その93・実行は計画的にすること
読み返したら途轍もなく読みにくかったので若干編集しました。
カチリと。
硬質な音を落とし扉の隙間が広がれば、蝶番が間延びした声を上げる。
ほんの少し踏み込んだブーツの靴底が、砂を噛むような音をコンクリートの上に転がす。
普段は全く気にならないそれらが妙に耳に付く中、裏口の扉から頭を覗かせた河井は、速やかに先の廊下へと視線をやった。
突き当りまで続く直線の通路に、人影はない。
ほっと。
身を滑り込ませた裏口の扉を速やかに後ろ手に閉じ、目元からゴーグルを引き下げ一息を付けば、オーバーヒート気味だった河井の頭から少しばかりの熱が抜けた。
(……こんな走らなくても、良かったかもな)
檻に押し込んでおいた奏が気付けば背後に迫っており、その包丁をギラリと振り上げてくる――などという恐ろしすぎる想像に。
山姥から逃げる小僧の如く可能な限りの全力疾走で帰還してしまった河井は、上がった息を整えるため、ヘルメットを後頭部へずり落としつつ踏み出す歩調をやや緩めた。
良く考えれば鉄の枷を引き千切るなど、人間には到底不可能なことである。
(……不可能、だよな? い、いや、いやいやいや。不可能に決まってんだろ、何考えてんだ俺)
鎖を引きちぎる女の図など、全く持って馬鹿馬鹿しい妄想だというのに。
自分は一体何を気にしているのか。もしや緊張しているのか、何を緊張しているのかと。
(緊張……)
今更に出てきた言葉に、一直線に地下研究室へ向かっていた河井の心臓がきゅっと萎縮する。
じぶんが今から成そうとしている事についてを、改めて考えたからだ。
今から、じぶんは楠を殺す。
まずそれに対する抵抗感は当然、河井の中には無かった。
彼にとっての楠は、もう上司でも何でもなかったからだ。
廃墟で発見した色あせた写真に、写った姿を見てしまった今。楠との、まるで居残り勉強をさせられているかのような報告書の書き直し時間は、河井の中で完全なる黒歴史と化している。
(……まぁ、それだけ進化した感染者って事だからな)
感染者に教鞭をふるわれた過去など、ぶっちゃけ恥以外の何ものでもないが。
そのあたりに物思う感情を頭から追い出すことにし、足を進めた河井は、感染者を殺すことについてのみを考えることにした。
対象に、情けは無用。
知人、先輩、そして友人やら。そういった数多くの者達が人ではないものに成り果てる姿を、残念ながら何度も見てきた河井にとって、重要なのは、いかにして死なず感染者を始末するかという点である。
(いつもとやることは、変わんねぇけど……問題は一発で仕留めれるかってとこだよな)
地下へ続く階段の入口には、いつも通りに人気がない。
“応援を呼ぶ”という選択肢が河井の思考上に浮かばなかったのは、まさかとは思っていても繋いできた奏の存在が、その無意識下で彼の足を急がせていたからだ。
そんな、背後からの得もいわれぬ圧力。そして未知数である標的の能力値に、河井の心臓がまた少しばかり、鼓動を早めた。
相手は、間違いなく特殊型。引きこもりを演出してきた感染者が、その白衣の下のなまっ白い腕にどれほどの力を隠しているのかと。
(…………チャンスは一発だな)
それも、かなり隙を伺ってからの一発。
でないと言語を操り、知能を持つ感染者に対し、先など無い気がしてならないと。
改めて身を引き締めた河井は、縮まった地下研究室までの距離に、その足音を徐々に殺しはじめた。
生き物は案外、消える音にも敏感なのだと教えてくれたのは、一体誰だったかなんて。不意に浮かんできた記憶がぼんやりと、河井の頭の中を巡り始める。
“外”の者が研究所に属するきっかけ。
それは大体において、“部隊の者に拾われたから”だ。
河井自身、そんなお決まりの流れの元、研究所にやってきた人間のうちの一人で。
しかし彼を拾った部隊の者達は、いつのまにか全員いなくなっていた。彼の師であった存在も、彼の目の前で息絶えた。
そうして、頼れる存在が消えると共に、頼られることが少しずつ増えて。
河井は今更ながらに現在、ひとりであることに気が付いた。
「……!?」
ひとり。
それは、非常に無謀な響きである。
けれど悠長に仲間を集める時間があったとも思えず、相談するにしても、一体誰に頼るというのかと。
反射的な結論を河井の頭が弾き出すより先、その耳が微かな物音を捉えた。
「どういう事だ楠、お前何をした!?」
実験室の方から、漏れ出てきた声。
瞬時に空っぽになった頭で速やかに忍び寄った先、扉の隙間に耳を当てた河井は、中の様子へと全聴覚を集中させた。
「――くさい!! 臭すぎる、なんだこの臭いは!?」
「ああ……そう。……臭い?」
「明らかに臭いだろう! 正気の沙汰ではない! 鼻が、鼻が……っ!!」
何か実験でも行っているのか。
廊下まで届くほどの騒ぎの原因が、想像よりはるかに間抜けていた事に若干眉を寄せた河井の中、遅れて浮かんできた疑問があった。
奏が何処までを知っていたのかは結局、はっきりしないままだったが。楠と明らかに付き合いが長そうな飯島は、どうなのか。
中々に重要な部分である気がしてならない疑問を解明する意味も込め、河井は中から聞こえてくる2種類の声へとぴったり聞き耳を立てる。
