただそこにあるだけで十分に重かった。


* * *


 昼休み、ミオリからメッセージが届いた。

『送るつもりですか』

 主語はない。けれど、何についての問いかは明白だった。

『分かりません』

『送らないつもりですか』

『それも、分かりません』


 少しの間を置いて、次が届く。

『録音を送るのは、少し「楽」ですよね』


 律は画面を見つめた。

 楽。その言葉が、思っていたよりも深く刺さった。ファイルを送れば、声は自分の身体から切り離される。相手はそれを再生し、停止し、巻き戻し、何度でも聞くことができる。律はその場にいなくていい。

 そう考えた瞬間、録音ファイルが急に、声ではなく無機質な「物」に見えた。


『楽かもしれません』

『だから、嫌です。……でも、送らないままにされるのも嫌です』


 律は返信欄に指を置いた。

『少し考えます』

『はい』

 ミオリの返事は、それだけだった。


* * *


 放課後、ナナセからも連絡が来た。

『録音は、ファイルで送るんですか』

『たぶん、違います』

『違う、というのは』

『ファイルとして渡すのは、少し違う気がしています』


 ナナセの返信は、ゆっくりと届いた。

『分かる気がします。……ファイルで届いたら、私はたぶん「聞けて」しまうので』


 律はその一文をなぞった。聞けてしまう、読めてしまう。彼女の語るその能力は、いつも少しだけ怖い。

『何度も聞きますか』

『たぶん、聞きます。聞いていいか分からない声でも、ファイルとして届いたら、それは「聞ける形」になってしまうから』


 声が、他者に扱える形になる。そのことが、今は怖かった。

『では、ファイルでは渡しません』

『それは、少し困ります』

『どうしてですか』

『聞けないので。……でも、たぶん、そのほうがいいです』


* * *


 夜、律は三人の通話を開いた。公開用でも、運営がいるわけでもない。ただ、昨日の続きをどう扱うか、その確認のためだけの場。

 最初に出たのは、ナナセの声だった。続けてミオリ。律は息を吸い込む。

「空欄です」


 しばらく誰も話さなかった。ミオリが先に沈黙を破った。

「録音、送らないんですか」

「送らないです。ファイルとして渡すのは、違う気がしました」

「じゃあ、聞かせないんですか」

 ミオリの声は硬かった。


 聞かせない。聞かせる。その二つの間に、うまく言葉が置けなかった。

「今の声なら」

 律は、ようやく言った。

「今の声なら、少しだけ、置けるかもしれません」


 ナナセが、ゆっくりと言う。

「録音ではなく、今の声で、ということですか」

「はい」

「それは、残りません」

「残らないわけではありません」

 ミオリが言った。

「私たちには残ります」


 ミオリの声は少しだけ低かった。ナナセが短く息を吸う。

「そうですね」

 その返事は、一拍だけ遅かった。


* * *


 律はスマホを握り直した。ただ、あの録音と同じ場所に、今の声で触れる。

 そう決めたはずなのに、声はなかなか出口を見つけなかった。通話のなかに、音のない時間が積み重なっていく。


 律は肺を空気に満たした。

「切らない理由を、まだ――」


 そこで、止まった。

 録音と同じ場所だった。けれど、昨日と同じ声ではなかった。昨日の録音は、閉じられた場所に残されていた音。今の声は、二人のいる場所で立ち止まった音だった。


 律は、その続きを言えなかった。

 長い沈黙のあと、ミオリが言った。

「同じところで止まりましたね。……でも、同じじゃなかったです」


 律は、目を伏せた。

「違いましたか」

「違いました。録音の方は聞いていません。でも、たぶん違うと思います」


 ナナセも、静かに言う。

「今の声は、聞いていいか分からないまま、ここに置かれた声でした」


 律は呼吸を止めた。ナナセの言葉は少し整いすぎている気もしたが、今はそれに救われた。

「置けていましたか」

「置けた、とは言えないと思います。……でも、送られたのではありませんでした」

「それは、少し良かったです」

 ミオリが小さく息を吐いた。


 律は、何も言えなかった。良かった。でも、読めたわけでも送れたわけでもない。止まっただけだ。

 それでも、ファイルを送るのとは違う場所に、声は置かれていた。


* * *


 通話を切ったあと、律は録音アプリを開いた。名前のない録音は、まだそこにある。

 再生はしない。送信もしない。ただ、その録音はもう、唯一のものではなくなっていた。

 録音の中で止まった声。通話の中で止まった声。どちらも、まだ台詞にはなっていない。


 ミオリからメッセージが届いた。

『録音、送らなくていいです』

『聞きたくないんですか』

『聞きたいです。でも、今は送られたくないです』

『分かりました』

『分かった顔をしないでください。顔は見えていませんが、声は聞きましたから』


 その一文で、律の指が止まった。ミオリはそれ以上、何も送ってこなかった。


* * *


 ナナセからも、少し遅れてメッセージが来た。

『今日の声は、録音ではなかったですね。だから、私は「聞けて」しまいませんでした』

『聞けませんでしたか』

『聞きました。でも、聞けてしまったわけではありませんでした。……困る声を、そのまま聞くことは、たぶん必要ですから』


 律は返事を書けなかった。

 困る声。送られなかった声。でも、聞こえた声。それは、まだどこにも置ききれない。


* * *


 深夜、律はメモアプリを開いた。

『まだ、聞き方を知らない声』

 本文欄には、二つの文がある。


> ここから先は、声の速さで聞いてください。

> まだ、台詞にしない。


 律は、画面の下に一行を足した。


> 録音としては、まだ渡さない。


 それは、逃げではない。

 少なくとも、そう決めつけるのは早い気がした。

 ファイルは送っていない。けれど、声はそこにあった。

 録音には、まだ名前がない。通話の声は、どこにも残っていない。それでも、二人には届いてしまった。


 律はスマホを伏せた。消していない声と、残らない声。

 その両方が、今は同じ場所にあった。

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