その94・脅威の優先順位を速やかに決定すること(※挿絵あり)
つんざくような警報は、所内の者すべての耳に突き刺さった。
どこか痺れるような振動までをも伝えてくるブザー音に混じり、警告アナウンスの声が無機質に繰り返される。
『予備実験研究室の主電力が落とされました。危険ですので、研究員は速やかに避難してください。繰り返します。予備実験研究室の主電力が――』
警告は当然、河井の耳にも届いていた。
一体、何が起こったのか。
そんな疑問に酷く動揺を刺激されつつも、けれど彼の視線だけは目の前の二人から一ミリたりとも外される事は無い。
「……なんだ?」
そんな中ぽとりと、呟きを落としたのは飯島だった。
しかし彼の方はすぐさま答えのありかを悟ったらしく、その視線を地面に下ろされた楠の方にじっとりと流した。
対し、白衣のおしりを軽く払っている楠は――椅子を吹っ飛ばされた衝撃から、どうやら完全に立ち直っており。
向けられたそれに気が付くと共に、あははとその口元に普段の笑みを浮べた。
「ああ、これね。火災報知機ならぬ発砲報知器? 火薬の燃焼反応に反応するよう改造しといたんだよね」
「お前は……お前は何をやっているのだ……」
「こんな時のための保険?」
飄々と言ってのけた口。
それは飯島の眉が寄るより先、ぐっとへの字に折れ曲がった。
「ってか。君こそ何やってんの? ちゃんと避けなよ」
「お前がとろくさいから私が代わりに撃たれてやったんだろう! それより――」
「僕に俊敏さを求める方が間違いだよ。……さっさと逃げれば?」
はぁっ、と。
腕を組み、お返しといわんばかりの溜息をあからさまに落とした楠に、引き金に掛けられっぱなしだった河井の指先が僅かに跳ねる。
銃器を扱うものとしてあってはならないそれは、彼の動揺と尖った神経をこれ以上無く顕著に表したものだ。
「逃がすと……思ってんのか」
正直、河井の頭は混乱していた。
それでもいま成さなければならない事だけは分かり、瞬刻、張りなおされていた警戒の糸。
凝固した時間の中、不気味なほど普段どおりの挙動を見せる二人の気配は、見定めるように河井を観察し続けている。
「そういう問題じゃないよね」
「……?」
「君じゃこいつには勝てない」
やがて口を開いたのは楠だった。
ひらひらと顔の前で手を振ってみせるその様に、河井は詰めっぱなしだった息を慎重に吐いた。
確かに。
先程の反応速度は河井の想定外だった。鴉と同等か、それ以上か。
しかし何より彼の手段の数を圧迫するのは、把握しきれていない現状なのである。
河井の目の前には、ぼさぼさの前髪の向こうから視線を向けてくる、感染者と思われる対象。
そしてその隣で、白衣を黒く染めている飯島。
どういうことなのか、この場には感染者が二体いるのか。
何故、先程飯島は楠を庇ったのか。
考えれば考えるほど分からなくなり、河井は無理矢理に息を吸い込んだ。
「こいつには勝てない」、という言葉にしてもそうである。
自分は戦う気など無いという事なのか、それとも戦闘力の個体差なのか。
しかしそれならば何故、楠は飯島に、まるで飯島だけに、逃げろと支持を飛ばしたのか。
全てが分からず、結果、万全を期し両者に警戒を向け続けるしかない河井の耳に、その時また思考回路を揺さぶるような言葉が入ってくる。
「っていうか君、なんで僕を狙ったの?」
何故。
そんな答えの決まりきった問いかけに、一瞬硬直した河井の頭を溶かしたのは、緊迫に押さえ込まれていた怒りだった。
「……しらばっくれてんじゃねぇよ」
「何が?」
「……湖の向こうの廃墟で。写真を見つけた」
「え、嘘。君あのトラップ突破したの?」
すごいねー。あははー、と。
挑発しているとしか思えない呑気な楠の言葉に、河井は見事に焚きつけられた。
「証拠は挙がってんだよ! ……あれは、10年以上前の写真だった。楠さん、あんた本来なら、もっと歳とってる筈だろ?!」
