第4話『「本当の私」を誰かに見つけてほしかった』
誤魔化す言葉をいくら考えても、すべてが空虚に思えた。
有子は腹をくくった。もう、逃げることはできない。これ以上、彼の不器用な誠実さを嘘で弄ぶような真似はしたくなかった。
有子は画面に文字を打ち込んだ。
『ごまかせませんね。直接、お話しさせてください。今日、土曜日の午後二時、会社近くのブックカフェでお待ちしています。もしご都合がよければ、来てください』
数時間後の午後二時前。有子はブックカフェの奥にある、静かなボックス席に座っていた。
心臓が破裂しそうなほど高く脈打っている。テーブルの上に置いたスマホの画面には、アプリのやり取りが表示されている。
午後二時ちょうど、カフェのドアにつけられたベルがチリンと鳴った。
入ってきたのは、私服姿の向井だった。
職場での完璧なスーツ姿とは違う、少しゆったりとしたグレーのニットを着ている。視線を泳がせながら店内を見渡していた向井は、奥の席にいる有子と目が合った瞬間、泥棒が見つかったかのように完全に固まった。
向井はゆっくりと歩み寄り、有子の向かいの席に腰を下ろした。
「……岡野さん」
低く掠れた声だった。向井の視線が、テーブルの上に置かれた有子のスマホ画面に落ちる。そこには「クロ」と「ゆき」のメッセージ履歴がはっきりと映し出されていた。
向井は深く目をつむり、頭を下げた。
「……すまなかった。アプリ上で、そうとは知らずに君に対して失礼な発言を重ねていた。上司としての立場を利用してハラスメントをしたつもりはないが、不快な思いをさせたことに変わりはない。本当に申し訳ない」
いつもの誠実で、しかし固い謝罪の言葉。
有子は静かに首を振った。
「謝らないでください、向井課長。不快なんて、一度も思ったことはありません」
向井が顔を上げた。その目には、強い困惑と動揺が色濃く浮かんでいた。
「知識や経験が浅いことへの指導は正当なものでしたし、何よりアプリの中のクロさんの言葉に、私はずっと救われていました」
「でも、僕は君に……会社での愚痴や、自分勝手な弱音ばかりを吐いていた」
「それが、嬉しかったんです」
有子は向井の目を真っ直ぐに見つめた。
「会社での向井課長は、いつも完璧で、怖くて、近寄りがたい存在でした。でも、アプリの中のクロさんは、誰よりも繊細で、誰よりも真剣に仕事や周囲の人に向き合っていて……そして、誰よりも孤立して泣いていました」
向井の息が詰まる音が聞こえた。
「私、ずっと自分に自信がなくて、誰かに本当の自分を見つけてほしいと思って生きてきました。でも、クロさんの言葉を読んでいるうちに気づいたんです。見つけてほしかったのは、私だけじゃなかった。向井課長も、ずっと誰かに見つけてほしかったんじゃないですか?」
静かなカフェの席で、向井はメガネを外し、両手で深く顔を覆った。
指の隙間から、漏れ出すような声が聞こえた。
「……僕は、自分が嫌いだった」
向井の肩が微かに震えていた。
「人にどう接していいか分からない。正しさを振りかざすことでしか自分を保てない。職場でもずっと浮いていて……夜、一人で部屋にいると、自分がこの世界に存在していないような恐怖に襲われるんだ。アプリで君と話している時間だけが、僕が人間になれる唯一の時間だった」
三十五歳の大人である彼が、目の前でボロボロと鎧を剥がしていく。
その生々しく不器用な素顔は、有子の目には何よりも美しく、愛おしく映った。
「もう、アプリの中で話すのはやめましょう」
有子は自分のスマホを操作し、その場でアプリの退会手続きを完了させた。画面から「クロ」と「ゆき」の部屋が消えていく。
向井が驚いたように顔を上げた。
「岡野さん……?」
「アプリの中のクロさんじゃなくて、私は目の前にいる向井晋一さんという人と、ちゃんと向き合いたいんです」
向井は赤くなった目で有子を見つめ、ゆっくりと、しかし強く頷いた。




