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『琥珀色の記憶をほどいて ―時洲美波と真実の足跡―』  作者: 長月有希


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第二話『傀儡』(後)

 使い込まれて傷だらけになった革の手帳、端が擦り切れて色褪せた名刺入れ、インクの染みがついた安価な筆記具、そして、家族の笑顔の写真が大切にしまわれた二つ折りの財布。

 鑑識によって撮影された極めて鮮明な写真は、垂水という三十代の記者が、どれほど真面目に、そして泥臭く自分の足で真実を追い求めてきたかを、嘘偽りなく物語っていた。


「垂水さんは、本当に仕事に誠実な方だったのですね。手帳の革の傷み方や、筆記具の擦れ具合を見れば、彼が雨の日も風の日も歩き回り、人々の小さな声を聞き漏らさないように何度もこれを取り出しては、無我夢中で文字を走らせていたかがよくわかります」


 美波が画面を愛おしむように見つめながら呟くと、桐生も腕を組んで重々しく頷いた。


「ああ。同業者からは融通が利かないと煙たがられることも多かったらしいが、決して信念を曲げない、一本筋の通った男だったそうだ。だからこそ、明智(あけち)のような強大な権力の闇にも、臆することなく一人で立ち向かっていけたのだろうな」


 桐生の声には、同じように悪と闘う人間としての、敬意と無念さが滲んでいた。

 美波は小さく息を吐き、画面を操作して次の写真へと進めた。腕時計、ハンカチ、小銭入れ、と順に確認していく中、不意にその指先が止まった。そして、丸眼鏡の奥の琥珀色の瞳が、微かな驚きに見開かれた。


「桐生さん。この写真のモノは、何ですか」


 美波が指差した画面には、鈍い銀色をした、少し大ぶりで重厚な意匠の指輪の写真が映し出されていた。印鑑のように上面が平らになった形状のものだ。

 銀の表面は経年劣化で黒ずんでおり、上面には摩耗してほとんど見えなくなった、紋章のような飾りが彫り込まれている。


「ああ、それか。それは遺体が発見された時、被害者の右手の薬指にはめられていた指輪だ。念のため鑑定に回したが、有名なブランド品でもなく、銀の純度も低い、ただの古い装飾品だと報告を受けている。鑑識の連中も、事件とは無関係の私物だと判断して、一覧の最後に追いやっていたのだが。……それが何か気になるのか」


 桐生が不思議そうに首を傾げた。

 美波は無言のまま、ポシェットから愛用の銀色のルーペを取り出すと、画面に映る指輪の側面へと当てる。


 極めて鮮明な近接写真だからこそ見える、精緻な世界。


 美波は息を殺して画面を舐めるように見つめ、やがてゆっくりと顔を上げた。その表情には、普段ののんびりとした温かさはなく、確かなる真実を見つけた古物商の鋭い光が走っていた。


「鑑識の方が見落とすのも無理はありません。警察の皆さんは、これが『ただの古い指輪だ』という思い込みを持っていたからです。ですが桐生さん。これは、安価な装飾品などではありません」

「何だって」

「ここを見てください。平らな装飾のすぐ下の部分です」


 美波に促され、桐生が画面に目を凝らす。

 確かに、分厚い銀の台座と、指を通す輪の土台との間に、肉眼ではほとんど見えないほどの極小の隙間がぐるりと一周入っているのがわかった。さらに、側面の一箇所には、意匠の一部に紛れるようにして、とても小さな留め具の金具が埋め込まれている。


「隙間……。それに、留め具だと。まさか、この指輪の上の部分は」


「はい。開閉式の蓋になっています。桐生さん、これは中世のヨーロッパで作られていた、『秘密の指輪(ポイズンリング)』と呼ばれる、非常に精巧な品です」


 「美波はルーペを下ろし、落ち着いた声で、そして滔々と解説を始めた。


「十六世紀頃のルネサンス期のヨーロッパの貴族たちは、暗殺用の毒薬や薬、あるいは愛する人の遺髪などを隠し持つために、指輪の台座の下に小さな空洞を設けたこうした指輪を好んで身につけていました。現代の技術でも再現するのが難しいほど、精緻な仕掛けが施されています。これは決して、安価な品などではありません。アンティークの愛好家の間で、非常に高値で取引される代物です」


