第三話『本塁打』(前)
秋の深まりと共に、東京の下町には冷たい北風が吹き抜けるようになった。十一月の半ばを過ぎた路地裏では、色づいた落ち葉が乾いた音を立ててアスファルトの上を転がっている。
そんな肌寒い季節の午後、古物商『時洲堂』の店内は、年代物の石油ストーブの柔らかな熱と、微かな沸騰音を立てるやかんの湯気に包まれ、ふんわりと温かい空気に満ちていた。
若き店主である時洲美波は、マホガニーの重厚なカウンターの奥に腰を下ろし、厚手の編み物の上着を羽織りながら、入荷したばかりの古いティーカップを柔らかい布で丁寧に磨いていた。陶器の表面に描かれた可憐な花柄は、長い年月を経ても色褪せることなく、かつてこのカップで温かいお茶を楽しんだ人々の穏やかな日常の記憶を静かに物語っているようだった。
美波がずり落ちた丸眼鏡を指先でそっと押し上げ、カップの縁を慈しむように撫でたその時、カラン、涼やかな真鍮の鐘の音が店内に響いた。
「お姉ちゃん、こんにちは」
ガラス戸を開けて勢いよく飛び込んできたのは、近所に住む少年、健太だった。
以前、彼の大切な野球のカードが迷子になった時、美波が一緒に見つけ出したのが縁で、時折こうして顔を出してくれるのだ。あの日から時間が経ち、健太の背丈はぐんと伸びて、あどけなかった顔つきもすっかり活発な少年らしいものへと成長していた。
「健太くん、いらっしゃいませ。外は寒かったでしょう」
「うん、ちょっと冷えるね。あ、今日はお母さんも一緒だよ」
健太の背後から、「美波ちゃん、お仕事中ごめんなさいね」と、申し訳なさそうな顔をした母親の小百合が姿を現した。彼女は勤め先から直接来たのか、わずかに急いだような息遣いをしていた。
「小百合さん、こんにちは。どうぞ中に入って温まってください。今、温かいほうじ茶を淹れますね」
「ありがとう、美波ちゃん。でも、今日はちょっとお願いがあって急いで来ちゃったの」
小百合はカウンターの前に立つと、隣にいる健太の小さな肩に手を置き、困ったように眉を下げた。
「実はね、今度の日曜日に、健太と一緒に野球の試合を見に行く約束をしていたの。健太ったら、ずっと前から本当に楽しみにしていてね。でも、勤め先でどうしても外せない急な予定の変更が入ってしまって、私、日曜日にお休みできなくなってしまったのよ……」
「日曜日に、お仕事が入ってしまったのですね」
「ええ。それで、健太を一人で遠くの球場に行かせるわけにもいかないし、近所のお友達のお父さんたちも都合がつかなくて。本当に急で厚かましいお願いだとはわかっているのだけれど、美波ちゃん、もし日曜日にお店がお休みなら、健太の保護者として一緒に野球を見に行ってくれないかしら」
小百合の隣で、健太が両手を合わせて「お願いします」と祈るような姿勢をとった。その真っ直ぐな瞳には、どうしても大好きな試合を見に行きたいという熱烈な想いが溢れている。
美波は野球という競技について、ニュースでたまに結果を見る程度の知識しか持っていなかった。実際に大きな球場へ足を運んで試合を見た経験もなく、自分のような運動に縁のない人間が、付き添いで健太を楽しませることができるだろうか。ほんの少しだけ、迷いが頭をよぎる。
しかし、美波は健太の必死な顔を見て、ふわりと柔らかく微笑んだ。
「私でよろしければ、ぜひ喜んで付き添わせていただきますよ。健太くんの大切な予定がなくなってしまわなくて、本当によかったです」
「本当。ありがとう、お姉ちゃん」
健太が満面の笑みを浮かべ、その場で小さく飛び跳ねた。
「美波ちゃん、本当にありがとう。入場券の代金はもちろん私が払うし、球場で食べるお弁当代も多めに渡しておくからね。ああ、これでやっと肩の荷が下りたわ」
「お気遣いなく。私も、初めての野球観戦なのでとても楽しみです。健太くん、どこの試合を見に行くのですか」
美波の問いかけに、健太は誇らしげに胸を張る。
「僕が応援しているのはね、北海道ノースフォックスだよ。すごく強くて、かっこいい選手がたくさんいるんだ。日曜日の試合も絶対に勝つから、お姉ちゃんにも一緒に応援してほしいな」
