第三話『本塁打』(後)
レイーズの劇的な勝ち越し満塁本塁打が飛び出した後も、球場の熱戦は決して終わることはなかった。
傾きかけた秋の太陽が豊かな森の向こうへとゆっくり沈んでいくと、球場を覆う巨大な銀色のドーム屋根の下には、まばゆいばかりの人工照明が一斉に点灯された。壁のない開放的な構造を持つこの球場は、外の木々が夜の漆黒の闇に溶け込んでいくのとは対照的に、すり鉢状のグラウンドがまるで真昼のように明るく照らし出され、緑色の人工芝と土の色が、より一層鮮やかに浮かび上がっていた。
太陽が沈むと共に、森から吹き下ろす風は徐々に刺すような冷たさを増していった。しかし、客席を埋め尽くす何万人もの観客の熱気は、寒さに比例するかのように、むしろ回を追うごとに高まっていった。
六回に飛び出した満塁本塁打でノースフォックスが大きくリードを奪ったものの、地元のレオパーズも決して諦めてはいなかった。八回の裏に意地の猛反撃を見せてついに同点に追いつき、試合は再び振り出しに戻ったのだ。
両チームの投手が気迫の投球を見せ、好機と危機が目まぐるしく交差する。出塁すれば大きなため息が漏れ、危機を切り抜ければ地鳴りのような大歓声が屋根を揺らす。美波もすっかり寒さを忘れ、冷めてしまった特大ピザの空き箱を膝に抱えたまま、健太から教わった応援歌を一生懸命に口ずさみ、夢中になって水色のプラスチックのメガホンを叩き続けていた。
時には温かいお茶の入った紙コップを両手で包み込みながら、健太と一緒になって「ああっ、惜しいです。今の球は凄く良かったですよね」と一喜一憂し、すっかり一人の熱狂的な野球ファンとして試合にのめり込んでいた。
やがて試合は九回で決着がつかず、重苦しい緊張感が漂う延長戦へと突入した。
十回、十一回と進むにつれ、選手たちの疲労も限界に達しているはずだが、グラウンド上の動きは僅かな隙も見せない研ぎ澄まされたものだった。ノースフォックスの応援団も、そして相手球団の応援団も、喉を枯らして声援を送り続ける。
健太の応援の熱も凄まじく、メガホンを持つ小さな手は真っ赤になり、額にはうっすらと汗さえ浮かべていた。美波はその健太の背中を頼もしく見つめながら、スポーツが持つ圧倒的な熱量と、これほどまでに人々を一つにする不思議な力に感動していた。
しかし、規定の十二回裏の相手球団の攻撃が無得点に終わった瞬間。
試合終了を告げるウグイス嬢のアナウンスが、黒々と染まった空と乾いた風の中に長く鳴り響いた。
結果は、引き分け。
四時間を超える総力戦の末、どちらの球団も追加点を奪うことができずに幕を下ろしたのだ。
同点で試合が終了したため、勝利球団の選手が華やかなお立ち台に上がることはない。その代わり、死闘を演じ切った両球団の選手たちがグラウンドに一列に並び、お互いの健闘を讃え合うように帽子を取って深々と一礼をした。
客席からは、勝敗を超えた温かく、そして割れんばかりの拍手が惜しみなく送られた。それぞれの応援団から「よく頑張ったぞ」という労いの声援が飛び、お互いの応援団同士がエールを交換して健闘を讃え合う、とても美しい光景が広がっていた。
「終わっちゃったね。勝てなかったのは残念だけど、すごい試合だったよ」
健太がメガホンを鞄にしまいながら、満足そうに、けれど少しだけ疲れたように息を吐く。
しかし、その表情の奥には、どうしても隠しきれない小さな翳りがあった。試合の興奮が徐々に落ち着き、祭りの後のような静けさが忍び寄ってくるにつれて、あの六回の表に、自分たちのすぐ目の前で消えてしまった記念の球のことが、再び少年の胸をチクリと痛めていたのだ。
「お姉ちゃん、今日は付き合ってくれて本当にありがとう。お弁当もピザも一緒に食べられて楽しかった。さあ、帰ろうか」
健太は無理に明るい笑顔を作り、鞄を背負って立ち上がろうとする。その小さな肩は、どこか寂しげに丸まっていた。
周囲の観客たちも、試合の余韻に浸りながら各々帰り支度を始め、満員だった客席から人がいなくなっていく。通路には、空になった紙コップや、お弁当の空き箱などを手際よく片付ける清掃員たちの姿があった。
美波は立ち上がろうとする健太の肩に、そっと優しい手を置いた。
「健太くん」
「え」
健太が振り返ると、美波は丸眼鏡の奥の琥珀色の瞳を、どこまでも優しく、そして探し物探偵としての強い眼差しで細めていた。ぽわんとした野球ファンの顔から、プロの顔へと瞬時に切り替わっている。
