第1話:氷の令嬢の、熱い視線の先にあるもの
一ノ瀬葵。
それが、我が校が誇る「高嶺の花」にして、近寄りがたいオーラを放つ黒髪令嬢の名前だ。
成績優秀、眉目秀麗。どこか浮世離れした気品を持つ彼女は、男子生徒からは崇められ、女子生徒からは羨望の眼差しを向けられている。ぶっちゃけ、俺のような普通の男子高校生・高坂とは住む世界が違う人間だ。
……はずだった。
――4時間目の終了を告げるチャイムが鳴り響いた、ある日の昼休み。
クラスの連中が一斉に購買へ走り、あるいは机をくっつけて賑やかなグループを作り出す中、俺は自分の席で猛烈な空腹に襲われていた。
我が家は共働きのため、弁当は基本的に自分で作っている。といっても、昨晩の残りの唐揚げを隙間なく詰め込み、隙間に卵焼きをねじ込んだだけの、実用性重視の「茶色いタッパー弁当」だ。
「ふぅ……冷めてても、やっぱり唐揚げは最高だな……」
誰もいない教室で、一人もぐもぐと唐揚げを口に運んでいた、その時だった。
「……高坂くん」
頭上から、冷徹で、だけどどこか切迫したような美しい声が降ってきた。
驚いて顔を上げると、そこには住む世界が違うはずの『孤高の黒髪令嬢』、一ノ瀬葵が立っていた。
彼女の、ガラス細工のように綺麗な瞳が、じっと俺のを見つめている。
いや、俺の顔ではない。彼女の熱い視線の先にあるもの――それは、俺の机の上に広げられた、泥臭くて茶色いタッパー弁当(唐揚げ)だった。
鋭い、獲物を狙う鷹のような視線だ。
「……単刀直入に聞く。その、茶色くて、いかにも健康に悪そうで、だけど妙に香ばしい香りを放っている物体は……何だ?」
「え? ええと……ただの、自家製の唐揚げ弁当だけど……」
俺が恐る恐る答えた瞬間。
一ノ瀬さんの美しい黒髪が微かに揺れ、その完璧な瞳がほんの少しだけ、じゅるりと(比喩ではなく本当にそんな効果音が聞こえそうなほど)潤んだのを、俺は見逃さなかった。
「からあげ……。それが、噂に聞く、庶民の知恵が詰まった肉料理……」
「噂って……一ノ瀬さん、唐揚げ食べたことないの?」
「……我が家の食卓に、このような油が浮き出た茶色い塊が並んだことはない。……断じてない」
彼女はフンと不機嫌そうに鼻を鳴らした。
だが、視線は一ミリもタッパーから外れていない。むしろ、さっきから生唾を飲み込むのを必死に堪えているようで、喉元が小さく動いている。
(え……これ、もしかして、めちゃくちゃ食べたがってる……?)
いや、まさか。天下の一ノ瀬家のお嬢様が、男の手作り(しかもタッパー詰め)の残り物唐揚げを欲しがるわけがない。何かの罠か、あるいは衛生面のチェックでもされているのだろうか。
「あの、一ノ瀬さん? もし迷惑なら、すぐ片付けるけど……」
「待ちなさい」
俺がタッパーを鞄にしまおうとすると、彼女が鋭い声で制してきた。
一ノ瀬さんは、周囲に誰もいないことを今一度確認すると、少し顔を赤らめ、プライドを振り絞るようにして言った。
「高坂くん。……それを、私に一口、譲り渡しなさい」
「ええっ!?」
俺の口から、情けないほど素っ頓狂な声が出た。
だってそうだろ。学園の誰もが遠巻きにする一ノ瀬葵が、男子生徒の、しかも手作りのタッパー弁当を欲しがっているのだ。
「い、一ノ瀬さん……本気? これ、お洒落なカフェのランチとかじゃなくて、ただの昨晩の残りの唐揚げだよ? ニンニクとか生姜とか、結構ガッツリ効かせちゃってるし……」
「……構わない。私を誰だと思っているの。その程度の香辛料、一ノ瀬の人間が怯むとでも?」
いや、怯むとかそういう問題じゃない。
一ノ瀬さんは腕を組み、ふんぞり返るようにして傲然と言い放つ。だけど、その視線はやっぱりタッパーの唐揚げに釘付けだ。さっきから彼女の鼻腔が、醤油とごま油の香ばしい匂いを嗅ぎつけようと、ピクピクと微かに動いている。
お嬢様特有のプライドの高さのせいで威風堂々として見えるが、要するに「めちゃくちゃ食欲をそそられている」だけなんじゃないだろうか。
「……分かったよ。じゃあ、一個食べてみる?」
俺は観念して、お弁当の端っこに添えていた予備の割り箸をパキッと割り、それを彼女に差し出した。
さすがに俺が使っている箸で食べさせるわけにはいかない。
「感謝するわ、高坂くん」
一ノ瀬さんはまるでお宝を受け取るかのように、恭しく割り箸を受け取った。
そして、ゴクリと小さく喉を鳴らしながら、タッパーの中から一番丸々と太った、衣がカリッとしていそうな唐揚げを箸でつまみ上げる。
じっと唐揚げを見つめる彼女の横顔は、まるで国宝の鑑定でもしているかのように真剣そのものだ。
「……では、いただくわ」
小さな桜色の唇が開き、唐揚げがゆっくりと運ばれていく。
サクッ。
静かな教室に、小気味いい咀嚼音が響いた。
(……どうだ?)
