その92・我侭になること
どうして、こんなことになるのか。
どうして、こんなことになってしまったのか。
次々に転がり出てくる疑問に段々重くなってきた頭を、奏は立てた両膝の上に落とした。
力が足りなかったからか。決断力が足りなかったからか。それとも、自分が間違っているからなのか。
最後のそれだけは否定したくて、額を膝にぐりぐりと擦り付ければ、奏の耳には「きゅきゅっ」というゴーグルの場違いに明るい声が届く。
(…………くっそ)
苛立ちを誤摩化すよう。
ぎゅっと閉じられた奏の視界の裏側、浮かび上がったのは河井が去り際に落とした言葉だ。
お前は人間だろう、と。
彼は言ったが、今になって思えばどうにも「人間なんだから当たり前だろ」と言われたような気がすると。
奥歯を噛んだ奏自身は、確かに人間だった。
そして感染者は、人類の敵だった。
ゾンビとは――生ける屍。つまりは、そういう事らしいと。
辞書が結論を提示した時から、それよりもずっと前から、全ては始めから分かっていた事だったのだ。
感染者の事を好意的に見る者は、いない。人類にとって、感染者は全て敵である。
“呻き声と共に餌を求めて徘徊する腐ったゾンビ”も、“人の形を保ち言葉を話し時たま笑ったりする感染者”も、本質は同じものなのだという事くらい、奏も頭では分かっていた。
そして、人間である以上“人類の敵である生物を排除したい”という考えを持つのは、当たり前のことだという事も。
奏は、分かっていた。
(着ぐるみの中身は一緒……ってことか)
感染者の本質を見ているぶん、河井の考え方は非常に腹立たしい事に、正しい。
外見も性格も関係ないのだ。
感染者が生ける屍である以上、ゾンビが敵であるという一般論はどう足掻いても変わらない。いつかは肉となる運命の家畜に情をうつす者が馬鹿なのと同じである。
「……。」
散々な気分で顔を膝に埋めていた奏は、そうしているうち、更に酷い気分になってきた。
全てが手遅れで。自分はただ、膝を抱えて座っている事しか出来ない。
そんな現状は、彼女の中の既視感までをも呼び起こす。
10年前のあの日から――そして大切なものを奪われたあの時から、自分は一歩たりとも進めていないんじゃないかと。
奏は手にしたままだった鎖を強く引いた。耳障りに軋む金属音が反響するだけで、何も変わらない。
目をつむったまま勢いよく頭を上げれば、ヘルメットが背後の壁にゴチンッとぶつかる。ゆっくりと目を開ければ、灰色の天井が小窓からの光に柔らかく発光しているように見え、細く、長く吐く筈だった息が震える。
このまま身体を横に寝かせればまさに、体育館で寝泊まりをしていたあの日のままだなんて。
貧弱な子供のようにコンクリートに体温を奪われながら、自虐的に視線を正面へ戻した奏は――――次の瞬間、盛大に後頭部を壁にぶつける羽目になった。
「いッ……!?」
条件反射といって良い速度で引かれた身は、背後の壁の存在をすっかり忘れていたらしい。
ぐわんぐわんと衝撃を反響させるヘルメットの中、奏の脳は視神経からの情報うけ、心拍を即座に跳ね上げさせている。
「な、なな……何してんの?」
「お前を観察している」
格子越しの人影は、これ以上無く堂々とした、仁王立ちだった。
「ぃ――っ!」
いつから居たんだ、と。
フードを被った人影へと、向けかけた問いを慌てて飲み込んだ奏の顔面には、現在かなりの熱が集中していた。先程まで自分がひとり、独りだと思い込み、何やらごそごそ不審な挙動をとり続けていた事を思い出したからである。
正直、かなり恥ずかしい。自覚はしていなかったが、もしかすると独り言を漏らしていたかもしれない。
そんな羞恥に身体をプルプルと震わせながらも、なけなしのプライドで固定されていた奏の視線の先、依然観察を続けているらしい感染者様はやがて腕を組み、その首を軽く傾ける。
「お前こそ何をしている」
「な、何って……」
なんで居るんだ、という問いも、奏は考えた結果飲み込む事にした。
彼の唐突な出現は、よく考えれば毎度のことだったからである。
「また“任務”とかいうやつか」
「……違う。…………ってか、それどころじゃない、かも」
とりあえず、疑問符を浮かべている鴉へと。
答えを返そうとする奏だったが、音も無く湧いた相手の姿にパーになったその頭の中は、中々に纏まってくれない。
「任務とか言ってる場合じゃなくて……その、研究所自体が……危ない状況というか」
