第3話:絶対王者との対峙
昨日、「明日もチェックしに来る」と言い残した一ノ瀬さんは、本当に有言実行の女だった。
昼休みのチャイムが鳴り響くと同時、彼女は周囲の視線を文字通り置き去りにして、俺の席へと進軍してきた。その姿は、まるで重要な国際会議に臨む全権大使のような威厳に満ちている。
だが、その綺麗な瞳が見つめているのは、やっぱり俺の机の上だ。
「……高坂くん。今日の、その異様に肉厚で、見るからに濃厚な茶色いソースが絡みついている物体は何かしら」
「一ノ瀬さん、本当に毎日来るんだな……。今日はこれ、『ハンバーグ弁当』。昨日の夜に多めに作って、冷凍しておいたやつを今朝レンジでチンしてきたんだよ」
タッパーの中には、小ぶりだが丸々と太ったハンバーグが二個。ケチャップとウスターソース、それに肉汁を混ぜて煮詰めた、これまた彩り度外視のド直球な男の弁当だ。
「はんばーぐ……」
一ノ瀬さんは、その名前を未知の強敵の名前であるかのように呟いた。
「知っているわ。挽肉を捏ねて焼き上げる、庶民の家庭料理における最高峰の一つね。……まさか、それを自作してくるとは」
「いや、ただ玉ねぎ刻んで肉と捏ねて焼いた近所のスーパーのひき肉だけどね」
俺が箸でハンバーグを半分に割ると、冷めているとはいえ、閉じ込められていた肉汁がじわりと染み出し、ケチャップソースの甘酸っぱい香りがふわりと広がった。
その瞬間、一ノ瀬さんの鼻腔がピクッと動き、ゴクリと小さな、しかし確かな嚥下音が教室に響いた。
「……高坂くん」
一ノ瀬さんは、スッと制服のポケットから、何やら小さなプラスチックの容器を取り出した。
「今日は、私もハンバーグの『リスク』を考慮し、等価交換の品を選定してきたわ。……これを受け取りなさい」
「これは……?」
「フランス・ブルゴーニュ産、最高級のディジョンマスタードよ。それをその……少し焦げ目のついた肉塊に塗りなさい。そして、そのハンバーグを半分、私に譲渡するのよ」
「……一ノ瀬さん、申し訳ないけど、このハンバーグには、家庭用のケチャップとウスターソースの組み合わせが一番白米に合うんだよ。だから、その高そうなマスタードは持って帰って、お家の上品なローストビーフにでも添えてくれ」
俺が即座に拒絶すると、一ノ瀬さんは「うっ……」と言葉を詰まらせ、フイッと顔を背けた。
「わ、私はただ、あなたのお弁当に、一ノ瀬家としての付加価値を与えてあげようと……! 決して、その……肉汁とソースが混ざり合った、いかにも白米が進みそうな香りに、心が惹かれたわけでは……っ!」
「いや、めちゃくちゃ惹かれてるじゃん」
彼女の顔は、ほんのりと赤くなっている。
食べたい。けれど、ただで貰うのはプライドが許さない。かといって、家から持ってきた最高級調味料はことごとく俺の「庶民の弁当ルール」によって弾かれる。彼女の頭の中で、プライドと食欲の高度な演算が火花を散らしているのがよく分かった。
「……半分。いえ、四分の一でいいわ」
しばらくの葛藤の後、一ノ瀬さんは絞り出すような声で言った。
「私に、その『家庭の味』を体験させなさい。これは……そう、社会勉強よ」
「社会勉強なら仕方ないな……。でも、本当に一口だけだからね」
俺が予備の割り箸を渡すと、一ノ瀬さんはまるで聖遺物を受け取るような手つきでそれをパキッと割った。
そして、慎重に、本当に慎重に、俺が半分に割ったハンバーグの、さらにその半分を箸でつまみ、小さな口へと運んでいく。
もぐもぐ、もぐもぐ……。
一ノ瀬さんの動きが、ピタッと止まった。
直後、彼女の長い睫毛がパチパチと揺れ、その完璧な美貌が、じわじわと、至福の緩みを見せ始めた。
「……お肉が、暴力的だわ……っ」
一ノ瀬さんは、頬を微かに紅潮させながら呟いた。
「我が家のシェフが作る、網焼きのシャトーブリアンとは全く違う……! この、玉ねぎの甘みと、チープなはずのソースが肉の旨味を何倍にも膨らませている。……冷めているのに、どうしてこれほど白米を欲する味がするの……っ!」
「だから表現が不穏だって」
美味しいなら何よりだけどさ。
一ノ瀬さんは名残惜しそうにタッパーの残りのハンバーグを見つめ、それからスッとディジョンマスタードをポケットにしまい込んだ。
「今日の社会勉強は、非常に有意義だったわ。……高坂くん、明日は……そうね、もっと卵を使った『黄色』の要素が含まれたおかずを期待しているわ」
「リクエストすんなよ! 俺の昼飯なんだから!」
俺のツッコミを背中で受け流しながら、一ノ瀬さんは満足げに、武将のような堂々とした足取りで去っていった。