現在の技術力では、写真に偽装など施しようも無い。
そもそもそんな意味の分からない偽装を施す理由など何処にも無く、即ちどこからどう見ても決定的証拠である写真は、河井の目にただ真実のみを映していた。
そして、そんな彼の視線の先、軽く顎に手をあて顔を伏せた楠は一体何を考えているのか。
やがてチラリと上がってきた前髪の奥からの視線に見据えられ、河井は無意識のうちに息を飲む。
「河井君、その写真いま持ってる?」
「っ……!」
「見せてよ」
楠が、顎に当てていた白い手を差し出してくる。
しかし河井には、見せられるわけが無かった。
感染者を前に、写真を取り出し、差し出すなどと。そんなあからさまな隙を見せるほど自分は馬鹿に見えるのかと、河井が無言に乗せた拒否の意は相手に伝わったのか。
「……ま、なんでも良いけどね」
出した手を引っ込め。
やれやれと肩を竦めた楠が顔を伏せ落としたのは、苦笑のような息だった。
「僕は人間だよ」
河井の息が止まった。
しかしそれはすぐさま再開し、彼の脳は瞬間的な否定を口にする。
信じられない。
否、信じるべきなのか。
良く思考を巡らせてみれば、その辺りの真実は現状打破と密接に関わりあっている気がし、河井は改めて写真に写っていた姿を回想する。
それは確かに、楠に良く似ていた。目元を隠すぼさぼさの髪にしろ、ひょろりとした体型にしろ――否、言われてみれば何となく、写真とは骨格が違う気もする。
だが結局、それは楠の机から出てきた写真だ。
となればやはり、これは楠による、此方の心理を揺さぶる作戦なのではないかと。
「お話中のところ悪いが」
河井が結論を出しかけた時、その声は二方の間に介入した。
「防水テープを持っていないか?」
意識の向きを少しばかりずらした先。
そこにあった困ったような飯島の表情を、河井は見た。
「……。」
「……。」
奇妙な沈黙が場に落ちる。
白衣の腕を黒に染めた飯島の瞳が、ぱちりと瞬く。
「……その、指に巻いてるの使えば?」
「馬鹿な! これは奏による手厚い救護の証だ! 外せるわけが無いだろう!」
楠の提案には、確実に呆れが混ざっていた。
そして大げさに指先を抱え込んで見せた飯島の姿に、河井の身にずうんと伸し掛かったのは純粋な頭痛である。
――奏。
あの女は、本当に、何を考えているのか。
既になんだか化けて出てやりたい気持ちになった河井の中、今更に過ぎるのは過去の場面だ。
言われてみれば廃墟に連れ出す前、飯島と共に床に座り込んでいた彼女の傍らには救急箱が置かれていた。
更には以前――そう、あれが何時だったのかは忘れたが。
飯島に拾われた際、彼女は「つい包丁を振り回してしまった」と言っていた。薄皮一枚ですんだのだと。
そしてそれを思えばこれまた以前、言葉を話す感染者に対し驚かない彼女に、自分が向けた「何故言葉を話す感染者に驚かないのか」という質問は。
本当に。
本当になんて馬鹿なものだったのだと、河井は眩暈すら覚えたくなる。
彼女は初めから、“言葉を話す感染者”を知っていた。全てを知っていて、全てが今更だったのだ。
それならば感染者に極端に甘いというか図太い彼女の態度にも頷けると、河井が脳内で頭を抱えることが出来たのは、幸いな事に飯島と楠が呑気な会話を交し合ってくれていたからである。
「まぁ仕方が無い。テープは後で取りに行くとして……予備の白衣は」
「そんなの僕が持ってると思う?」
「……持っているべきだとは思うが。つまりお前は、私にこの格好のまま逃げろと?」
「なんとかなるんじゃない? 上では今、それどころじゃないだろうし」
しかし。
どうにも聞き逃せない言葉が耳をつき、河井の意識は瞬時に相手へと向け直された。
「……何をした?」
「ん? 何って。これだよこれ、警報」
頭上を指した楠の指に、河井の眉が寄る。
未だ鳴り響き続けている警告音は、彼が目の前に集中するため、思考から追い出していたものだ。