「危ない?」
ぽつぽつと落とした纏めは、少々曖昧だったようで。
逆側に首を傾けた鴉の目がゆっくりと瞬きするさまに、奏は丁寧に言葉を選びなおすことにした。
複雑な現在状況は、実のところ彼女自身、纏められているようできっちり纏め切れていなかったりする。
「えっと……河井さんが、ちょっと色々知っちゃったから。下手したら多分、研究所が……いや寧ろ河井さんが危ないかも」
「意味が分からん。だがとりあえず、“その他”など放っておけば良い」
「ほっといたら今度は研究所が危ないの。まぁ簡単に言ったら……壊れる?」
間抜けた疑問符が自分自身の耳についた途端、奏は己の肌が泡立つのを感じた。
氷にもたれ掛かったように背筋が一気に寒くなり、普段上に強張った彼女の表情に、仁王立ちのまま鴉がまたひとつ、不思議そうに瞬きをした。
「良く分からんが。つまり、“その他”がお前の巣を破壊しようとしているという事か」
「そんな怪獣映画的な感じではないけど……まぁ、そういうこと。でも止めようと思っても、どうやったら河井さんを止めれるのか……分かんな、い」
「壊される前に壊せば良いだけだろう」
さも当然と言わんばかりの声を落とされ。
己の心臓の落としか聞こえなくなりかけていた奏は、いつのまにか下ろしてしまっていた視線を弾かれたように上げた。
錆を擦るような金属音と共に、格子が開く。足を進める鴉の無感情な瞳の上、フードから零れる金髪が、小窓からの明かりにぼんやりと透けている。
「……壊すって、河井さんを? 殺すってこと?」
「そうだ。お前達はそもそも、食いもしないのに同族を殺す種族だ」
「それは、そうかもしれないけど……」
「機会はいくらでもあった。お前は何故、“その他”を殺さなかった」
ぴたりと。
足を止めた鴉にほぼ真上から見下ろされ、僅かに見開かれた奏の瞳。それはすぐさま、鋭く細められた。
一瞬の耳鳴りを呼ぶような無音の中、両者の視線は微塵も動かない。
「……あんたいつから見てたの」
「始めからだ」
はじめから。
具体的なようで、全く具体的ではないそれがゆったりと鼓膜に染み込めば、奏の肩に知らず込められていた力が抜ける。
「……なら、分かるだろうけど」
「……。」
「無理。河井さんを……殺せるわけない」
考えてみれば、鴉は本当に、“始めから”を知っている。河井との初任務は、そういえばコイツとの再会から始まったのだと。
近いようで遠い、けれど振り返れば俄然鮮やかな記憶を、奏は瞬きの裏側でどこかぼんやりと眺めた。
大口を叩いておきながら、瞬時に鴉に背後をとられた間抜け面。
寄せられた眉の下で紡がれる言葉はどうにもみみっちく。
思えば始めから、言い合いの数は多くて。
考え方からして本質的に合わない筈なのに、何故か奏は、河井を嫌いだと思ったことが無かった。
彼が正直だったからだろう。汚くなかったからだ。
言葉の裏を警戒する必要のない相手というのは、少なくとも奏にとっては居心地が良かった。
「つまり。お前は“その他”に巣が破壊されても良い、と思っているのか」
さらりと。現実を突きつけるかのように落とされた、清々しいどころか直球すぎる鴉からの言葉に。
奏は眩しいものを見るかのように細めていた視界を慌てて左右に振った。それとこれは話が別である。
「っ、思ってない。思ってない、けど……」
「けど何だ。巣も壊されたくないが、“その他”も殺したくないのか」
その通りです、なんて。
のさばる事も出来ず、奏は視線を床へ流した。
「そりゃ……あんたに言わせりゃ身の程知らずで、分不相応なんだろうけど」
けど。
気持ちは時として、現実と全く折り合いがつかない。
それを人はワガママと呼ぶ事を自覚していた奏は、けれど、鴉になら全てを吐露しても良いような気がした。
「無理だった。何度も考えたけど、殺せるわけなかった。……そりゃ止めないとマズい、マズいって。何度も思った。何か方法があるんじゃないか、って」
「……。」
「でも考えてる間に障害物は突破されるし、お札は蹴り倒されるし、もうどうすれば止まるのか分かんなくて……でもその割に河井さん、背中は無防備だし? 本っ気で蹴り倒したくなったけど、そんなの一時凌ぎにしかならないって分かったから。だから……止めるには殺すか、ドラム管の中に石と一緒に詰めて海に沈めるくらいしかないって分かったけど――」
自分は、我侭なのだろうか?