「秘密の指輪(ポイズンリング)。隠すための指輪だと」


 桐生は顔をしかめ、その事実に驚きを隠せなかった。


「だが、なんで垂水みたいな真面目で泥臭い記者が、そんな珍しい指輪を持っていたんだ。趣味で骨董品を集めていたという話は聞いていないぞ」

「ええ。おそらく、垂水さんが自分自身で手に入れたものではないと思います。なぜなら、私、この指輪に、はっきりと見覚えがあるからです」


 美波のその言葉に、桐生は「なんだと」と大きな声を上げた。

 美波の脳裏に、ある一人の男の姿が鮮明に蘇っていた。

 以前、時洲堂に前触れもなく現れ、美波に古い懐中時計を見せて過去の未解決事件について語った、真実を追う影のような男。


「牧村(まきむら)さんです」


 美波は、その名前を口にするだけで、胸の奥に冷たい風が吹き抜けるような不思議な感覚を覚えた。


「以前、私のもとを訪れた、牧村という記者がいらっしゃいました。彼は、過去の事件の痕跡を執念深く追い続けている、とても鋭い眼を持った方です。彼が時洲堂を訪れた時、その手にはめられていたのが、まさにこの指輪でした。特有の傷のつき方、摩耗した紋章の削れ具合。間違いありません、これは牧村さんの持ち物です」


「牧村……まさか、牧村(まきむら)秋義(あきよし)のことか」


 桐生は鋭く目を見開き、信じられないものを見るように声を落とした。


「桐生さん、ご存知なのですか」

「ああ。かつて警視庁捜査一課にいた元刑事だ。俺たちにとっては先輩にあたる。同期の綾瀬(あやせ)の奴がやけに慕っていたが、数年前に組織を去って、今はフリーの記者を気取っていると聞いたことがある」


 エリート気質の桐生にとって、警察組織を去った彼に格別の感情はない。だが、その名前がこの殺人事件の遺留品と結びつくことなど、全く想定していなかった。


「だが、どういうことだ。なんでそんな男の指輪が、垂水の指にはめられていたんだ」


 桐生が混乱したように頭を抱える。

 美波は両手を胸の前で強く握りしめると、モノの歩んできた数奇な歴史と、人間の思惑とを優しく、しかし確かな視座で結びつけていく。


「おそらく、垂水さんは、その牧村さんと裏で繋がっていたのだと思います」

「記者の垂水が、牧村と」


「はい。垂水さんは、現役の議員である明智という、国家規模の権力の闇を暴こうとしていました。そのための情報収集の過程で、牧村さんと接触したのではないでしょうか。そして元刑事である牧村さんは、巨大な権力を追うことの絶対的な危険性を、誰よりも熟知していたはずです」


 美波は画面に映る指輪の写真を、悲しそうに見つめた。


「牧村さんは、垂水さんに情報を提供するかわりに、あるいは何らかの条件として、この指輪を『お守り』として渡したのです。万が一、垂水さんが命を狙われるような事態に陥ったとしても。この指輪の隠し場所があれば、奪われてはならない最も重要な証拠を、相手の目から隠し通すことができるからです」

「証拠を隠す、だと」


 桐生は息を呑み、限界まで目を見開いた。


「おい、まさか。蛯名(えびな)も、俺たち警察も、いくら探しても見つけられなかった証拠のデータの隠し場所は」

「はい」


 美波は真っ直ぐに桐生を見つめ返し、力強く頷いた。


「垂水さんは、事件の夜、公園で蛯名さんに追い詰められた時。自分がもう逃げ切れないこと、そして命を奪われるであろうことを悟ったはずです。それでも彼は、記者としての最後の最後で、相手に証拠を奪われることだけは阻止しようとした。彼は最後の力を振り絞って、小型の電子記録媒体を、この指輪の台座の下の空間に滑り込ませたのです」