「あの記念の球、まだ諦めないでください」
「でも、みんなであんなに探して、どこにもなかったんだよ。座席の下も、階段のところも全部見たし。きっと、誰かがこっそり拾って持って帰ってしまったんだよ」
諦めきったように首を横に振る健太。大人が大勢で探しても見つからなかったものを、今更どうやって探すというのか。少年の理屈としては当然の諦めだった。
しかし、美波はゆっくりと、力強く首を横に振って見せた。
「健太くん。モノは、理由もなく消えたりはしません。そして、人の目をごまかして自ら隠れることもできないのです。もし誰かが拾っていたのなら、必ず周囲の人が気づいて歓声が上がるはずです。誰も拾っていないということは、球はまだ、この近くのどこかで『見つけてもらうのを待っている』ということです」
「お姉ちゃんがまた、見つけてくれるの」
「はい。私に任せてください」
美波の静かな、けれど有無を言わせない確かな言葉に、健太は驚いたように目を瞬かせた。以前、自分の大切なカードを公園で見つけ出してくれた時の、あの不思議で頼もしい『探し物探偵』の空気を、美波がすっかり纏っていたからだ。
美波は健太に「ここでちょっと待っていてくださいね」と言って微笑みかけると、自分の肩から下げていたポシェットの留め具に手をかけた。
そして、古い革の入れ物の中から、愛用の銀色のルーペをそっと取り出した。
周囲の観客がまばらになり、清掃係の従業員が上のほうの列から片付けを始めているのを見計らい、美波は先ほどレイーズの打った球が直撃した、数メートル前の空席へと静かに歩み寄った。
それは、濃い緑色をした硬いプラスチック製の、折りたたみ式の座席だった。
美波は迷子になったモノの記憶を呼び起こすように、その座席の背もたれのプラスチック部分へとゆっくりと顔を近づけると、ルーペのレンズ越しに、極微細な世界へと意識を潜り込ませていった。
周囲の応援団の片付けの音や、球場内に流れる試合終了のアナウンス、そして風が木々を揺らす音が、美波の耳からは遠ざかっていく。
目の前にあるのは、ただ一つ。ものすごい勢いで飛んできた硬球が、この場所に残していったささやかな、けれど確実な物理的痕跡だけだった。
美波は小さく息を吐いた。
琥珀色の瞳が、ルーペ越しにその微細な痕跡を正確に捉え抜く。
濃い緑色のプラスチックの表面に、硬いものが激しくぶつかって削れたような、丸い傷跡がついている。さらにその傷跡をよく見ると、硬球の表面を覆っている白い塗料が、強い摩擦によってこすれ、微かにこびりつくようにして付着していた。
「健太くん、こちらに来て、ここを見てみてください」
美波に呼ばれ、健太が不思議そうに近づいて座席を覗き込む。
「ほら、ここのプラスチックが少しだけ削れて、白くなっているでしょう。これが、レイーズ選手の打った球が最初にぶつかった着地点です」
「本当だ。白い跡がついている。すごい勢いでぶつかったから、球の白い色が移ってしまったんだね」
「はい。でも、もっと大切なのはその白い跡の形と、その中に隠された『もう一つの情報』なのです。健太くん、よく目を凝らしてみてください。白い跡の中に、赤い斜めの線が残っているのがわかりますか」
美波がルーペを健太の目の前にかざして貸してあげると、健太は片目をつむってレンズを覗き込み、「あっ」と声を上げた。
白い塗料がこすれた跡の中に、球を縫い合わせている赤い糸がプラスチックと激しく擦れ合ってできた、細い赤い斜線の傷が、等間隔にいくつか並んで残されていたのだ。
「これが、野球で使われている硬球の赤い縫い目が残した摩擦の跡です。そして、この赤い傷跡は、右上から左下に向かって、浅くえぐるようにしてプラスチックを削っています」
美波はルーペを受け取り、ポシェットにしまいながら、健太に向かってモノの記憶を読み解く古物商としての優しい解説を始めた。
「もし、球が真正面からぶつかって、そのまま素直に後ろへ跳ね返ったのなら、赤い縫い目の跡はこんな風に斜めには擦れません。右上から左下へ向かって強く擦れているということは、レイーズ選手が打った球には、強烈な回転がかかっていたということです。その回転を伴った球が、この座席に対して斜めに当たり、ぶつかった瞬間に、その力とプラスチックの反発力が合わさって、全く予測できない方向へ弾き飛ばされたんです」