「北海道ノースフォックスですね。ふふっ、健太くんが先生になって、私に野球の応援の仕方を色々と教えてくださいね」
美波がふわりと微笑むと、健太は「任せて」と力強く頷いた。
こうして、秋の深まる日曜日に、時洲堂の若き店主と、野球を愛するわんぱくな少年による、初めての観戦という小さな冒険が幕を開けることとなったのである。
***
日曜日。東京の空は雲一つない快晴に恵まれた。
美波と健太は下町の駅で待ち合わせをし、都心を経由して郊外へと向かう電車に乗り込んだ。
車窓からの景色が、背の高いビル群から段々と閑静な住宅街へと変わり、やがて視界の端に色づき始めた木々の緑が多くなっていく。目的地である球場は、豊かな自然に囲まれた丘陵の中に建つ、少々特別な造りらしい。
電車を降りて、球場へと向かう路線バスの停留所に並んだ二人は、周囲の独特な空気に早くも包まれていた。
バスを待つ人々の多くが、色鮮やかな衣服を身に纏い、手には応援用の小道具や手拭いを握りしめている。地元球団の鮮やかな青色の衣服を着た人たちと、相手球団であるノースフォックスの爽やかな水色の衣服を着た人たち。
敵味方の応援団が入り乱れながらも、殺伐とした空気はなく、どこかお祭りの縁日のような和やかな雰囲気が漂っている。
「すごい人の数ですね、健太くん。皆さん、色々な背番号が書かれた服を着ていて、とっても鮮やかで素敵です」
「そうだよ、お姉ちゃん。あっちの青い服の人が地元の応援で、僕たちと同じ水色がノースフォックスの応援。あっ、バスが来た」
満員バスに揺られながら、球場への急な坂道を登っていく。車内の熱気と揺れの中で、健太の口からは大好きな球団の話題がとめどなく溢れ出した。
「ねえお姉ちゃん、今日のノースフォックスの先発の投手はね、すごく狙いが正確なんだよ。それから、打つ方で絶対に注目してほしいのが、助っ人のレイーズ選手。身長が二メートル近くあって、バットに当たったら球がどこまでも飛んでいってしまうくらい力がすごいんだ」
「二メートルですか。それは本当に大きな方なのですね。球がどこまでも飛んでいくなんて、想像しただけで心が踊ってしまいます」
美波は野球の専門用語が完全にはわからなくても、健太が語る言葉の端々から伝わってくる情熱と、選手たちへの深い愛着を心地よく受け止めていた。それは、美波自身が古いモノの歴史を語る時の熱量と、どこか似ているような気がしたからだ。
大好きなものを一生懸命に誰かに伝えようとする少年の横顔を、美波はバスが球場に到着するまで、ずっと温かい眼差しで見守り続けていた。
バスを降りて数十メートルほど歩くと、木々の間から大きな銀色のドーム屋根が姿を現した。
球場は、美波が想像していたような完全に密閉された巨大な箱ではなかった。すり鉢状の丘陵地形をそのまま活かして作られており、重厚な屋根を支える柱と客席の間には『壁』が存在しないのだ。つまり、屋根がありながら、周囲を囲む森の木々が客席から見え、丘陵の心地よい自然の風が、鳥の声と共に球場内へと吹き抜けてくる特殊な構造になっているのである。
「わあ……屋根があるのに外と繋がっているなんて、本当に不思議な空間です。緑の匂いがして、まるで森の中で食事をしているみたいですね」
「そうでしょ。ここは珍しい球場なんだ。夏は暑くて冬は寒いって言う人もいるけれど、僕は風が気持ちよくて好きなんだよ」
入場口のゲートをくぐり、客席の裏側に広がる広い通路へと足を踏み入れた瞬間、美波の鼻腔を、たまらなく食欲をそそる香ばしい匂いがくすぐる。
そこには、縁日の屋台を何十倍にもしたような、数え切れないほどの飲食店がずらりと軒を連ねていた。定番の焼きそばや揚げた芋だけでなく、選手が考えた特別なお弁当や、地元の名物料理まで、ありとあらゆる多種多様な『球場飯』が並んでいる。
「健太くん、お昼ご飯を探しましょう。あちらからお肉の焼けるとてもいい匂いがしますし、こちらにはお茶の甘味もあるみたいですよ」
丸眼鏡の奥の琥珀色の瞳が、野球の試合以上の熱を帯び始めた。迷子を探し出す古物商としての鋭い観察眼が、今だけは『絶品グルメを探し出すためのもの』へとすっかり切り替わっている。