 その光景が、美波には痛いほどに想像できた。

 暗い冷雨の降る公園。迫り来る蛯名の暴力。薄れゆく意識の中で、垂水は震える指で指輪の仕掛けを開き、未来への希望を託すようにして証拠を隠し、そして固く蓋を閉じたのだ。


「なんて奴だ。自分が命を落とす間際だというのに、冷静に証拠を指輪に隠したというのか」


 桐生は呆然と呟き、そしてハッと顔を上げた。


「だが、牧村という男は、なんでわざわざそんな手の込んだことをしたんだ。証拠を隠すだけなら、他にも方法はあったはずだ。なぜ、自分の大切な指輪を渡した」

「それは、牧村さんからの、私への『問いかけ』なのだと思います」


 美波は少しだけ悔しそうに、きゅっと唇を噛んだ。


「牧村さんは、警察がこの指輪を回収しても、ただの古い装飾品だと思って見逃すことを見越していました。その上で、もし事件が迷宮入りしそうになれば。桐生さんのような優秀な刑事が、最終的に時洲堂の私を頼ってくるだろうというところまで、見通していたのです」

「俺が、あんたのところへ来ることを……」

「はい。牧村さんは、こう言っているのです。『この指輪に隠された秘密に、お前なら絶対に気づくだろう。時洲美波』と。彼は、遠くから私を試しているのです」


 元刑事という立場を捨ててなお、底知れない知性と不気味さを放つ男。それを肌で感じ取った桐生は、ギリッと奥歯を噛み鳴らした。


「……相変わらず、食えない野郎だ」


 桐生は勢いよく重厚な椅子から立ち上がり、自分のコートをバサッと掴んだ。


「だが、その問いかけもここまでだ。時洲、あんたの優しくて温かい眼差しのおかげで、垂水が命懸けで残してくれた真実に辿り着くことができた。俺はすぐに本庁に戻って、保管庫にあるその指輪を確かめる」

「桐生さん、気をつけてください。秘密の指輪の仕掛けはとても繊細です。無理にこじ開けようとすると、中の証拠ごと壊れてしまうかもしれません。写真で見る限り、飾りの右下にある小さな紋章の部分が、隠し留め具になっているはずです。そこを押し込みながら、台座を横にスライドさせるように動かしてみてください」

「紋章を押しながら、横に動かすのだな。わかった」


 桐生は端末を鞄にしまい、美波に向かって深々と、最大の敬意を込めてお辞儀をした。


「ありがとう、時洲。あんたがいなかったら、垂水の無念は永遠に闇に葬られるところだった。この恩は、必ず返す」

「私の方こそ、垂水さんの想いに寄り添う機会をくださって、ありがとうございました。明智議員と蛯名さんを、必ず捕まえてくださいね」


 美波が力強く見送ると、桐生は「ああ、任せておけ」と頼もしく笑い、冷たい氷雨が降る夜の街へと、弾かれたように飛び出していった。


 時洲堂に残された美波は、ストーブの青色の火を見つめながら、遠くで真実を追う牧村の暗躍する影と、記者の無言の覚悟に、祈りを捧げていた。


 ***


 その日の深夜。警視庁本部、証拠品保管庫。

 桐生は息を切らして保管庫に駆け込むと、当直の管理官に凄まじい剣幕で書類を提示し、垂水の遺留品である銀の指輪を取り出した。


 冷たい蛍光灯の光の下で見るその指輪は、確かに黒ずんで見え、一見すると何の変哲もない古い品だった。

 しかし、美波の言葉を信じ、桐生は慎重に指輪の装飾部分を観察した。

 そして、右下にある微小な紋章の飾りに爪を立て、カチッと押し込みながら、台座を横方向へと動かした。

 微かな金属音が響き、何十年もの間開かれることのなかった台座が、滑らかに横へとスライドした。


 その下の、わずか数ミリの隠し空間。


 そこに、垂水が最期に遺した真実、爪の先ほどの電子記録媒体が、血に染まった指で押し込まれた痕跡と共に、確かに横たわっていたのである。


「あったぞ。垂水の執念が、ここにあった」


 桐生は震える手でそれを取り出すと、すぐに解析の担当部署へと走った。

 数十分後。解析された証拠がモニターに表示された瞬間、深夜の捜査一課の部屋に歓声とどよめきが入り交じった。そこには、大企業から明智議員の関連会社へと振り込まれた数十億円にのぼる賄賂の裏帳簿データが、確かな記録と共に克明に記録されていたのだ。

