第6話:大地の茶色い要素と学術的調査の味
「大地の茶色い要素が含まれたおかず」。
昨日、一ノ瀬さんが残していったその言葉通り、俺の本日のタッパーは、もはや彩りという概念を完全に放棄した「完全なる茶色一色」の、まさに大地そのもののようなお弁当になっていた。
だが、これこそが男子高校生の弁当の極致。
本日のメインは――。
「……高坂くん」
昼休みのチャイムの残響に紛れるようにして、完璧なタイミングで一ノ瀬さんが俺の前に降臨した。
もはや彼女が俺の席に歩いてくる姿は、このクラスにおける昼の風物詩、あるいは一種の儀式のようにすらなりつつある。
彼女の美しい黒髪が揺れ、その鋭い視線が、蓋を開けたばかりのタッパーへ真っ直ぐに突き刺さった。
「……これは、何かしら。確かに私の要望通り『大地(茶色)』の要素に満ちあふれているけれど……私の知るポークソテーや、ビーフシチューの深みのある茶色とは、その……何というか、品格のようなものが決定的に違うわ」
「一ノ瀬さん、今日は肉じゃなくて『肉じゃが』だよ」
そう、本日のメインは、日本の家庭料理の代名詞『肉じゃが』だ。
ホクホクになるまで煮込んだじゃがいも、味が染みてクタクタになった玉ねぎと人参、そして旨味を吸い尽くした豚コマ肉。全体が醤油とみりんで絶妙な琥珀色(というか茶色)に染まり、タッパーの底には旨味が凝縮された茶色い煮汁が溜まっている。
「にく、じゃが……。じゃがいもという大地の恵みと、肉を一緒に煮込むという、あの家庭料理の頂点に君臨する料理ね……!」
一ノ瀬さんは、その名前を歴史的な大発見の記述であるかのように口にした。
「知っているわ。これを美味しく作れるかどうかが、かつての一部のコミュニティにおける配偶者選定の重要な指標になっていたという、あの伝説の煮物料理ね」
「いつの時代の指標だよ。っていうか、ただ昨日の夜に大鍋で多めに作って、一晩置いて味が染み染みになったやつを詰めてきただけだから」
俺が箸でじゃがいもをスッと割ると、芯までしっかりと茶色い出汁が染み込んでいるのが見て取れた。そこから、どこかホッとする、甘辛い香湯がふわっと教室に広がる。
その瞬間、一ノ瀬さんの喉元が、これまでで一番激しく「ゴクリ」と動いたのを、俺は見逃さなかった。
「……高坂くん。今日の私は、その『煮汁』と『根菜』の水分量を考慮し、一ノ瀬家のプライドを賭けた最高の等価交換の品を持参したわ」
一ノ瀬さんはフンスと誇らしげに胸を張ると、スクールバッグから、お洒落な陶器の小瓶を厳かに取り出した。
「これを受け取りなさい。フランス産、最高級のトリュフ入りバルサミコ酢よ。それをその……出汁を吸いすぎて今にも崩れそうな茶色い芋の塊に滴らせなさい。そして、その『肉じゃが』の肉と芋をバランスよく、私に半分割譲するのよ」
「一ノ瀬さん、本当に頼むからさぁ……。この肉じゃがには、うちの普通の醤油とみりんと砂糖の、素朴な甘辛さがすでに完成された黄金比で染み渡ってるんだよ。そこに酸味の強い高級バルサミコ酢なんて垂らしたら、一晩かけて味が染みたじゃがいもが全部台無しになっちゃうから!」
俺が即座に小瓶を押し返すと、一ノ瀬さんは「くっ……! またしても私の最高級の提案が……っ!」と、信じられないものを見るような目で俺のタッパーを見つめた。
「どうして……! 大地の恵みに対して、私が用意した完璧な酸味と香りの演出が、どうしてその……1個数十円で買えそうな、泥を落としただけのジャガイモ(男爵)に拒絶されなければならないの……っ!」
「だから値段じゃないんだって! 肉じゃがは、そのまま食べるのが一番白米に合うんだよ!」
一ノ瀬さんは顔を真っ赤にして、持ってきたバルサミコ酢の小瓶をぎゅっと握りしめた。
食べたい、けれど無償で貰うのはプライドが。しかし等価交換はまたしても「庶民の煮物ルール」の前に完全敗北。彼女の頭の中で、プライドと食欲の終わりなきシュールな防衛戦が、本日も超高速で演算されている。
「……一口」
長きにわたる葛藤の後、一ノ瀬さんは消え入りそうな、だけど絶対に退かないという強い眼差しで、俺のタッパーを凝視した。
「その、一晩置いて味が染み染みになったというじゃがいもを一口、そして肉を一切れ、私に譲渡しなさい。これは……そう、日本の家庭料理における、経時変化による食味の学術的調査よ」
「……学術的調査なら、まあ、サンプルを提供するよ。はい、いつもの箸」
俺が予備の割り箸を渡すと、一ノ瀬さんはもはや手慣れた、だけどどこか嬉しそうな仕草でそれを受け取り、パキッと綺麗な音を立てた。
彼女は俺のタッパーから、味が染みて少し形が丸くなったじゃがいもを慎重に箸でつまみ、小さな口へと運んでいった。
はむっ……もぐもぐ。
一ノ瀬さんの動きが、完全に停止した。
数秒の後、彼女の綺麗な瞳が限界まで見開かれ、その氷の令嬢の表情が、一瞬で至福の衝撃によってとろとろに崩壊した。
「な……何、この、中心まで優しく浸透している、圧倒的な『和』の旨味は……っ!」
一ノ瀬さんは、両頬を薔薇色に染めながら、まるで奇跡の瞬間を目撃した巡礼者のように震えていた。
「ただの根菜だと思っていたのに、時間を置くことで、肉の脂と出汁の甘みが細胞の奥深くまで完璧に同期しているわ……! 我が家のディナーで供される、仔牛の煮込み・マサラワインソースとは全く違う、どこか懐かしく、そして暴力的に白米を誘う美味さよ……っ!」
「だからお嬢様、落ち着いて。まだ肉が残ってるから」
俺が苦笑しながら促すと、彼女はハッと我に返り、今度は味が染み込んだ豚肉を、これまた宝物を扱うように慎重に口に運んだ。
もぐもぐ……。
「……くっ、白米……! 白米を、この中に投入したい衝動が……っ!」
一ノ瀬さんは、あまりの美味さと自分のプライドの狭間で悶絶するように、自分の口元を優しく押さえた。肉じゃがの、冷めてもなお力強い旨味が、彼女の洗練された味覚をこれでもかと蹂躙したようだった。
「だろ? 肉じゃがは、白米のおかずとして生まれてきたようなもんだからね」
一ノ瀬さんは、自分の前にあるお洒落なデリを恨めしそうに見つめながら、ふぅ、と深く、そして最高に満足げなため息をついた。そして、バルサミコ酢をバッグの奥底へとしまい込む。
「今日の学術的調査も、極めて驚異的なデータが得られたわ。……高坂くん、明日は……そうね、もっと『包み込まれた』要素がある、中身が見えないミステリアスなおかずを期待しているわ」
「だからリクエストするなって! あと、包み込まれた中身が見えないおかずって、それもうただの揚げ物か餃子の類だろ!」
俺の至極真っ当なツッコミを背中で華麗に受け流しながら、一ノ瀬さんは満足げに、勝利のパレードを行う女王のような足取りで去っていった。