俺はなぜか、心臓がバクバクと高鳴るのを感じていた。べ、別に彼女に惚れてるとかそういうのじゃない。ただ、自分の作った料理を、あの完璧超人なお嬢様が口にしているという状況が、純粋に緊張するのだ。
一ノ瀬さんは目を丸くしたまま、しばらく動きを止めた。
もぐもぐ、もぐもぐと、信じられないほど上品な仕草で口を動かしている。
やがて、彼女の白い頬が、ぽっと薔薇色に染まった。
その瞳はキラキラと輝き、まるで生まれて初めて素晴らしい芸術に出会ったかのような感動に満ちあふれている。
「な……何、これ……っ」
「口に合わなかった?」
「逆よ……! 周りの衣は驚くほど軽快な歯ごたえなのに、中に閉じ込められた肉汁が、噛んだ瞬間に口内へ暴力的と言っていいほど溢れ出してくる……。この、濃厚な醤油の風味と、鼻を抜ける強烈な香味野菜の刺激……。我が家のシェフが作る、気取ったトリュフソースのチキンソテーなど足元にも及ばないわ……!」
一ノ瀬さんは、感動のあまりに握りしめた拳を震わせていた。
「暴力的」って。お嬢様の口から出る語彙としては少々不穏だが、どうやら信じられないほど気に入ってくれたらしい。
「それはよかった。安物の鶏モモ肉だけど、一晩じっくりタレに漬け込んだ甲斐があったよ」
「一晩……!? これを、あなたが自ら仕込んだというの?」
一ノ瀬さんが、信じられないものを見るような目で俺を見つめてくる。
「料理ができる男」がそんなに珍しいのだろうか。
「まあ、うちは共働きだし、自分の分くらいはね」
「素晴らしいわ……。高坂くん、あなたをただの冴えないクラスメイトだと思っていたけれど、認識を改めなくてはならないようね。あなたは……『至高の領域』に足を懸けている料理人よ」
「いや、ただの茶色い弁当だから。ハードル上げないで」
大げさな絶賛に苦笑いしつつも、俺は少しホッとしていた。あの冷徹な一ノ瀬さんが、こんなに表情をコロコロと変えて、美味そうに(というか感動して)俺の弁当を食べている。そのギャップが、なんだか少しだけ面白かった。
「ふぅ……」
一ノ瀬さんは唐揚げを飲み干すと、名残惜しそうに割り箸を見つめ、それから俺のタッパーをじっと見つめた。そこには、まだあと3個の唐揚げが残っている。
「……高坂くん」
「ん?」
「もう一個、私に譲り渡す権利をあげるわ」
「なんで上から目線なんだよ」
俺がツッコミを入れると、彼女は「うっ」と言葉を詰まらせ、今度は少しきまずそうに視線を泳がせた。どうやら、もう一個食べたいけれど、プライドが邪魔をして素直に言えないらしい。
そんな、どこか不器用で、だけど食い意地の張った令嬢とのやり取りに、俺は少しだけおかしさを感じていた。
これが、俺と一ノ瀬さんの、最初の出会い…いや、ただの「つまみ食い」の始まりだった。