小百合から預かったお弁当代を手に、美波は健太を引き連れて通路を嬉々として練り歩いた。
まず美波の目に留まったのは、大きな石窯で本格的に焼かれている特大のピザだった。とろけるチーズと色鮮やかな具材がたっぷりと乗っており、その熱々の香りに耐えきれず、美波は迷わず購入を決めた。
さらに、温かい飲み物として地元の名産である急須淹れの温かいお茶を二つ買い求め、最後には対戦相手のノースフォックスにちなんだ、キツネの尻尾のように細長くて模様が描かれた名物の揚げ菓子までしっかりと確保した。
「お姉ちゃん……細いのに、本当にいっぱい食べるんだね」
両手に抱えきれないほどの食料を持ち、幸福そうな顔で歩く美波を見て、健太が呆れたように笑った。
「ふふっ。お腹が空いていては、大きな声で応援できませんからね。さあ、私たちの席に行きましょう」
二人の席は、外野の応援席だった。ノースフォックスの熱狂的な応援団が集まる、熱気が最も高い場所である。
細い階段を登り、視界が開けた瞬間、美波は「あっ」と小さく息を呑んだ。
目の前に広がっていたのは、鮮やかな緑色の人工芝と、綺麗に整備された茶色い土のグラウンド。壁のない隙間から太陽の光が差し込み、広大な空間を明るく照らし出している。その規格外の規模の大きさと、何万人という観客が作り出す独特の高揚感に、美波の胸の奥が高鳴った。
指定されたプラスチックの座席に腰を下ろすと、試合開始まではまだ時間があった。
美波は膝の上に紙皿を置き、「いただきます」と手を合わせてから、買ってきたばかりの特大のピザを両手で持ち上げた。
熱々のピザを一口かじると、香ばしい生地の食感と共に、濃厚なチーズが滑らかに伸びた。トマトの酸味とたっぷりの具材の旨味が、口の中いっぱいに広がる。
「んんっ……美味しいです。外の風を感じながら食べるピザは、格別ですね。この揚げ菓子も、外は香ばしく中は柔らかくて、甘さがちょうどいいです」
両頬をリスのようにいっぱいに膨らませ、幸せそうに目を細めてピザと揚げ菓子を交互に頬張る美波。時折、温かいお茶を飲んで「はぁ」と息を吐くその姿は、大人の女性というよりも、遠足に来た少女のような愛らしさがあった。
健太も自分のお弁当を食べながら、「お姉ちゃんが美味しそうに食べてくれるから、僕までお腹が空いてきてしまったよ」と笑い、試合前ののどかな時間を共に楽しんだ。
やがて、始球式を終えた球場内にアナウンスが響き渡り、選手たちがグラウンドへと勢いよく飛び出してきた。
いよいよ、試合開始である。
外野席の熱気は、試合が始まった瞬間に最高潮に達した。応援団の吹き鳴らす力強いトランペットの音色と、腹の底に響くような重低音の太鼓のリズム。それに合わせて、何千人ものファンが一斉に立ち上がり、声を枯らして応援歌を合唱するのだ。
「お姉ちゃん、応援の時はこうやってメガホンを叩くんだよ。選手の名前を大きな声で呼んでね」
「はい、健太くん。こ、こうですね」
健太から借りた水色のプラスチックのメガホンを両手に持ち、美波は見よう見真似でリズムに合わせて叩き始めた。最初は恥ずかしそうに戸惑っていたが、周囲の興奮と一体感に包まれるうちに、美波は自然と笑顔になり、「頑張れ」と大きな声を出すようになっていた。
試合は、両球団の投手が素晴らしい投球を見せ、息の詰まるような投手戦となった。
一回の裏に地元の相手球団が一点を先制するものの、二回の表にすぐさまノースフォックスも一点を取り返す。
1対1の同点のまま、得点板にはゼロの数字が並び続け、試合は中盤の六回へと突入した。
そして、六回の表。ノースフォックスの攻撃。
試合の空気が、ここで大きく動き始めた。
相手球団の先発の投手が、これまでの好投が嘘のように突然制球を乱し始めたのだ。四死球と安打で出塁が重なり、ツーアウト満塁という、絶好の好機がノースフォックスに訪れた。
一打出れば大量得点。ここで抑えられれば、試合の流れは完全に相手に傾いてしまう。
球場全体が、息を呑むような緊迫感に包まれた。