そんな酷く正直な疑問が、飲み込む予定だった辛酸を奏の口から吐き出させる。
「どっちも……どっちも無理だった! ……っ、でもそのせいで結局、全部が危なくなってる……っ」
河井を見逃せばどういった結果がついてくるのかくらい、奏には分かっていた。
彼は感染者と見れば即殺するほどに、感染者という生き物を嫌っている。
そんな男が研究所の過去に触れ、全力で動く以上、楠は無事でいられない。
そして楠に銃口を向ける以上、河井も無事ではいられない。
研究所の裏側の露見により被害が何処まで広がるかなど、奏は考えたくもなかった。
凄惨な結果は、目に見えていた。
にもかかわらず河井を阻止するべく行動出来なかった自分は今、どれだけみっともない存在に成り果てているのだろうかと、奏はたまらず顔を伏せる。
「私は……こんなのを、求めてたんじゃない……ッ」
確かに、河井が言うように研究所のあり方は間違っているのかもしれなかった。けれど、少なくとも研究所は奏にとって、居心地の良い場所だったのだ。
任務を繰り返すうち、自然と“帰る場所”になっていた。
そんな居場所が普通だとか一般常識だとかいうものによって、荒らされるのをただ見ているだけなのなら。一体、自分は何のために強くなったのかと奏は思う。
ぎちりと、握りっぱなしだった鎖が彼女の手の平に食い込むが、どさくさに紛れてはめられた足枷は外れない。
けれど抜いた武器を向ける先が見つからない限り、足枷が外れたところで大した意味は無いのかもしれないと。
「お前はどうしたい」
はっと。
混濁し始めていた頭を上げた奏は、そこにあった鴉の仁王立ちに、数回その目を瞬かせた。
「お前はどうしたいのかと聞いている。決めろ。今すぐにだ」
「わ、私は……」
自分がどうしたいのか。
どこか苛立たし気に細められた鴉の視線に反射的に危機感を覚え、瞬間的な結論を急いだ奏の脳は、言葉より単純なものを選ぶ。
「……無くなって欲しくない」
白い廊下。
シミのついた鍛錬所。
奏の脳が選択したのは、切り抜いたかのような音の無い映像だった。
クリーム色の食堂の隣の席と、いつだって机に向かい続けていた白衣の後ろ姿。そして、言い合いながらも肩を並べられる相手。
鮮やか過ぎるそれらに目が眩み、噛み締められた奏の奥歯がギチリと軋む。
「全部。全部、いるの。もう絶対に無くしたくないし、殺すのも死なれるのも絶対嫌。我侭でも身の程知らずでも良いから、河井さんも所長も楠さんも全員――全員無事でいて欲しいだけ!」
「そうか」
鋭く。
振り上げられた鴉の靴底が、落ちる。
ガギンッと。硬質で酷く鈍く響いたそれに瞠目の目を向けた奏は、己の足首から伸びる鎖の先が、コンクリート壁の一部ごと床を転がっている様をみた。
「確かにお前は身の程知らずだ。分かっているのなら、足掻け」
靴底でコンクリートの欠片を転がしていた鴉に腕を引かれ、くんっと高くなった視界に、振り返った奏はその目を瞬かせた。
「その脆い足で走れ。無様な選択をしろ。……何もしないのはつまらんだろう」
短く。
鼻から抜けた息の音と、僅かに弧を描いた鴉の口角。
どこか楽しげなその瞳は、いつだって上から奏を見下ろしていた。
「鴉……」
「なんだ」
ゆっくりと、上げられた奏の右腕。
その手首をしっかりと掴んだ鴉の手のひらは、いつだって彼女の手を引いていた。
「好き」
引かれた筈なのに、まるで押されたみたいだなんて。
吹き抜けるように力の戻った足で踵を返し、奏はその脳内に研究所までの最短距離を展開する。
幸い、有刺鉄線とトラバサミトラップによって、河井の疾走は阻まれている筈だと。
檻の向こうへ。そして定めた目標へと、奏の足先は今、直線を描く。
生き物は、本能に忠実だった。頭の中にしかない理屈や結論は、決して正しさでは無い。
足掻くこと。走ること。まだ間に合うと、思い込むこと。
考えるのは、ただそれだけで良かったのだ。
「そんな事より」
「は!?」
「俺に何かいう事は無いのか」
「へ!?」
しかし。
駆け出そうとした端からぐわしっと肩を掴まれ、虚をつかれた奏が振り向けば、そこには何故か目を据わらせた鴉がいる。
何故、何を怒っているのか。
そして、“そんな事”とは何事か。
正直ぽろっと口から零れたそれを、どさくさに紛れ言い逃げしようとしていた奏の中には今、鴉の謎の不機嫌により、多彩な疑問が沸いてきている。
「鎖を千切ってやった俺に何か言う事は無いのかと聞いている」
「…………えー……あ、ありがとう?」
「それで良い」
肩にかけられた手の力と共に、鴉の口元がふっと緩む。
そういえばこいつ最近良く笑うようになったな、だなんて。
劣化しているのか進化しているのか良く分からない自分と共に、確かに変化していっているらしい鴉の方へと、奏は僅かにその身体を向き直させてみた。
「あ、あのー……一応さっきのは重大な発言だったんだけど」
「何がだ」
瞬きすらしない鴉の瞳。
やはり、どうにもちょっぴり噛み合わないと。
奏は斜めに視線を流した。頭をかきたい気分である。
ただ、今はとりあえず急がねばならない時なので。
「……後で言う。ちゃんと言う。だからその時は、ちゃんと聞いてくれる?」
「お前がそこまで言うのなら、聞いてやらんでもない」
一瞬目を見張った奏のマスクの下、すぐさま口角が上がる。
噛み合わないのなら、噛み合う様にすればいいのだと。
視線を前に戻した奏は跳ねた鼓動にあわせるよう、力強く地を蹴った。何だかいつもより早く走れるような気がした。
――と、いうより。
現状はいつもより早く走らなければ、かなりマズイ状況だった。