 さらに、垂水が決死の覚悟で明智の事務所に仕掛けていた小型の盗聴器が捉えた、蛯名と明智の密会の音声記録までが含まれていた。紛れもなく決定的な証拠だ。


「よし。これで役者は揃った。今すぐ逮捕状を請求しろ。捜査一課、全班出動。明智と蛯名の身柄を、夜明け前に確保するぞ」


 桐生の雷のような号令のもと、警視庁の刑事たちが一斉に動き出した。

 眠りについていた東京の街を、何台もの警察車両がサイレンの音を立てずに疾走していく。向かう先は、高級住宅街にある明智の豪邸と、都心のタワーマンションにある蛯名の部屋だ。


 夜明け前、まだ外が薄暗い時間帯。

 桐生を先頭にした捜査員たちが、明智と蛯名を急襲した。証拠隠滅の隙を一切与えない、電光石火の見事な作戦だった。高級な寝巻き姿のまま確保され、呆然と腰を抜かす蛯名。そして、邸宅の入り口で「私を誰だと思っている。弁護士を呼べ」と見苦しく怒鳴り散らす明智。


 彼らはそれぞれ別の車両に押し込まれ、警視庁へと連行されていった。


 ***


 翌朝。警視庁の取調室。


 分厚い扉に閉ざされた無機質な空間で、桐生はパイプ椅子に深く腰掛け、机の向こう側に座る明智議員を鋭く睨みつけていた。

 明智は高級な衣服を着こなし、白髪混じりの髪を綺麗に整えている。逮捕された直後の取り乱した様子はすでに消え失せ、いかにも大物政治家らしい、ふんぞり返った余裕の態度を見せていた。


「桐生刑事と言ったかな。君たち警察の勇み足には、本当に呆れ果てるよ。私が大企業から裏金を受け取っていたなどという荒唐無稽な疑惑、全くの事実無根だ。ましてや、記者の殺害など、私には一切関係のないことだ」


 明智は鼻で笑い、腕を組んで桐生を見下ろした。


「だいたい、その相良という男が自首してきているのだろう。金目当ての強盗殺人で、事件はすでに解決しているじゃないか。私のような国を動かす人間を、こんな根も葉もない言いがかりで拘束するなど、君の立場が危うくなるだけでは済まないぞ」


 その傲慢な態度に、桐生は短く息を吐き、机の上に置かれていた分厚い記録帳を開いた。


「明智先生。残念だが、相良の自首は、あんたの秘書である蛯名が金で雇って仕組んだ偽装であることがすでに証明されている」

「何だと」

「被害者の上着の胸元には、蛯名が着ていた最高級の生地の繊維と摩擦による毛羽立ちがしっかりと残されていた。相良のような背格好と安物の服装の人間では、絶対にあり得ない痕跡だ」


 桐生が現場の詳細な近接写真と鑑定結果を突きつけると、明智の顔色にほんの少しだけ焦りの色が走る。しかし、彼はすぐにいつもの狡猾な顔を取り戻すと、大げさに天を仰いで嘆くような芝居を打ち始めた。


「ああ、なんということだ。信じられない」


 明智はわざとらしく両手で顔を覆い、悲痛な声を上げた。


「すべては、あの蛯名が勝手にやったことだ。私は彼を信頼し、資金管理のすべてを任せていたのに。まさか、私の名前を騙って企業から裏金を受け取り、あまつさえその隠蔽のために人殺しまで犯していたとは。……私も、彼に裏切られた被害者なのだよ」


