第14話:静寂の放課後とお嬢様の補習レッスン
「高坂、本当にお願い……! このままだと私、マジで夏の遠征に行けなくなっちゃう……っ!」
午前中の試験が終わった放課後。
千歳は机に突っ伏したまま、まるでこの世の終わりのような声を上げていた。手元にある数Ⅰのプリントには、壊滅的な数字と、赤ペンの冷酷なバツ印が並んでいる。
「いや、お願いされてもな……。俺も自分の勉強があるし、千歳の数Ⅰの遅れを最初からリカバリーするのは、さすがに荷が重いっていうか……」
「そこをなんとか! 頼むよ、持つべきものは幼馴染でしょ!?」
俺が苦笑しながらプリントを眺めていると、ガラガラと教室の前のドアが静かに開いた。
すでに帰宅した生徒が大半のこの時間、そこに現れたのは、誰もが予想だにしない人物だった。
「……高坂くん、千歳さん。まだ残っていたのね」
一ノ瀬葵。
学園の頂点に君臨する孤高の令嬢が、通学バッグを品よく手に持ったまま、なぜか俺たちの席へと歩み寄ってきた。
「えっ、一ノ瀬さん? どうしたの、こんな時間に」
「……別に、大した理由はないわ。ただ、お弁当のデータ収集が途絶えたことで、私の脳内のルーティンに奇妙な空白が生じてしまって……その、少し調子が狂っただけよ」
一ノ瀬さんはツンと視線を逸らしながら、耳元を微かに赤くした。
すると、一ノ瀬さんの鋭い視線が、千歳の机の上に広げられた「壊滅的なプリント」へと突き刺さった。
「……何かしら、その紙切れは。数学の美しい論理展開に対する、冒涜のような数字の羅列が見えるけれど」
「うっ……! 一ノ瀬さん、直球で刺さないでよ……。これ、次のテストで赤点回避するためのプリントなんだけど、私、最初の公式から意味不明で……」
千歳がガックリと項垂れる。
一ノ瀬さんはそのプリントを指先でそっと持ち上げ、数秒ほど眺めると、ふぅ、と小さいため息をついた。
「……信じられないわ。千歳さん、あなた、因数分解の基本対称式すら頭に入っていないのね。これは数学ではなく、もはやただの数字の迷子よ」
「う、うう……面目ないです……」
「いいわ、高坂くん」
一ノ瀬さんはバッグを隣の机に置くと、流れるような動作で俺の前の席に腰掛けた。
「このまま彼女が赤点を取り、夏の遠征とやらに居残りになれば、テスト明けの私のお弁当サンプリング環境にも悪影響を及ぼす可能性があるわ。何より、私の前でこのような不完全な数式を見せつけられるのは、一ノ瀬家の人間として精神衛生上よろしくないの。……私が、彼女の構造解析(指導)をしてあげるわ」
「えっ!? 一ノ瀬さんが教えてくれるの!?」
千歳がガタッと椅子を鳴らして驚愕の声を上げる。
学年トップ、模試でも常に県内最上位に位置する一ノ瀬葵の個別指導。塾に行けば一体いくら取られるか分からないレベルの超高級家庭教師が、今、ここに誕生した瞬間だった。
「勘違いしないで頂戴、千歳さん。これはあくまで、未来の食味調査環境を保護するための、先行投資よ」
一ノ瀬さんはフンスと胸を張り、制服のポケットからお洒落な万年筆を取り出した。
「さあ、始めなさい。まずはその、脳に直接響くような間違った解答の修正からよ」
「は、はいっ! よろしくお願いします、一ノ瀬先生……!」
一ノ瀬さんの圧倒的なオーラに押され、千歳が完全に体育会系の直立不動(座っているけど)になる。
こうして、俺の机を挟んだ、奇妙な放課後補習がスタートした。
「違うわ、千歳さん。どうしてそこで符号が反転するのかしら。あなたの脳内はオセロゲームか何かなの? 数式はもっとエレガントに、必然性を持って動くものよ」
「ひゃいっ! すみません! ええと、じゃあここはプラス……?」
「そうよ。よく出来たわ、その調子で次の展開式を記述しなさい」
一ノ瀬さんの指導は、驚くほど的確だった。
言葉遣いこそ相変わらずズレていて辛辣だが、千歳がどこで躓いているのかを一瞬で見抜き、論理的に、かつ分かりやすく噛み砕いて説明していく。野生の勘だけで生きてきた千歳も、一ノ瀬さんの「データに基づいた解説」が意外としっくりきたのか、もの凄い集中力でペンを動かし始めた。
二人が数式に向き合う静かな声が、夕暮れの教室に心地よく響く。
俺はというと、完全にやることがなくなっていた。自分の勉強を進めつつ、集中している二人の邪魔にならないよう、静かに見守る。
気づけば、窓の外は綺麗な茜色に染まり、時計の針は午後5時を回ろうとしていた。
グゥゥゥ~~~~……。
静まり返った教室に、かなり大きめの、そして非常に情熱的な「腹の虫の音」が鳴り響いた。
「あ……」
千歳が顔を真っ赤にして、自分の下腹部を押さえる。
「す、すみません……。頭使ったら、猛烈にお腹減ってきちゃって……」
「……そうね。脳のブドウ糖が枯渇したようね」
一ノ瀬さんも万年筆を置き、心なしか、俺の顔をじっと見つめてきた。その瞳には、勉強の疲れというよりも、「何かを期待する」いつものサンプラーの光が宿っている。
「高坂くん。……この状況において、指導効率を最大限に維持するためには、外部からの『エネルギー補給』が不可欠であると、私の脳が警鐘を鳴らしているわ」
「一ノ瀬さん、そんなこと言われても、今日はお弁当持ってきてないからね?」
俺が苦笑しながら言うと、一ノ瀬さんは「分かっているわ」と、スッとバッグに手を伸ばした。
「だからこそ、今回は私が『等価交換』ではなく、純粋な『資材提供』を行うわ。……これを使用しなさい」
一ノ瀬さんが机の上に厳かに置いたのは、購買で買ってきたと思われる、何の変哲もない普通の『コッペパン(つぶあん&マーガリン)』だった。ただし、なぜか最高級のペーパーナプキンに包まれている。
「……購買のパン? これをどうしろと」
「高坂くん。あなたの手によって、このありふれた『小麦の塊』に、放課後の活力を生み出すような……何かしらの『アップデート』を施しなさい。それだけのポテンシャルが、あなたの調理技術にはあると、これまでのデータが証明しているわ」
一ノ瀬さんは、まるで俺に国家機密の解読を依頼するかのような真剣な目で、コッペパンを差し出してきた。千歳も「高坂……なんか、なんか美味しいやつにして……!」と、神を崇めるような目で俺を見つめている。
「……はぁ。放課後の教室で、購買のパンをアレンジしろってか?」
俺はため息をつきながらも、自分の通学バッグの奥底をゴソゴソと探り始めた。
お弁当は作ってこなかったが、料理男子としての「ある最低限の備え」は、常にバッグの中に忍ばせてあるのだ。




