第2話:お嬢様の事前調査と、二度目のエンカウント
翌日の昼休み。
教室は、机をくっつけて弁当や購買のパンを食べる生徒たちの賑やかな声に包まれていた。
俺はというと、いつものように自分の席で、一人静かにタッパーの蓋を開けていた。
本日のメニューは、『豚肉の生姜焼き弁当』。
千切りキャベツを敷き詰めた上に、玉ねぎと一緒に甘辛いタレで炒めた豚コマ肉をどっさりと乗せた、これまた彩り度外視の男の茶色い一品だ。タレが染みた白米が、すでに最高に美味そうである。
「よし、いただきます――」
俺が割り箸をパキッと割った、その瞬間だった。
視界の端から、すうっと音もなく、だが尋常ではない存在感を放つ影が近づいてきた。
見上げると、そこには一ノ瀬葵が立っていた。
いつもなら昼休みは、取り巻きの女子生徒たちと優雅に中庭のテラスで特製デリを食べているはずの彼女だ。それがなぜか、周囲の男子生徒たちが「え、一ノ瀬さんがなんで高坂の席に……?」とザワつくのも一切気にせず、俺の机の前に直立している。
相変わらずの、氷のような無表情。
だが、その鋭い双眸は、俺の生姜焼きをロックオンしていた。
「……高坂くん」
「あ、一ノ瀬さん。……何かな?」
俺は周囲の視線の痛さに耐えながら、箸を止めて答えた。
一ノ瀬さんは、スッと人差し指を立てて、まるで授業中に質問でもするかのような厳粛なトーンで口を開いた。
「昨夜、私は一ノ瀬家のネットワークを駆使し、庶民の食事について徹底的な調査を行ったわ」
「……はい?」
「その結果、ある重要な情報に辿り着いた。……『生姜焼き』。それは、甘辛い醤油ベースのタレに生姜の風味を効かせ、白米の消費量を爆発的に増加させるという、極めて危険な肉料理……。違っているかしら?」
何をドヤ顔で大真面目に語っているんだ、このお嬢様は。
「いや、合ってるけど。……一ノ瀬さん、もしかして今日も、それが食べたくてわざわざ俺の席に?」
「誤解しないで頂戴」
一ノ瀬さんはフンと顎を引いて、傲然と言い放った。
「私はただ、あなたの健康状態を懸念しているだけよ。そんな見るからに塩分と糖分の高そうな、油ぎった肉の塊を一人で摂取するなど、クラスメイトとして見過ごせないわ。……だから、私がその『リスク』を一部、引き受けてあげてもよろしくてよ?」
「要するに、つまみ食いしたいってことだろ」
「つ、つまみ食いなどという破廉恥な行為ではないわ……! これは……そう、余剰カロリーの、適切な再分配よ……っ!」
少し頬を赤くしながら、必死に難しい言葉で言い訳を取り繕う一ノ瀬さん。
お嬢様のプライドを保ちつつ、なんとかしてその生姜焼きを口に入れたいという執念がひしひしと伝わってくる。さっきから、彼女の視線が生姜焼きのタレが染みた白米のあたりをじっと往復しているのだ。
だが、ここで簡単に流されては、俺の貴重な昼飯の栄養が毎日削られてしまう。
「一ノ瀬さん、悪いけど今日はあげられないよ。ほら、今日は肉の量もキチキチで計算して作ってきたし、俺も午後からの授業を乗り切るために、この生姜焼きが必要なんだ」
俺がそう言って、防衛線を張るようにタッパーを自分の方へ引き寄せると、一ノ瀬さんの眉がピクッと跳ねた。
「な……なんですって……? 私の提案を、拒絶するというの……?」
「いや、一ノ瀬の提案っていうか、ただのお弁当のシェアの相談だし……」
拒否されると思っていなかったのか、一ノ瀬さんは驚愕したように目を見開いた。
そして、じーっと、それこそ親の仇でも見るかのような、だけどどこか捨てられた子犬のような、物言いたげな視線を俺の生姜焼きに注ぎ始めた。
無言の圧力が、凄まじい。
周囲のザワつきが、さらに一段と大きくなった気がする。
そりゃそうだ。「あの」一ノ瀬葵が、一介の男子生徒の机の前で、じっと無言で佇んでいるのだから。傍から見れば、俺が何かとてつもない不敬を働いて、令嬢の逆鱗に触れたかのような緊張感あふれる構図に見えるだろう。
だが、実際の彼女の頭の中は「どうにかして生姜焼きを食べたい」ただそれだけだ。
「……高坂くん」
しばらくの沈黙の後、一ノ瀬さんはスッと自身の懐――ではなく、高級ブランドもののスクールバッグに手を伸ばした。
そして、中から取り出したものを、まるで最高級の取引でも持ちかけるかのように、俺の机の上に厳かに置いた。
カツン、と軽い音が響く。
「これは……?」
