第1話『イイネの相手は、今日私を叱った課長でした』
十月の金曜日、午後十時を過ぎたビル街の空気は、昼間の湿気をきれいに削ぎ落とした冷たさを帯び始めていた。
オフィスはエアコンの微かな送風音が低く底鳴りしているだけで、広報部の島にはもう三十一歳の岡野有子しか残っていない。蛍光灯の白々しい光が、デスクに散らばったプレスリリースの校正紙を無感情に照らしていた。
「岡野さん」
背後から届いた声は、抑揚という概念をどこかに忘れてきたみたいに平坦だった。振り返るまでもない。直属の上司、向井晋一課長だ。三十五歳。オーダーメイドの紺のスーツに皺一つ作らず、感情をまったく感じさせない切れ長の目で有子の手元を見下ろしている。
「このプレスリリースですが」
向井は赤ペンでびっしりと注記が書き込まれた用紙を、有子のキーボードの脇へ滑らせた。紙がデスクに触れるカサッという小さな音が、静まり返ったフロアに異様に響く。
「全体的に、当社の開発意図をなぞっただけの『言い訳』になっています。新製品がユーザーの生活をどう変えるのか、その具体性が決定的に欠けている。メディアの人間は暇ではありませんから、一行目で惹きつけられなければその先は読みません。打ち出しの軸をゼロから組み直して、月曜の朝九時に再提出してください」
「……申し訳ありません。すぐに練り直します」
「謝罪は不要です。時間と成果物で示してください」
向井は腕時計に一瞬だけ目を落とすと、淡々と言葉を継いだ。
「それから、提出前の推敲をもっと丁寧に行ってください。『非常に』や『画期的な』といった安易な修飾語が多すぎる。形容詞に頼る文章は、中身のなさを露呈させるだけです」
「はい……」
「では、お先に」
向井はそれだけ言うと、寸分の無駄もない歩調で自分のデスクへ戻り、鞄を手に取ると振り返りもせずに立ち去った。重い自動ドアが静かに閉まる。
一人取り残された有子は、赤ペンで真っ赤に染まった紙面を見つめたまま、ゆっくりと息を吐き出した。吐き出した息が、そのまま胸の奥で重く沈殿していくのが分かった。
終電間際の電車に揺られ、駅から徒歩八分の賃貸マンションに帰り着いたのは深夜一時過ぎだった。
靴を脱ぎ散らかしたままリビングのソファに倒れ込み、コンビニの袋から缶チューハイを取り出す。プルタブを弾くと、プシュッという情けない音が部屋に響いた。冷たいアルコールを喉に流し込むが、昼間から続くみぞおちの痛みを洗うことはできない。
三十一歳。大学時代の友人は家を建てただの、子供が幼稚園に入っただの、あるいは外資系に転職して年収が跳ね上がっただのと、SNSでそれぞれの「前進」を報告している。自分だけが、何年もこの小さなメーカーの広報部で、赤ペンの入った用紙と格闘しながら同じ場所をぐるぐると回っている気がした。
誰かに話を聞いてほしいわけでもない。ただ、自分がこの世界にちゃんと存在しているという確信が欲しくて、先週、友人に半ば強引に勧められたマッチングアプリを開いた。プロフィールを入力したものの、知らない男性とメッセージを交わす気力すら湧かず放置していた画面を、現実逃避のつもりでぼんやりとスクロールする。
画面に「あなたにおすすめの相手」として一人の男性が表示された。
プロフィール画像は顔写真ではなく、シンプルな白いシャツを着た首から下の写真だった。年齢は三十五歳。居住地は東京都。
有子の指が止まったのは、その下に並んでいた自己紹介の文面だった。
『趣味:深夜ラジオのリスナー(特に地方局のポッドキャスト)、レトルトカレーの成分表の比較。
休日:部屋の書類整理、靴磨き、万年筆のインク補充。
特技:文章の誤字脱字、および不要な形容詞を一瞬で見つけること。
性格:口下手で不器用ですが、誠実なやり取りを心がけます。社交的な会話は得意ではありません』
有子の体が硬直した。手に持っていた缶チューハイの結露が、指を伝ってぽたりと膝に落ちる。
深夜ラジオ。靴磨き。万年筆。そして、「不要な形容詞を一瞬で見つけること」。
数時間前のオフィスで「形容詞に頼る文章は中身のなさを露呈させるだけです」と言い放った向井の姿が、恐ろしいほど鮮明に蘇った。
嘘でしょう、と有子は心の中で呟いた。
まさか、あの鉄面皮で社内一の冷血漢と恐れられている向井課長が、マッチングアプリをやっているなんて。しかも、おすすめ画面に上がってくるなんて、どんな悪質な冗談だろうか。
関わりたくない。関わったら人生が終わる。
有子は血の気が引くのを感じながら、慌ててアプリを閉じようとした。しかし、焦って画面をフリックした指先が、よりによって画面右下のハートマーク——「いいね!」のアイコンを掠めてしまった。
「えっ、嘘、待って」
画面が切り替わり、軽い効果音とともに「いいね!を送信しました」というポップアップが表示された。指が震える。取り消しボタンを探して画面を連打するが、無情にも画面は次の段階へと進んでいく。
その時だった。
画面の上部から、すりガラスのような通知が滑り込んできた。
『マッチングが成立しました!』
続いて、相手からのメッセージが届く。
『はじめまして。遅い時間に恐縮です。プロフィールを拝見し、文章がとても丁寧で落ち着いた印象を受けましたので、お返事いたしました。クロと申します』
アプリ上の名前は「クロ」。
有子は画面を見つめたまま、息をすることすら忘れていた。
画面の向こうにいるのは、今日自分を容赦なく叱責した上司だ。しかし、そこに並んでいるのは、職場での冷徹な威圧感とは程遠い、どこかわずかに怯えたような、慎重で丁寧な言葉だった。
すぐにアプリを退会するか、彼をブロックしてしまえばいい。それが社会人として正しい危機管理だ。
だが、有子の指は画面の上で止まった。
画面越しに見える「クロ」という男の不器用な佇まいに、なぜか胸の奥が不規則に脈打つのを止められなかった。
有子は深く息を吸い込み、正体を決して明かさないと心に誓いながら、ゆっくりと返信の文字を打ち始めた。
『はじめまして。こちらこそ、遅くにすみません。ゆきと申します。メッセージ、ありがとうございます』
画面の向こうで、向井晋一がその通知を受け取ったことを想像すると、背筋に奇妙な緊張と、小さな熱が走った。