トランペットの音色はより一層激しくなり、外野席の応援の声は、地鳴りのようにドームの屋根を震わせている。
「お姉ちゃん。打順が回ってきたよ。次の打者は、レイーズだ」
健太がメガホンを握る手に力を込め、身を乗り出してグラウンドを指差した。
待機場所からゆっくりと歩み出てきたのは、身長二メートル、体重は百キロを優に超えるであろう、筋骨隆々の巨漢の外国人選手だった。
背番号九十九を背負ったレイーズが打席に入り、丸太のように太い腕でバットを構えると、それだけでマウンドの投手にすさまじい威圧感がのしかかるのが、遠く離れた外野席からでもはっきりとわかった。
「す、すごい迫力です。あの大きな体で球を打ったら、本当に球が壊れてしまいそうですね」
美波も健太の緊張感を共有し、メガホンを胸の前で強く握りしめたまま、グラウンドから目を離せずにいた。
投手が第一球を投じる。外角低めの鋭い球。
レイーズのバットが空を切り、「ストライク」の判定の声が響く。
続く二球目、三球目は際どいコースに外れてボール。
その後も攻防が続き、フルカウント。次の球で結果が決まる、まさに大勝負となった。
球場全体が水を打ったように静まり返り、何万人もの観客の視線が、マウンドの投手と打席の巨漢の間に注がれる。
投手が大きく振りかぶり、渾身の球を投げ込む。
内角高め、一番力のあるストレート。しかし、レイーズはその球を完璧に待ち構えていた。
彼のがっしりとした両腕が凄まじい速度でバットを振り抜く。
金属バットと硬球がぶつかり合う、乾いた、しかし途方もなく破壊力のある快音が屋根に反響する。
打たれた瞬間、球場中の誰もがホームランを確信するような、見事な当たりだった。
白い球は、高い天井へと吸い込まれるように美しい弧を描き、美波と健太のいる外野席へと一直線に向かってきた。
「お姉ちゃん、来るよ。ホームランだ」
健太が大声を上げて立ち上がる。周囲の観客たちも、記念の球を自分の手で受け止めようと、総立ちになって落下点へと群がり始めた。
ぐんぐんと迫ってくる白い球。その恐ろしい速度と迫力に、美波は思わず短い悲鳴を上げて身をすくませ、顔を腕で覆い隠した。
次の瞬間。
打球は、健太と美波が座っている席のほんの数メートル前、たまたま誰も座っていなかった空席のプラスチック座席の背もたれ付近に、すさまじい勢いで直撃した。プラスチックが割れんばかりの激突音が響き渡り、球はそこから大きく跳ねた。
均衡を破る劇的な『勝ち越し満塁本塁打』の歓喜に沸く外野席。周囲の大人たちが、「どこだ」「落ちたぞ」と、跳ねた球の行方を追って一斉に足元や通路を覗き込む。
健太も、目を輝かせて前の席へと身を乗り出し、大好きなレイーズ選手の記念の球を探した。
しかし、数十人の大人たちが周囲の座席の下、通路、階段、あらゆる場所を目を皿のようにして探したにもかかわらず、その白い球はどこにも見当たらなかったのである。
「あれ……ない。どこにも落ちていないよ」
健太が困惑したように声を上げる。周囲の人々も、「おかしいな、確かにこの辺で跳ねたはずなのに」「誰かもう拾って隠したのか」と首を傾げ合っている。誰も持っていないということは、どこか見えない隙間に転がっていってしまったのだろうか。
結局、数分間の探索の末、その球はまるで神隠しにでも遭ったかのように、すっかり姿を消してしまった。
「……見つからないや」
健太は自分の席に力なく座り込み、深く肩を落とした。
大好きな選手が打った、劇的な勝ち越し満塁本塁打。その記念すべき球が、すぐ目の前まで飛んできたのに、自分の手に入らなかったばかりか、行方不明になってしまった。少年にとって、その喪失感は言葉にできないほど大きかった。
周囲の熱狂的な応援が再開されても、健太はメガホンを膝に置いたまま、悲しそうにうつむいている。
その小さな背中を見つめながら、美波はそっと丸眼鏡の位置を直し、自分のポシェットに静かに手を伸ばした。
スポーツの熱狂の裏で、迷子になってしまった一つの白球。
その悲しみを優しく解きほぐすための、若き『探し物探偵』の静かな時間が、今始まろうとしていた。