「……はぁ。良いんだよ、それで。それで成功なんだから」
「? どうかしたのか」
「元はといえば君のせいだよ」
普通で考えるのなら。
付き合いが長ければ長いほど、その真相に気づいている可能性は高かった。
けれど感染者を前に、ここまで呑気な会話が出来るものなのか。
否、そもそも奏はいつだったか、“以前にも言葉を話す感染者に会ったことがある”と言っていたではないかと。
(まじ……かよ)
衝撃的な事実を思い出してしまった河井は、彼女の言葉が指していた対象が楠であるような気がしてならず、憤りを通り越した無感動状態に陥った。
奏は、やはり全てを知っていたのだ。そして彼女が知っている以上、飯島が知らない訳が無いと。
「君が勿体ない勿体ない言うから。実験に使う臓器も感染者ので代行する羽目になったんだよ?」
「当然だろう。そうでないとお前の研究が完成する前に人類が滅亡する」
「まぁ……そうだけどね?」
しかし。
どうにも聞き逃せない言葉が耳につき、“親が親なら子も子”というこれ以上無く現状にぴったりな諺をぷわぷわ脳内に浮べていた河井は、はっと我に返った。
「お前、間引いていただろう」
そして次の瞬間。
我に返ったばかりの河井の頭は、疑問符によって埋め尽くされた。
聞き取った言葉の意味は理解できても、本能が拒否するかのように、何故かその思考回路は“何を”に辿り着こうとしない。
「あれの探索に人を出していたと、いつだったか言っていたな」
「あれ、ってX-084?」
「そうだ。結局あれは河井君が先の任務で始末したらしいが……お前があれの探索に人を出していたということ事体、初耳だったからな。調べさせてもらった」
「……処分出来たならそれで良いんじゃない? 終わった事に。暇だね君も」
“あれ”というのは文脈からして、前回の任務で己が打ち抜いた感染者のことらしい。
焦燥と不穏にかき回された頭で、何とかそれだけは理解した河井は、瞬きのたび視線を無意味に四方へと彷徨わせていた。
真っ白な廊下には人影ひとつ無い。得も言われぬ雲行きの答えは、何処にも転がっていない。
会話の先を、追うしかない。
「話を逸らすな。お前の出した探索任務――ベテランの帰還者数がゼロである理由を、説明してもらおうか」
瞬間的に、ドアノブへと伸ばされた河井の手。
それは、すんでのところで止まった。
答えを求めたからだ。
しかし、只それだけによって機能していた河井の自制は、瞬時に打ち砕かれることになる。
「だって、そうするしか無いよね?」
偶然ではなく作為。
研究所に古株が、残っていない理由。
単純な疑問に対する答えは驚くほど簡単なもので、それを理解した瞬間にはもう、河井は目の前の扉を開け放っていた。
聞き逃せるはずも無い暴露を前に、扉一枚という状況はあまりにも薄く。
広がった見慣れた光景の中、机の角に腰掛けていた飯島の目が僅かに見開かれたが、当然それに反応を返す余裕など無く河井はただ一点のみを注視した。
「……どういう事っすか。全部、仕組まれてたって事っすか?」
けれど。
いつものように椅子に腰掛け、いつもより気だるげに机に突っ伏した後ろ姿は、第三者の介入に顔を向けることすらしなかった。
ざわりと。
背を撫でたのが、悪寒なのか慟哭なのか。それすら分からないまま、河井は喉にせりあがってきた言葉を衝動に任せ、吐いた。
「――ッ、全部! 全員あんたが殺したのか!?」
しんと、静まり返った室内。
やはり身じろぎすらしない白衣の後ろ姿に、河井の表情が歪む。
信じられなかった。それ以上に、許せなかった。
湧き出てくる苦さと圧迫感に、息の根すら止められそうになり。河井が強く奥歯を噛み締める中、それはぽつりと落とされる。
そういえば、と。
溜息のような声と共に、机から上体を起こした楠が、くるりと腰掛けていた椅子を回転させた。
「君は生きて帰ってきたね」
前髪に隠された目元の下、弧を描いた唇。
それを視認すると同時、河井は拳銃を抜いていた。
外す気は無かった。
挑発するかのように小首を傾げた、いっそ不気味なほど無防備に見えるその表情の向こう。
3発の銃声は脳幹に突き刺さり、対象は瞬時に沈黙する。
はずだった。
「ッ!!?」
ひるがえった白衣。重なりすぎた音はもはや判別不可能で。
見開かれた河井の視界の中、弾き飛ばされた椅子が壁に激突し、明後日の方向へ飛んでいく。
沈黙する筈だった対象は着弾点から少しばかりずれた位置で――何故か、ぽけっとその口を半開きにしていた。
何が、起こったのか分からない。
そう言わんばかりの表情からして、尻餅をつく寸前だった楠が、現状を把握しきれていないことは明らかで。
同時に河井は目の前の光景を、把握するも理解しきれなかった。
露骨な、溜息が落ちる。
「……お前は、何をやっているのだ」
それは、椅子を蹴り飛ばした張本人によるものだった。
「……君こそ、何やってんの?」
問い返す楠の身体を、まるで猫の首根っこを掴み上げるかのようにしてぶら下げている、飯島の腕。
そこに開いた銃痕の黒い穴からは、更なる黒が滲み出ていた。
この章はここで終わりです。
次は最終章になります。




