第3話『午前三時の缶コーヒーと、バレてはいけない秘密』
秋が深まるにつれ、広報部は新製品の発表会に向けた怒涛の繁忙期に突入した。
連日の残業で、部の空気は殺伐としていた。有子も連日深夜までオフィスに残り、プレスリリースの最終確認やメディアへのアプローチリストの作成に追われていた。
金曜日の深夜、午前二時を過ぎた頃、オフィスに残っているのは有子と向井の二人だけになっていた。
疲れとプレッシャーで頭が朦朧とし、有子はパソコンの画面を見つめたまま動けなくなった。急に目頭が熱くなり、視界が滲む。いけない、こんなところで泣いたら終わりだ。有子は立ち上がり、逃げるように給湯室へと向かった。
誰もいない給湯室で、有子は自動販売機の横にしゃがみ込み、膝に顔を埋めた。
仕事がうまくいかないつらさ。三十代になっても何一つ自信を持てない自分への情けなさ。色々な感情が溢れ出し、抑えていた息が漏れた。
その時、カチャリと給湯室のドアが開く音がした。
有子は慌てて顔を上げ、涙を拭った。入り口に立っていたのは、向井だった。
向井はしゃがみ込んでいる有子を見ると、一瞬だけ目を見開いたが、すぐにいつもの無表情に戻った。
「……こんなところで何をしているんですか」
「すみません、少し目眩がして……すぐに戻ります」
有子が立ち上がろうとすると、向井はそれを手で制し、自販機のボタンを押した。ガコンと音を立てて落ちてきたのは、温かいほうじ茶のペットボトルだった。
向井はそれを拾い上げると、無言で有子の目の前の台に置いた。
「……飲み物を買い間違えました。差し上げますから、それを飲んだら今日はもう上がりなさい。残りの作業は僕が引き継ぎます」
「えっ、でも、向井課長の分まで頼むわけには」
「指示に従ってください。集中力を欠いた状態で仕事を続けられては、誤字脱字の原因になります」
向井はそう冷たく言い捨てると、一度も有子と目を合わせないまま、給湯室を出て行った。
有子は残された温かいペットボトルを両手で包み込んだ。じんわりとした熱が、凍えていた指先から心臓へと伝わっていく。
間違えて買うはずがない。この自販機でほうじ茶のボタンは、一番端の押しにくい場所にあるのだから。
その夜、タクシーで帰宅した有子は、ベッドに倒れ込むようにしてスマホを開いた。
すでに土曜日の午前三時を回っていた。アプリには、クロからの新しいメッセージが届いていた。
『ゆきさん、こんばんは。こんな時間にすみません。今日、職場の部下がとても辛そうにして泣いているのを見てしまいました。何か声をかけてあげたかったけれど、相変わらず気の利いた言葉一つ出てこず、ただ温かい飲み物を渡すことしかできませんでした。自分は本当に無力で、情けない上司です』
有子の指が止まった。
画面の文字が滲んで見える。
向井は、自分が泣いていたことを知っていた。そして、あの冷たい態度の裏で、どれほど悩みながらあの飲み物を手渡してくれたのか。
有子の胸に、抑えきれない愛おしさと切なさが溢れ出した。
この人に伝えてあげたい。あなたのその不器用な優しさが、どれほど私を救ってくれたか。あなたが「無力だ」と自分を責める必要なんて、どこにもないのだと。
有子は感情の波に飲み込まれ、我を忘れてメッセージを打ち込んで送信してしまった。
『そんなことありません。その部下の方は、きっとすごく救われたと思いますよ。言葉なんてなくても、そのお茶、すごく温かかったはずですから』
送信ボタンを押した直後、有子はハッと息をのんだ。
しまっ——。
全身の血が引いていくのが分かった。
なぜ「お茶」だと知っているのか。向井がメッセージに書いたのは「温かい飲み物」という言葉だけだ。それなのに自分は、渡されたものが「お茶」であったことを知っている前提で返信してしまった。
アプリの画面を開いたまま、有子は息を止めて固まっていた。
数十秒の沈黙の後、スマホが短く震えた。
クロからの返信だった。
『……ゆきさん。どうして僕が渡したのが「お茶」だと分かったんですか?』
画面に表示されたその一文は、静かで、しかし逃げ場のない決定的な問いかけだった。