俺が目を落とすと、そこにあったのは、見るからに場違いなほどピカピカに輝く、お洒落なガラス瓶だった。中には、何やらお上品な淡いピンク色の液体が詰まっている。
「フレンチレストラン『ラ・セーヌ』の特製、無添加オーガニック・フランボワーズドレッシングよ」
一ノ瀬さんは、ふんぞり返って誇らしげに胸を張った。
「一ノ瀬の人間として、ただで要求するような真似はしないわ。等価交換、いえ、こちらが圧倒的に資産価値の高いものを提示しているのだから、あなたに拒否権はないはずよ。それをあなたの……その、敷き詰められた雑草(キャベツの千切り)にかけなさい。そして、私にその『生姜焼き』とやらを一切れ、差し出すのよ」
「いや、うちのキャベツを雑草呼ばわりしないでくれる?」
しかも生姜焼きのタレが染みたキャベツに、高級フランボワーズドレッシング。合うわけがない。味のディザスター(大惨事)が起きる未来しか見えなかった。
「気持ちはありがたいけど、一ノ瀬さん。生姜焼きには、この醤油とみりんと生姜のタレが一番なんだよ。だから、その高そうなドレッシングは持って帰って、お家の高級サラダにかけて執事の人にでも食べてもらってくれ」
「な……っ!」
二度目の拒絶に、一ノ瀬さんの美しい眉が今度はハの字に曲がった。
プライドの塊のような彼女が、必死に「庶民の食べ物(生姜焼き)のルール」に合わせようと、家から最高級の調味料を持参してきたのだ。それをあっさり断られたショックは、予想以上に大きかったらしい。
「う、執事のセバスチャンにそんなものを食べさせる必要はありませんっ! あなたは、私がどれだけの覚悟を持って、朝、冷蔵庫からこれを……これを……っ!」
一ノ瀬さんは顔を真っ赤にして、珍しく語気を荒らげた。
だが、その視線はやっぱり、俺の箸の先にある、今にも口に運ばれそうな生姜焼きの肉から離れていない。
(……あ、これ、マジで泣き落としに入りそうな勢いだな)
氷の令嬢のメッキが完全に剥がれかけている。これ以上拒絶し続けたら、彼女のプライドが限界を迎えて、教室で大惨事が起きるかもしれない。俺はため息をつき、お弁当の隅っこにある、一番小さめの肉を一切れ、箸でつまみ上げた。
「……分かったよ。一切れだけ、本当に一切れだけだからね?」
俺が折れると、一ノ瀬さんの瞳が、まるで見違えるようにパッと輝いた。
「そ、そこまで言うのなら、頂いてあげてもよろしくてよ!」
すぐさまバッグから昨日手渡した予備の割り箸(なぜか綺麗に保管して持っていたらしい)を取り出し、パキッと小気味いい音を立てる一ノ瀬さん。
彼女は俺の箸先から、宝物を奪い取るかのように生姜焼きを自身の箸へと移し替えた。
そして、今度こそ周囲の目を気にするように、小さく背を丸めて、生姜焼きをパクリと口に含んだ。
もぐもぐ、もぐもぐ……。
一ノ瀬さんの動きが止まる。
次の瞬間、彼女の長い睫毛が細かく震え、その白い頬が、じわじわと幸せそうな桜色に染まっていくのを、俺は特等席で目撃することになった。
「ん、んん……っ!」
感動のあまり、言葉にならない声を漏らすお嬢様。
生姜のピリッとした辛みと、豚肉の脂の甘み。それが彼女の未開拓だった「庶民の絶品」の味覚を、容赦なく撃ち抜いたようだった。
「どう? 美味い?」
俺が尋ねると、彼女はコクコクと激しく首を縦に振った。しかし、すぐに「ハッ」としたように表情をいつものポーカーフェイスに戻そうと取り繕う。
「ふ、ふん。……まあ、及第点ね。肉の焼き加減は少々雑だけれど、この、生姜という根菜の刺激が、豚の脂の重さを完全に中和し、信じられないほどの推進力で喉を通り過ぎていったわ……。悪くない、悪くないわよ、高坂くん」
「言葉のチョイスが相変わらず独特だな……」
まあ、気に入ってくれたなら何よりだ。
一ノ瀬さんは満足げに小さく息を吐くと、名残惜しそうに俺のタッパーを見つめ、それから机の上の高級ドレッシングをサッと回収した。
「今日のところは、このくらいにしてあげるわ。明日も……あなたの健康状態をチェックしに来てあげるから、覚悟しておきなさい」
「いや、毎日は困るんだけど……」
俺の抗議を無視して、一ノ瀬さんはフンスと鼻を鳴らし、優雅な足取りで教室を去っていった。
残された俺は、周囲の男子からの「おい高坂、一ノ瀬さんと何話してたんだよ!?」という羨望と嫉妬が混ざった尋問に、頭を抱えることになるのだった。




