第2話『昼は敬語で殺し合い、夜はタメ口で救われる』
月曜日の朝、オフィスは独特の低い緊張感に包まれていた。
有子は提出期限の午前九時ちょうどに、週末を潰して修正したプレスリリースを向井のデスクへ持参した。
「向井課長、先週末にご指摘いただいたプレスリリースの修正案です」
向井はメガネの輪郭を指で正しながら、差し出された紙に目を通した。数秒の静寂が、有子には永遠のように引き延ばされる。
「……うん。打ち出しの軸が明確になりましたね。無駄な修飾語を削ったことで、伝えたい事実が際立っています。これで進めてください」
「ありがとうございます」
「ただし」と向井は視線を上げ、有子の顔をじっと見つめた。「岡野さん、目の下のクマがひどいですよ。週末、ちゃんと休んでいますか」
「あ、はい。少し読書をして夜更かしをしてしまいまして」
「自己管理も仕事のうちです。体調を崩されては困りますからね」
淡々とそう言うと、向井はすでに次の書類に視線を落としていた。相変わらず隙がなく、温かみを感じさせない対応だった。
しかし、その日の夜。有子が自室のベッドでスマホを開くと、アプリのメッセージ欄には全く異なる「クロ」の言葉が残されていた。
『ゆきさん、こんばんは。今日もお仕事お疲れ様でした。僕は今日、職場で部下に少しきつい言い方をしてしまったかもしれないと、ずっと一人で反省していました』
有子は驚いて身体を起こした。
画面の文字を何度も読み返す。
『その部下の方はとても真面目で、良い文章を書く人なんです。もっと良くなってほしいという一心だったのですが、僕の言い方が冷たすぎたせいか、彼女に余計なプレッシャーを与えてしまったのではないかと……。僕は昔から、人に感情を伝えるのが下手で、正しいことばかりを言おうとして人を遠ざけてしまいます。本当はもっと普通に、誰かと笑い合ったり、労い合ったりしたいだけなのに』
画面を見つめる有子の胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
昼間、自分に対して冷徹な指示を出していたあの向井課長が、夜の暗闇の中で、こんなにも自分の不器用さに苦しんでいたなんて。
職場で見せる鉄面皮は、冷酷さからではなく、彼自身の不器用さと孤独を守るための鎧だったのだ。
有子はスマホを両手で握り締め、ゆっくりと文字を打ち込んだ。
『クロさん、こんばんは。その部下の方も、きっとクロさんの言葉の奥にある真意を分かっていると思いますよ。ただ正論をぶつけられただけなら傷つくかもしれないけれど、そこに嘘がないことくらい、一生懸命働いている人なら伝わっているはずです』
『そうでしょうか。そう言っていただけると、少し救われます』
即座に返信が来た。
『ゆきさんは、本当に優しい方ですね。画面の向こうのあなたの言葉に、僕はいつも温かいお風呂に浸かっているような心地がします』
有子は頬が熱くなるのを感じた。
昼間は「向井課長」と「岡野部員」として、寸分の隙もない敬語で書類をやり取りしている。だが夜になれば、「クロ」と「ゆき」という名無しの二人として、互いの孤独や弱さを打ち明け合っている。
この二重生活は危険だ。いつバレてもおかしくない氷の上に立っているようなものだ。
それでも、有子は夜が来るのをどこかで心待ちにしている自分を止められなかった。
ある夜、クロからこんな質問が届いた。
『ゆきさんは、どんな時に一番寂しさを感じますか?』
有子は少し考えてから返した。
『誰かと一緒にいるのに、自分の本当の気持ちを一つも言葉にできないまま「お疲れ様でした」って笑顔で別れる時です。大人になると、本音を言うのってどうしてこんなに難しくなるんでしょうね』
『分かります』
クロからの返信は早かった。
『僕も毎日、本音を鍵のかかった箱に閉じ込めて生きている気がします。でも、ゆきさんとこうして話している時間だけは、その鍵を開けられる気がするんです』
その言葉は、どんな甘い口説き文句よりも深く、有子の心に突き刺さった。
画面の向こうにいるのは、自分の上司だ。決して好きになってはいけない、関わってはいけない相手だ。
そう自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど、有子の心は「向井晋一」という男の隠された素顔に、深く深く引き寄せられていった。