「予測できない方向。それって、どこなの」
「この赤い縫い目の摩擦が残した『力の向かった先』を辿ればわかります。球は、後ろや上に向かって跳ねたのではありません。左斜め前の、下方向に向かって、鋭く低く跳ねていったのです」
「左斜め前の、下方向……」
健太は驚いて、美波が指し示した軌道の延長線上へと顔を向けた。
そこは、先ほどまで皆が探していた階段の通路や、座席の足元の床ではなく、健太たちの席から見て斜め左前の列、つまり、グラウンドにより近い方向の客席のど真ん中だった。
そして、その軌道の先にある座席には、まだ帰り支度をしている一人の恰幅の良い男性が座っていた。
年齢は五十代半ばほど。相手球団であるレオパーズの鮮やかな青い衣服を羽織り、首には手拭いを巻き、大きな鞄に一生懸命応援の小道具を詰め込んでいる最中だった。熱狂的な地元球団のファンであることは一目でわかる。周りの仲間たちと、「今日は惜しかったな」「次の試合は絶対に勝つぞ」と大声で談笑している。
「お姉ちゃん、あのおじさんの席のほうに跳ねたの。でも、さっき六回の時にみんなで探した時、あのおじさんの足元にも球は落ちていなかったよ。おじさん自身も『こっちには来ていないぞ』と言っていたし」
「はい。普通なら、球が跳ねて転がれば、足元の床や、階段の通路に落ちるはずだと誰もが考えます。ですが、あの激しい跳ね方の勢いと角度を考えると、球は床に落ちる前に、ある『思い込み』によって見えない場所に飛び込んでしまったのだと思います」
「思い込み」
「はい。健太くんも私も、そして周りの大人たちも、何かモノを落としたり探したりする時、無意識に『下』を探しますよね。足元を覗き込み、座席の下の床を見渡します。でも、座席の裏側を、わざわざ這いつくばって下から上へ向かって見上げようとする人は、誰もいません」
美波は静かに微笑むと、健太の手を引いて、その恰幅の良い男性の席のすぐ後ろまでゆっくりと歩いていった。
男性はまだ美波たちに気づかず、「ふう、引き分けか。まあ負けなかっただけましとするか」と独り言を言いながら、鞄のチャックを閉めている。
「あの、すみません。少々よろしいでしょうか」
美波が丁寧な口調で声をかけると、男性は「なんだいお嬢さん」と、人の良さそうな顔を向けた。ノースフォックスの水色のメガホンを持った美波と、同じく水色の帽子を被った健太を見て、不思議そうな顔をしている。
「試合中、六回の表にノースフォックスの選手が本塁打を打ちましたよね。その時の球が、もしかすると、おじさまの座席の裏側に挟まっているかもしれないのです」
「俺の座席の裏に。いやいや、球が飛んできたのは知っているけれど、俺の足元には何も転がってこなかったぜ。さっきみんなで探したじゃないか。それに、球が俺の椅子にぶつかったり挟まったりしたら、いくらなんでも衝撃や音でわかるだろう」
男性が不思議そうに首を傾げ、苦笑いをするのも無理はなかった。自分の体のすぐ近く、ましてや自分が座っている椅子の裏に硬球が飛んできたのなら、気づかないはずがないと思うのが人間の普通の感覚だ。
しかし、美波は「失礼いたします」と断りを入れると、男性の座っているプラスチック座席のすぐ横にしゃがみ込み、冷たいコンクリートの床に膝をついた。そして、下から覗き込むようにして座席の裏側を見上げた。
球場の座席は、人が立っている時は自動的に座面が跳ね上がり、座る時に体重をかけて引き下げる折りたたみ式の構造になっている。そのため、座面の裏側と、それを支える太い金属の支柱の間には、金具が入り組んだ複雑な隙間や空間がいくつも存在していた。
美波がその暗い隙間に向かって、ポシェットに携帯している小さな照明を取り出し、光を当てた瞬間。
「ありました」
美波の柔らかい、しかし確信に満ちた声が、静かになった客席に響いた。
「えっ。嘘だろう、本当にあったのか」
男性が驚いて立ち上がり、健太も慌てて美波の隣にしゃがみ込んで、下から座席の裏を覗き込んだ。
そこには、誰もが想像もしなかった奇跡のような光景が広がっていた。
座面のプラスチックの裏側と、それを支える太い金属の支柱、そして留め具が交差する、わずか数センチの複雑な隙間。