「避難勧告だけだと思った? 実際何も起こらない、混乱を呼ぶためだけの偽装だとでも?」
「……。」
「上では今、檻から次々に検体が出てきてる筈だ。電子ロックしか解除できなかったのは痛いけど。それでも十分だよね?」
十分すぎる。
それを意識した途端、河井の耳に響いてきたのは上階での混乱の幻聴だ。
しかしやはり、そうだとしてもこの場から動くことは出来ない。
背を向けるどころか後ずさりすら憚られる状況に河井が奥歯を噛めば、腕を組んだ飯島が困ったような息を落とす。
「それにしても。ここまでする事も無かったのではないか?」
「だから君は甘いって言ってるんだよ。河井君が此処に辿り着いてる時点で、もうこの研究所は終わり」
「……だから“逃げろ”というわけか。何処まで情報が回っているのか分からん以上、ひと一人で済む話でもない、と」
気が進まないと。
主張するかのような溜息が落ちると同時、飯島の手が白衣のポケットへ無造作に突っ込まれる。
瞬間。
河井の身に過ぎったのは、得も言えぬ違和感だ。殺気は感じない。けれど本能が警告を訴える。
そんな彼の強張った視界の中、引き出されえた飯島の手に握られていたのは、ドライバーだった。
普段機械類を組み立てる為に使われているそれが、くるくる、くるくると、長い指の間で回転している。
「壊すのは苦手なんだが」
静かに。
流された視線に今度こそ、河井の肌は泡立った。
標的の優先順位など一瞬で頭の中から吹き飛び、引き金を引くと同時、河井は身体を傾ける。
破裂音。
しかし黒い飛沫は飛ばない。
河井の目元の直ぐ横を、掠めたドライバーが壁に突き刺さる。
詰まった距離に反射的に銃口が選択したのは、対象の肩関節部分だった。
「っ!!」
次弾は命中した。
けれど相手の勢いが削がれることは無く、避ける筈が勢い余って大きく転がしてしまった身体が、結果的に飯島の蹴りを掻い潜ったのはある種の奇跡の産物だろう。
そうしてまた生まれた距離の元。
体勢を立て直した河井は、息苦しい耳鳴りを呼ぶような動悸を無理矢理に押し潰した。
引き金に掛かった指が痙攣するかのように震える。
顔面の直ぐ横を通り過ぎていった風圧は、既に彼の本能に純粋な恐怖を刻み付けている。
「……流石。やはり君は非常に優秀だ。今の一瞬で、己の弱点にも気がついたのではないかね?」
「っ……!」
「そう。君の狙いは的確すぎる。狙われる場所さえ分かっていれば、避けるのは容易い。そして――」
ゆっくりと、獲物を仕留めるように向き直された飯島の身体。
新たに生まれた銃痕によって白衣をまた少し黒に染めながら、それは何処か人事のように肩をすくめた。
「我々は脳幹を破壊されない限り、止まらんのだよ」
次、の瞬間は直ぐには訪れなかった。
飯島の方も、遠距離から脳幹を破壊しうる武器を前に神経を尖らせているのだろう。
対し、一撃を食らってでも弾丸を叩き込むべきかと。
ぐっと息を詰めた河井は引き伸ばされたかのような時間の中、“動き”のみに全神経を集中させていた。
次の刹那で、全てが決まる。終わるにしても、只では終わらない。
動くのは飯島の足か。それともその背後の楠か。
研ぎ澄まされていく河井の五感は、まるで深海のように静かだった。
今ならば、衣擦れの音ひとつ聞き逃す気は無い――そんな極限状態に達していた彼の耳に。
「――っ!?」
飛び込んできた音は、大きすぎた。
蹴り飛ばさん勢いで開け放たれた扉。
部屋全体を軋ませるかのような、硬質と硬質による衝突の爆音。
その影に隠れた上がった息の音と砂利を噛むような足音に、河井の眉間がしわを刻む。
しかし、その銃口は微動だにせず、飯島の視線も当然、そんな状況から寸分たりとも逸らされることはない。
けれど、彼の方は視界に映さなくとも、来訪者が誰であるのかを悟ったらしく。
「おかえり、奏」
柔らかな笑みと共に落とされた言葉に、河井のこめかみに冷や汗が伝った。




