第11話:幾何学の境界線と一時の終戦協定
昼休みのチャイムの余韻が消えぬうちに、俺の机の前には当然のように二人の女子が並んだ。
一ノ瀬葵と、幼馴染の千歳だ。
クラスの男子たちは、もはや遠巻きに見守るのすら飽きたのか、「高坂のところ、今日も開廷したな」と、日常の景色として完全にスルーし始めている。
一ノ瀬さんは、タッパーの中身をじっと見つめ、満足そうにフンスと鼻を鳴らした。
「……美しいわ、高坂くん。私の要望通り、見事な直方体が幾何学的な規則性を持って並んでいるわ。この、外側の肉の層と、内側の……この、少し白い断面を見せている構造体は何かしら。豆腐のようだけれど、もっと質量を感じるわ」
「一ノ瀬さん、それはただの『厚揚げ』だよ。厚揚げに豚肉を巻いて、照り焼きにしたんだ」
「あつあげ、の、ぶたにくまき……。大豆加工食品の傑作である厚揚げを、さらに動物性タンパク質(豚肉)でカプセル化するという、大衆惣菜界における驚異的な空間利用ね……!」
一ノ瀬さんは、その四角い断面を絶賛するように呟いた。
「わ、これ絶対に味が染み込んでるやつじゃん!」
千歳が横から身を乗り出し、ごくりと喉を鳴らす。
「ねえ高坂、この照り照りのタレ、絶対に白米に合うよね。私、今日のご飯これと一緒に食べるって決めた!」
「千歳、まだあげるとは言ってないからな」
「……高坂くん」
一ノ瀬さんが、すかさずスクールバッグから、これまた見たこともない小さな陶器のケースを取り出した。
「今日の私は、その『大豆と豚肉の調和』を完璧に制御するため、一ノ瀬家秘蔵の品を持参したわ。……京都の老舗から取り寄せた、最高級の黒七味よ。この、豊かな山椒の香りと焙煎された唐辛子の辛みを、その四角い肉塊の頂点に振りなさい。そして、私に二個、割譲するのよ」
「一ノ瀬さん、あのさぁ……! この照り焼きダレには、仕上げに普通の生姜を少し効かせて、すでにキリッと味が締まってるんだよ。そこに香りの強すぎる高級黒七味をかけたら、生姜と山椒が口の中で全面戦争を起こして、厚揚げの優しい大豆の味が完全に消滅しちゃうから!」
俺が即座に陶器のケースを押し返すと、一ノ瀬さんは「くっ……! 私の最高級のスパイスが、またしても『生姜』の前に……っ!」と、信じられないものを見るような目で俺のタッパーを見つめた。
「一ノ瀬さん、本当に毎回断られてるね」
千歳が呆れたように笑いながら、自分の机から持ってきたお箸をパチンと鳴らした。
「でも、昨日のカツの時みたいに言い争ってたら、タレが冷めて固まっちゃうよ。一ノ瀬さん、今日も『休戦協定』、結んじゃう?」
一ノ瀬さんはハッと我に返り、千歳を見つめ、それから小さく頷いた。
「……そうね、千歳さん。料理の適正温度を損なうことは、食の探求者として万死に値するわ。不毛な議論はここまでよ。高坂くん、昨日と同様、私たちに1個ずつ適切に分配しなさい」
「おい、いつの間にか休戦協定の条件が『俺の弁当を等分する』になってるんだけど」
俺のささやかな抗議は、二人の女子の「四角い肉巻きを食べたい」という圧倒的な圧力の前に、無慈悲にも却下された。
「では、失礼するわ……」
「いただきまーす!」
二人はそれぞれ、一口サイズにカットされた厚揚げの肉巻きを箸でつまみ、同時に口へと運んだ。
もぐもぐ、ジュワッ……。
二人の動きが、またしても完全に同期して停止した。
数秒の後、一ノ瀬さんの白い頬がじわじわと至福の桜色に染まり、千歳は「んんーっ!」と目を輝かせて白米をかき込み始めた。
「……信じられないわ……っ」
一ノ瀬さんは、両手で優しく口元を押さえながら、小さく身震いした。
「外側の豚肉に絡みついた甘辛いタレの濃厚さの直後に、中から厚揚げのジューシーな水分が溢れ出して、全体を絶妙にマイルドに変化させている……! 味が濃いのに、少しもくどくないわ。我が家のディナーで供される、絹豆腐のフォアグラ添えとは全く違う、圧倒的な『白米の相棒』としての完成度よ……っ!」
「高坂、これマジでヤバい! お肉の旨味が厚揚げにしっかり染みてて、噛むたびにタレがじゅわって出てくる! ご飯が無限にいけるよ!」
千歳は猛烈な勢いで自分の白米を消費している。
「だろ? 厚揚げは節約メニューだけど、肉を巻くだけで一気に豪華になるんだよ」
一ノ瀬さんは、すっかり空になった自分の箸を名残惜しそうに、だけどとても満足そうに見つめ、それからスッと黒七味をバッグにしまい込んだ。
「今日の幾何学調査も、極めて驚異的な結果(美味)だったわ。……高坂くん、明日は……そうね、もっと『色彩が反転した』要素がある、白と黒のコントラストが美しいおかずを期待しているわ」
「だからリクエストするなって! あと白と黒の反転したおかずって、なんだよ!」
「ねえ高坂、明日はお肉多めでお願いー!」
「千歳、お前は本当にただの食客だな!」
二人の女子の無理難題を交互に浴びながら、俺はすっかり軽くなったタッパーを見つめ、苦笑交じりにため息をつくのだった。