 見事なまでの、トカゲの尻尾切りの言い逃れだった。

 長年、自分の手足となって汚れ仕事を引き受けてきた忠実な秘書を、いとも簡単に切り捨て、すべての罪をなすりつけて自分だけは生き残ろうとする。権力者の常套手段であり、最も醜悪な保身の姿だ。

 桐生は、湧き上がる怒りを必死に堪え、絶対零度の冷ややかな声で告げた。


「先生。あんたは本当に、救いようのない男だな」

「なんだと。刑事の分際で、言葉を慎みたまえ」

「蛯名が勝手にやった。あなたは裏金も殺人も一切知らない。……笑わせるな」


 桐生は衣服の内ポケットから、証拠品の入った透明な袋を取り出し、明智の目の前でゆっくりと揺らして見せた。


「被害者の垂水は、殺される直前、古い指輪の中に指先ほどの記憶媒体を隠していた。ここには、企業からの裏金があんたの懐に直接入ったことを示す完璧な記録が入っている。そして、何よりも決定的な証拠が、もう一つ」


 桐生は机の上に置いた録音機の再生ボタンを押した。

 取調室に、雑音混じりの、しかし間違いなく明智自身の肉声が響き渡った。


『おい蛯名。あの垂水という記者は、まだ動いているのか。このままでは再開発の入札に響くぞ。例の資金の件を探っているなら、いくらかかってもいい。確実に処理しろ』

『はい、明智先生。資金の件と合わせて、私がすべて綺麗に処理しておきます』


 垂水が死の危険を冒して仕掛けた録音機が捉えた、殺人の明確な指示と、裏金の事実を認める生々しい会話。

 それを聞いた瞬間、明智の顔からすべての血の気がサッと引いた。余裕の笑みは完全に崩れ去り、小刻みに唇を震わせて後ずさる。


「そ、そんな馬鹿な。あの時の密室での会話を、垂水が録音していたというのか」

「記者の執念を甘く見たようだな、明智先生。これで、秘書が勝手にやったという言い逃れは通用しない。あんたは、殺人教唆および収賄の容疑で刑務所行きだ」


 桐生は揺るぎない事実を突きつけ、立ち上がった。


 同じ頃、別室で、この明智の醜悪な言い逃れの供述と肉声記録を聞かされていた蛯名は、自分が長年尽くしてきた主人にあっさりと見捨てられた絶望と、言い逃れのできない証拠を前にして、すっかり心が折れていた。

 蛯名はやがて止めどなく涙を流しながら、垂水の殺害、相良への偽装の指示、そして明智の指示で行ってきたすべての余罪について、洗いざらい自供を始めたのである。


 偽りの自首によって迷宮入りしかけていた事件は、こうして若き古物商の優しい眼差しと、刑事の熱意によって、見事な解決を迎えたのであった。


 ***


 事件解決から数日後。

 本格的な冬の冷たく澄んだ青空が広がる、ある日の午後。

 時洲堂のドアベルが涼やかに鳴り、私服姿の桐生が晴れやかな顔で店に入ってきた。


「時洲。いるか」

「桐生さん。いらっしゃいませ」


 美波がカウンターの奥から笑顔で出迎える。桐生の表情は、数日前のあの重苦しい疲労感がすっかり消え去り、事件を解決した男の爽やかで頼もしい空気に満ちていた。


「あんたのおかげで、あのでかい事件がすっかり片付いたぜ。明智と蛯名は起訴が確定し、相良も偽証罪で立件できた。垂水の遺族にも、無事に指輪と真実を返すことができたよ。本当に、あんたのその眼差しには頭が下がる」