そこに、激しい勢いのまま飛び込んだ白い硬球が、まるでパズルの最後の欠片がぴったりとはまるように、あるいは打ち込まれた楔のように、しっかりと挟まり込んでいたのである。
座席の裏側という究極の死角。前の席の背もたれに隠れ、立って上から見下ろすだけでは絶対に見えず、わざわざ這いつくばって下から見上げない限り、気づくことのできない場所だった。
「健太くん、見てください。球は床に落ちたのではなく、跳ねた勢いのまま、この金具の隙間に見事に収まってしまったのです」
「すごい……。本当に、おじさんの椅子の下に挟まっている」
健太が目を丸くして歓声を上げると、上のほうから男性の「おいおい、冗談だろう」という呆れたような、そして感心したような笑い声が降ってきた。
「なるほどな。あの本塁打の瞬間、俺も立ち上がって『打たれてしまった』と大声で叫んでいたからな。周りの歓声もすさまじかったし、何より俺が立ち上がって座席が跳ね上がっていたおかげで、球が金具に挟まる衝撃が全部吸収されてしまって、全く気づかなかったというわけか。こりゃあ、完全に盲点だったぜ。お嬢さん、あんた、まるで名探偵だな」
男性は豪快に笑うと、美波の隣にしゃがみ込み、太い腕を伸ばして、金具の隙間に挟まっていた白い球を力強く掴んだ。
かなり強く挟まっていたらしく、力を込めて引っ張り出すと、小気味よい音を立てて、球が男性の大きな手のひらの中に収まった。
試合で実際に使われ、レイーズの渾身の打撃の衝撃と、座席のプラスチックと擦れ合ったことで、真っ白だった表面には土の汚れや緑色の擦れ跡がつき、激闘の熱を帯びた生々しい勲章が刻まれていた。
百八個の赤い縫い目が、照明を浴びて美しく際立っている。
「本当にホームランボールだ。すごい、本物だ」
健太が目を輝かせてその球を見つめる。周囲に残っていた観客たちや清掃の従業員も、消えた球が見つかったことに気づき、「あんなところに挟まっていたのか」「すごい執念だな」と温かい拍手と歓声を送った。
男性は球をまじまじと見つめ、その重みと手触りを確かめた後、ふと健太が被っている水色の帽子に目をやった。
「坊主、お前、ノースフォックスのファンなんだな」
「う、うん。レイーズ選手が、大好きなんだ。ずっと応援しているんだ」
健太が緊張しながら、しかし真っ直ぐな瞳で頷くと、男性は悪戯っぽく笑い、球を軽く上に放り投げた。
「そうか。まあ、なんだ、俺は地元のレオパーズのファンだ。相手球団の、しかも一時的にでも勝ち越された忌々しい球なんて、俺の家に持って帰れるわけがないよなあ」
男性はそう言うと、持っていた球を、健太の胸の前に優しくふわりと投げ渡した。
「えっ」
健太は慌てて両手でその球を受け取り、目を丸くして男性を見上げた。
「その球を見つけてくれた、すごい探偵みたいなお姉ちゃんに感謝するんだな。それはお前が持って帰りな。大好きな選手が打った球なんだろう。大切に飾っておけよ」
「お、おじさん。本当に、本当にいいの。これ、おじさんの椅子に挟まっていたんだよ」
「おうよ。野球というのはな、グラウンドの中では敵同士で火花を散らしてやり合うが、試合が終わったらおしまいなんだよ。子供の夢を奪うほど、ケチじゃないんだ。その代わり、次の試合は絶対にレオパーズが勝つからな。覚悟しておけよ、坊主」
男性は青い衣服の裾を翻し、豪快な笑い声を上げながら、健太の肩を力強く叩いた。
敵味方の垣根を越えた、下町の人情にも似た温かい気質。その粋な計らいに、健太は球を両手でしっかりと抱きしめ、信じられないものを見るように何度も瞬きをした。
「ありがとうございます。おじさんも、お姉ちゃんも、本当に、本当にありがとう。僕、一生の宝物にするよ」
健太は満面の笑みを浮かべ、男性に向かって、そして美波に向かって、何度も頭を下げる。その瞳には、嬉し涙が反射して光っている。
美波は丸眼鏡の奥の琥珀色の瞳を優しく細め、立ち上がって健太と一緒に男性に向かって深く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございます。おじさまの優しさに、心から感謝いたします。健太くんにとって、今日の試合が最高の思い出になりました」
「いやいや、大したことじゃないよ。俺も見つかってスッキリしたしな。お嬢さん、あんたのその観察眼は大したものだぜ。また球場に遊びに来なよ」
