第10話:断層の黄金比と二人の共同戦線
昼休みのチャイムが鳴り響くと同時、俺の机の前に、もはや一寸の狂いもなく二つの影が並び立つ。
一ノ瀬葵と、幼馴染の千歳だ。
クラスの連中も、この3人が集まると「ああ、今日も弁当の時間が始まったな」と、完全に背景の一部として受け入れ始めていた。
俺がタッパーの蓋を開けると、ソースの甘香ばしい匂いとともに、綺麗に断面を見せて並ぶ衣をまとった肉塊が現れた。
「……高坂くん。これは、何かしら。私の要望通り、確かに肉の薄片が幾重にも積層され、美しい地層を形成しているわ。地質学的な美しさすら感じるわね」
「一ノ瀬さん、それはただの『ミルフィーユカツ』だよ。薄切りの豚バラ肉を重ねて、衣をつけて揚げたやつ」
「みるふぃーゆ、かつ……。あえて一枚の厚い肉を使わず、薄い肉の隙間に肉汁を閉じ込めるという、大衆揚げ物界における構造改革の結晶ね……!」
一ノ瀬さんは、その断面を顕微鏡でも覗き込むかのような真剣な目で凝視している。
「あ、これ知ってる! 中が柔らかくてジューシーなやつだよね!」
千歳が横から身を乗り出してきた。部活後の腹ペコセンサーが敏感に反応している。
「ねえ高坂、千歳ちゃんの頼んだ生姜焼きは? 入ってないじゃん!」
「千歳、よく見てみろ。このミルフィーユカツ、ただの肉じゃないんだ。お肉を重ねる時に、間に『おろし生姜』と『醤油ダレ』を少しずつ塗り込んで重ねてある。つまり、味は完全に生姜焼きなんだよ」
「えっ、天才じゃん!!」
千歳が目を輝かせる。
「な……っ! なんという高度なハイブリッド料理かしら……っ!」
一ノ瀬さんも衝撃を受けたように目を見開いた。
「生姜焼きのフレーバーを内包した、地層料理……! 高坂くん、今日の私は、その『積層された肉汁』を完全に迎え撃つため、一ノ瀬家秘蔵の品を持参したわ」
一ノ瀬さんは、スッとスクールバッグから、お洒落なクリスタルの小瓶を取り出した。
「これを受け取りなさい。イギリス王室御用達、最高級のマルドン・シーソルトの燻製塩よ。それをその……ソースの染みた衣の上に一振りしなさい。そして、その断層を二つ、私に引き渡すのよ」
「一ノ瀬さん、だからさぁ……! 肉の間に生姜醤油の味がしっかり付いてるし、上から普通のウスターソースも少し絡めてあるんだよ。そこにさらにスモーキーな高級塩を足したら、口の中がソースと生姜と煙の香りで大渋滞を起こして、何の肉を食べてるか分からなくなるから!」
俺が即座にクリスタルの小瓶を押し返すと、一ノ瀬さんは「くっ……! 私のロイヤルな塩分が、またしても……っ!」と、持ってきた小瓶をぎゅっと握りしめて悔しがった。
「一ノ瀬さん、諦めなよー」
千歳が、呆れ半分、感心半分といった様子で苦笑する。
「高坂の弁当はね、そのまま食べるのが一番の完成形なの。昨日も唐揚げに中国の古いお酢とか足そうとして断られてたでしょ? 学習しなよー」
「が、学習していないわけではないわ……! 私はただ、一ノ瀬家としてのプライドを――」
「はいはい、プライドはいいからさ。高坂、今日も予備の箸ある? 私、我慢できないから、その『生姜焼き味のカツ』ってやつ、一個ちょうだい!」
千歳が当たり前のように俺の机から箸を奪おうとする。
「待ちちなさい、千歳さん!」
一ノ瀬さんが、それを素早く手で遮った。
「その箸は、私の『地質学的調査』のために確保されているものよ! 昨日の今日で、あなたに先を越されるわけにはいかないわ!」
「えー? じゃあ、半分こにすればいいじゃん。高坂、カツは何個あるの?」
千歳が尋ねる。
「……3個」
俺が答えると、二人の視線がタッパーの中の3個のカツに集まった。
俺が1個食べるとして、残りは2個。
一ノ瀬さんと千歳は、一瞬だけ視線を交わした。
昨日までの「私のデータ解析が優先よ!」「私が幼馴染だし!」という不毛な言い争いを経て、彼女たちの間に、ある種の『大人の解決策』が芽生えたようだった。
「……千歳さん。ここは、一時的に休戦協定を結ぶべきよ。不毛な争いで時間を浪費すれば、カツの衣が湿気ってしまうわ」
「そうだね一ノ瀬さん。高坂が3個中2個を私たちに等分に配分すれば、すべては円満に解決する。……よね、高坂?」
「おい、なんで俺の取り分が自動的に1個に減らされてるんだよ」
俺の抵抗も虚しく、二人の女子の「食べたい」という利害関係が完全に一致し、謎の共同戦線が張られてしまった。
「交渉成立ね。高坂くん、その『断層』を一つ、いただくわ」
「ありがと高坂! いただきまーす!」
二人はそれぞれ、綺麗に半分にカットされたカツを1個ずつ箸でつまみ、同時に口へと運んだ。
サクッ……ジュワッ。
もぐもぐ、もぐもぐ……。
二人の動きが、鏡合わせのようにピタッと止まる。
次の瞬間、一ノ瀬さんの白い頬がじわじわと蕩けるような桃色に染まり、千歳は「んんんーっ!!」と両手を頬に当ててジタバタと身悶えした。
「……素晴らしい、極みだわ……っ!」
一ノ瀬さんは、小さく震える声で呟いた。
「衣のサクサク感の直後に、薄切り肉の隙間から、あの生姜の鮮烈な風味と醤油のコクが、溢れんばかりの肉汁と共に一気に押し寄せてくる……! 一枚肉のとんかつでは絶対に不可能な、この柔らかさと味の一体感……。我が家のシェフが作る、仔羊の香草パン粉焼きなど……っ!」
「これ、マジで生姜焼きのカツだ……! 衣に染みたソースと、中の生姜醤油がめちゃくちゃ合う! ご飯! ご飯が止まらないよこれ!」
千歳は興奮気味に、自分の机から持ってきた白米をモリモリと口に運んでいる。
「だろ? 手間はかかるけど、これが美味いんだよ」
一ノ瀬さんは、すっかり空になった自分の箸を名残惜しそうに見つめ、それからスッと高級塩をバッグに回収した。
「今日の地質学的調査も、極めて驚異的なデータ(美味)だったわ。……高坂くん、明日は……そうね、もっと『型にはまった』要素がある、四角くて幾何学的なおかずを期待しているわ」
「だからリクエストするなって!」
「ねえ高坂、明日はデザートに甘いものも付けてよー」
「千歳、お前はただのわがままな食客になってるからな!」
二人の女子のズレた要求を交互に浴びながら、俺はすっかり軽くなったタッパーを見つめ、苦笑交じりにため息をつくのだった。