「よかった。垂水さんの残した声が、ちゃんと世の中に届いたのですね」


 美波が安堵の溜息をついて微笑むと、桐生は少しだけ落ち着かない様子で、咳払いを一つした。

 そして、コートの襟を整え、大きな体を落ち着きなく揺らしながら、意を決したように美波を真っ直ぐに見つめた。


「その、なんだ、時洲。今回の件のお礼も兼ねてなのだが。もしよかったら、今度の日曜日に、銀座の美味い食事でも……」


 捜査一課の強面刑事が頬を赤く染め、柄にもなく言葉を濁しながら美波を食事に誘おうとした、まさにその瞬間だった。

 入り口のガラス戸が勢いよく開け放たれた。


「おい美波。ストーブの灯油が切れそうだと洋子が言って――って、お前はまた来やがったのか、この刑事」


 荒々しく足音を立てて入ってきたのは、近所で金物工房を営む、カーキ色の上着を着た無骨な職人、三枝(さえぐさ)幸一(こういち)だった。

 幸一は桐生の姿を見るなり、眉間に険しい皺を寄せると、地鳴りのような低い声で怒鳴り声を上げる。


「うちの可愛い娘に、事件だの何だのと血生臭い話を何度も持ち込みやがって。だいたい、なんだその締まりのない顔は。美波に色目使ってないで、とっとと帰りやがれ」

「俺はただ、事件解決の報告と、その、正当なお礼の食事に誘おうとだな」

「食事だと。ふざけるな、美波は俺と洋子の手料理を食うんだよ。お前みたいな堅物と食事したって美味くもなんともないんだよ。銀座の飯より、洋子が焼いたアジの開きの方が百倍美味いってんだ」

「なんだとこの野郎。公務執行妨害で引っ張るぞ」

「おう、やってみろ。その前に俺の拳が火を吹くぞ」


 時洲堂の狭い店内で、大きな体をしたエリート刑事と、頑固な下町の職人が、子供のように額を突き合わせて騒ぎ始めた。


「まあまあ、お二人とも。お店の中では喧嘩しないでくださいね」


 美波はその微笑ましくも騒がしい光景を見つめながら、困ったように丸眼鏡を押さえ、小さく楽しそうに笑い声を上げた。

 彼らが織りなすその掛け合いは、冷たい事件の記憶を優しく溶かしてくれる、時洲堂のいつもの賑やかで温かい日常の風景だった。


 ***


 その日の夜。

 すっかり静まり返った時洲堂の店内で、美波は一人、ロッキングチェアにゆったりと腰を下ろしていた。


 手元だけを照らすアンティークの真鍮の照明。その柔らかなオレンジ色の光の下で、美波は大切にしている古い革の手帳を開き、愛用の万年筆のキャップを外した。

 ペン先が古い紙に触れ、小気味よい摩擦音を立てながら、今回の事件の記録を紡いでいく。



『沈黙するアンティークの指輪と、偽りの自首。


 権力の闇に葬られようとした真実は、

 高級な衣服の繊維と、秘密の指輪の精巧な仕掛けが導く、

 わずかな隙間の奥に眠っていた。


 冷たい雨の降る公園で、無言の指輪に託された本当の歴史は、

 決して屈することのない一人の記者の、

 命を懸けた正義の歩みだった。』



 美波はそこまで書き終えると、万年筆のペン先を浮かせた。

 そして、手帳の空白のページを見つめながら、今回の事件の背後で存在感を示していた、あの牧村の顔を思い浮かべた。


 警察の目を欺き、最終的に美波が真実に気づくことまで見越して、いわくつきの古い指輪を垂水に託した男。

 彼の真の目的は、一体何だったのか。正義のためなのか、それとも単なる気まぐれな問いかけなのか。

 底知れない闇を持つ彼の存在に、美波の胸の奥で、微かな畏怖と、説明のつかない複雑な思いが渦巻いていた。



『大地の歩みが風景を書き換えるように、

 人の悪意が真実を隠そうとも、

 モノに込められた想いは必ず残る。

 遠くで真実を追う影の思惑が、どのような深い闇を抱えていようとも。

 私はこれからも、迷子になったモノの記憶に優しく寄り添い、

 静かな真実の声を聴き続けていく。』



 美波はそっと手帳を閉じ、傍らに置いてあった少しぬるくなった紅茶を一口飲んだ。

 窓の外からは、冷たい冬の夜風が木々を揺らす音が聞こえてくる。


 迷子になったモノの歴史を追い、そこに宿る人の想いを紐解く、若き古物商の物語。

 その一ページに、沈黙の指輪が語った熱い執念の記憶が、確かに刻み込まれた夜であった。

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