男性は照れくさそうに頭を掻き、鞄を背負って帰りの通路へと歩き出していった。
残された美波と健太の手には、激闘の記憶と、ファンの温かい想いが詰まった、世界に一つだけの特別な白球が、確かな重みを持って残されていた。
***
すっかり日が落ち、冷たい秋の夜風が吹き抜ける球場の入り口前。
照明に照らされた木々の姿が美しく浮かび上がる中、帰り道に向かう人々の波に混じって、美波と健太もゆっくりと駅への坂道を下っていた。
球場から漏れ聞こえる清掃の音や、遠くで響く電車の発車音が、祭りの後のような静かな余韻を漂わせている。
「お姉ちゃん」
健太が、両手で大切に抱えた球を見つめながら、ぽつりと口を開いた。
「僕、今日のことは絶対に忘れないよ。試合が引き分けになった時は悔しかったし、球が消えた時はすごく悲しかったけれど。今回もお姉ちゃんが見つけてくれて、あのおじさんが笑って譲ってくれて。なんだか、試合に勝つよりも、もっともっと素敵な一日になった気がするんだ」
健太の言葉には、ただの野球好きの少年から、人の心の温かさに触れて成長したような、大人びた響きがあった。以前、カードを失くして泣いていた頃の彼とは違う、確かな心の成長がそこにはあった。
美波は健太の頭を優しく撫で、ふわりと微笑んだ。
「ええ。モノは、ただそこにあるだけではありません。あの球には、レイーズ選手の力強い打撃の記憶と、健太くんの熱い応援の気持ち、そしてあのおじさまの優しい心意気が、全部詰まっているのです。健太くんにとって、何にも代えがたい宝物になりましたね。小百合さんも、きっとこの球を見たら驚いて、喜んでくれますよ」
「うん。帰ったら、すぐにお母さんに見せるんだ。大切に飾っておくよ。……ねえ、お姉ちゃん」
健太は立ち止まり、美波を真っ直ぐに見上げて、無邪気な笑顔を弾けさせた。
「また、一緒に野球見に来てね。今度は僕が、お姉ちゃんに球場の美味しいお弁当、全部案内してあげるから。あの揚げ菓子よりも美味しい甘味があるんだよ」
「ふふっ、それはとても魅力的ですね。ぜひ、楽しみにしています。今度は、もっと色々な応援歌を覚えてきますね」
美波の優しい笑い声が、秋の夜空に吸い込まれていく。
電車に揺られ、二人が東京の下町へと帰っていく道のりは、来た時の胸の高鳴りとはまた違う、ずっと温かく、満ち足りた時間に包まれていた。
***
その日の夜。
すっかり静まり返ったアンティークショップ『時洲堂』の店内には、古い柱時計の規則正しい「カチ、カチ」という音だけが心地よく響いていた。
美波はマホガニーの重厚なカウンターの奥、指定席のアンティークのロッキングチェアに深く腰を下ろしていた。
手元だけを照らす真鍮のデスクランプ。その柔らかなオレンジ色の光の下で、美波は大切にしている古い革の手帳を開き、愛用の万年筆のキャップを静かに外した。
ペン先が古い紙に触れ、摩擦音を立てながら、初めての野球観戦と消えた白球の記録を紡いでいく。
『歓声の熱気の中で姿を消した、白い記念の球。
理由もなく消えるモノなど存在しない。
緑色のプラスチックに残された、
赤い絹糸の斜めの摩擦痕と、白い塗料のささやかな跡が、
目に見えない死角への軌道を、確かに教えてくれた。
複雑な金具の隙間に隠された白球は、
敵味方の垣根を越えた、
一人のファンの温かい心意気によって、少年の両手へと贈られた。
勝敗という枠組みを超えて、
スポーツが繋ぐ人々の優しい眼差しと、
一つのモノに刻まれた激闘の記憶は、
少年の宝物として、これからもずっと色褪せることなく輝き続けるだろう』
美波はそこまで書き終えると、万年筆のペン先をそっと浮かせ、インクの乾き具合を確かめるように手帳を傾けた。
窓の外からは、冷たい木枯らしの音が聞こえてくるが、時洲堂の中は今日も変わらず穏やかで温かい。
美波は傍らに置いてあった、熱いほうじ茶の入った古いティーカップを両手で包み込み、一口飲んでふうっと息を吐き出した。
目を閉じれば、健太の叩くメガホンの音と、球場を吹き抜ける丘陵の爽やかな風の記憶が、鮮やかに蘇ってくる。
迷子になったモノの歴史を追い、そこに宿る人の想いを紐解く、若き古物商の物語。
その一ページに、赤い縫い目が描いた軌跡と、下町の人情にも似た球場の温かい記憶が、優しく刻み込まれた夜であった。




