第9話:漆黒の甘酢から揚げと二人のサンプラー
翌日の昼休み。
本日のタッパーに詰め込んできたのは、お弁当おかずの裏ボス――『鶏のから揚げ(甘酢あん絡め)』だ。
ただの唐揚げではない。
初日に一ノ瀬さんに絶賛された唐揚げに、今回は甘酸っぱい特製あんと白ゴマをたっぷりと絡め、さらにご飯が進む仕様にアップデートした自信作だ。
蓋を開けた瞬間、いつものように二つの影が同時に俺の机へと殺到した。
「……高坂くん」
「ちょっと、高坂」
お互いに声を掛け合いながら、二人の女子が俺の机を挟んで並んだ。
一ノ瀬さんは相変わらず氷のような美貌で、甘酢あんがテカテカと輝く唐揚げを静かに見つめている。一方の千歳は、朝練上がりで猛烈にお腹が減っているのか、若干目がすわった状態でタッパーを凝視していた。
「……素晴らしいわ」
一ノ瀬さんはスッと人差し指を立て、厳かに口を開いた。
「初日のあの完成された唐揚げに、あえて酸味と甘みのコーティング(甘酢あん)を施してくるとは。これは……大衆肉料理における、さらなる進化の系譜ね」
「だから一ノ瀬さん、いちいち表現が壮大なんだって」
「……ねえ高坂、この人さっきから何言ってるの?」
千歳が、少し引いたような目で一ノ瀬さんを見ながら小声で訊ねてきた。
「進歩の系譜って何? あと、高坂の唐揚げ、今日いつもよりめちゃくちゃ美味しそうなんだけど。白ゴマとかかかっちゃって」
「あ、昨日多めに揚げたから、甘酢あんにしてみたんだ。美味いぞ」
「……高坂くん」
会話に割り込むように、一ノ瀬さんがスクールバッグから厳かに小さな木箱を取り出した。
「今日の私は、その『甘酢』という糖分と酸味の黄金比に対し、一ノ瀬家としての等価交換の品を選定してきたわ。……熟成20年の最高級鎮江香酢よ。それをその……茶色く輝く肉塊に一滴垂らしなさい。そして、私に二個、譲渡するのよ」
「一ノ瀬さん、本当に毎度申し訳ないんだけど、うちの普通の穀物酢で作ったタレで味は完成してるんだよ。20年熟成のやつを上から足したら、さすがに濃すぎて全体のバランスが破綻しちゃうから」
俺が即座に押し返すと、一ノ瀬さんは「くっ……! またしても私のヴィンテージ調味料が……っ!」と、信じられないものを見るような目で俺のタッパーを見つめた。
「……あの、一ノ瀬さん?」
千歳が、恐る恐るという風に手を挙げた。
「よく分かんないですけど、高坂の料理って、そのまま食べるのが一番美味しいですよ? 余計なもの足さない方がいいっていうか……。あ、それより高坂、私にも一個ちょうだい。幼馴染の特権ってことで!」
千歳は俺の机の上から、自然な動作で予備の割り箸をすっと奪い取った。
「待ちちなさい、千歳さん!」
一ノ瀬さんの鋭い声が響く。
「その箸は……私が今日の『アップデートされた肉料理』の構造解析に使うために、高坂くんが用意してくれたものよ! あなたが許可なく消費していいものではないわ!」
「えっ!? なんで一ノ瀬さんが怒るの!?」
千歳は目を丸くして驚いている。
「私、高坂とは10年の付き合いだし、今すごくお腹空いてて……。高坂、一個いいよね?」
「駄目よ、高坂くん! 彼女にそんな大きな塊を渡したら、今日の私のサンプリングデータが著しく減少してしまうわ! 昨日の『そぼろ』の時にも言ったけれど、付き合いの長さなど、私のデータ解析の前には何の意味も持たないのよ!」
「ええっ!? 昨日も思ったけど、お弁当食べるのにデータとか関係ないじゃん! どんだけ頑固なのよ、このお嬢様!」
「が、頑固などではないわ……! これは、一ノ瀬家としての……効率的なカロリーの、その、再分配よ……っ!」
一ノ瀬さんは顔を真っ赤にして必死に言い訳を取り繕うが、視線はやっぱり唐揚げから離れていない。千歳は千歳で、「もう、何でもいいから食べさせてよー」と、箸を持ったままタッパーとの距離をじりじりと詰めてくる。
クラスの男子たちは「おいおい、高坂のやつ、一ノ瀬さんと幼馴染の二人に迫られて修羅場かよ……」と遠巻きにヒソヒソ噂しているが、違うんだ。
二人の頭の中は、今、「どうやってあの甘酢唐揚げを自分の口に運ぶか」、それしかない。
「……あー、もう、分かったから! 唐揚げは4個あるから、二人に1個ずつあげるよ! それで手を打ってくれ!」
俺が観念してそう言うと、二人はピタッと動きを止め、同時に俺のタッパーを見つめた。
「……交渉成立ね、高坂くん。あなたのその寛大な再分配に感謝するわ」
「やった! 高坂、大好き!」
一ノ瀬さんは手慣れた仕草で、一番あんが綺麗に絡んでいる唐揚げを慎重に箸でつまみ、小さな口へと運んだ。
千歳も嬉しそうに、大きめの一角をパクッと口に放り込む。
サクッ……もぐもぐ、もぐもぐ……。
二人の動きが、同時にピタッと止まった。
数秒の後、一ノ瀬さんの白い頬がじわじわと至福の桜色に染まり、千歳は「んんーっ!」と悶絶するように目を輝かせた。
「……素晴らしいわ……っ」
一ノ瀬さんは、両手で優しく口元を押さえながら震えていた。
「酸味の奥にある、この白ゴマの香ばしさと肉の旨味……。冷めてもなお、衣がタレを吸って絶妙なジューシーさを保っているわ……っ!」
「うっま! 高坂、これ天才! 完全に米が進むやつじゃん!」
千歳はすでに俺のタッパーの白米(タレが染みた部分)を、羨ましそうに凝視している。
「米はあげないからね。俺の午後のエネルギーなんだから」
一ノ瀬さんは、名残惜しそうに自分の高級調味料を見つめ、それからスッとバッグにしまい込んだ。
「今日のアップデート調査も、極めて驚異的な結果だったわ。……高坂くん、明日は……そうね、もっと『幾重にも重ねられた』要素がある、地層のようなおかずを期待しているわ」
「だからリクエストするなって!」
「ねえ、明日は私の大好物の生姜焼きにしてよ高坂ー」
「千歳も便乗して注文すんな!」
二人の女子のズレたリクエストを浴びながら、俺は嵐のような昼休みが過ぎ去っていくのに、深くため息をつくのだった。




