第四話『情景』(前)
東京の下町に、本格的な冬の訪れを告げる刺すような北風が吹き荒れる季節となった。
十二月も半ばに差し掛かると、路地裏の木々はすっかり葉を落とし、重く垂れ込めた灰色の空から時折、冷たい氷雨が降るようになる。道行く人々は皆、分厚い外套の襟を立て、マフラーに顔の半分を埋めるようにして、足早に家路や温かい駅の構内へと急いでいた。
そんな厳しい寒さの中にあっても、骨董品店『時洲堂』の分厚いガラス戸の向こう側は、外の冷たい世界から完全に切り離されたような、ふんわりとした優しい温もりに満ちていた。
店内の奥に鎮座する年代物の丸型石油ストーブが、柔らかな青色の炎を揺らしながら、部屋全体に心地よい熱を行き渡らせている。ストーブの上に乗せられた真鍮のやかんから微かな沸騰音と共に白い湯気が立ち上り、淹れたばかりのほうじ茶の香ばしい匂いが、澄んだ空気の中に溶け込んでいた。
若き店主である時洲美波は、マホガニーの重厚なカウンターの奥、いつもの指定席であるアンティークのロッキングチェアに深く腰を下ろしていた。アイボリーの厚手な編み物の上着を羽織り、膝には格子柄の温かい毛布を隙間なく掛けている。
手元だけを照らす真鍮のデスクランプの光の下で、美波は入荷したばかりの年代物の万華鏡を、専用の柔らかい布で傷をつけないように丁寧に磨いていた。
百五十年以上前に異国の職人が作ったとされるその万華鏡は、外装の銀に細やかな蔦と草花の彫刻が施されており、長い年月を経て黒ずんだ特有の深い渋みを帯びていた。そっと持ち上げて覗き込むと、中には色とりどりのアンティークガラスの欠片が入っており、光に向けてゆっくりと回すたびに、二度と同じ形にはならない美しい幾何学模様の花が、ガラスの触れ合う涼やかな音と共に咲き誇る。
誰かの手から手へと渡り、何世代にもわたって人々の目を楽しませてきたであろう、モノの歴史。
美波はずり落ちた丸眼鏡のブリッジを指先でそっと押し上げ、万華鏡の表面に刻まれた無数の細かな擦れ跡を、愛おしむように優しく撫でた。
モノは決して言葉を発することはない。だが、持ち主がそれを覗き込んだ時の喜びや、大切に扱ってきた想いが、形を変えて次の人へと確かに受け継がれていく。その無言の記憶のバトンに寄り添うこの静かな時間が、美波にとって何よりの幸せだった。
壁に掛けられた大きな時計が、時を刻む規則正しい音を立てる。
その穏やかな静寂を破るように、入り口のドアベルが、澄んだ音を立てて鳴り響いた。
「いらっしゃいませ」
万華鏡を布の上にそっと置き、美波がカウンターから立ち上がって微笑みかける。
入り口のガラス戸を重そうに開けて店の中に入ってきたのは、二十代半ばほどの、ひどく青白い顔をした一人の青年だった。
分厚い黒の防寒着を着込み、首元には厚手の布を巻いているが、その細い体は小刻みに震えているように見えた。長めに伸びた前髪の奥にある瞳は、どこか見えないものに怯えたような、それでいて藁にもすがるような、切実な光を宿している。
「あの。こちらが、探し物を見つけてくれるという『探偵』さんがいらっしゃる、時洲堂で間違いないでしょうか」
青年の声は細く掠れていた。息をするたびに、胸の奥で何かが引っかかっているような、苦しげな呼吸の音が微かに聞こえる。美波はすぐにカウンターから出て青年のもとへ歩み寄り、優しく頷いた。
「はい、時洲堂はこちらで間違いありません。私は店主の時洲美波と申します。外はとても冷えたでしょう。どうぞ、ストーブの近くの椅子にかけて、まずは温まってくださいね」
「あ、ありがとうございます……」
青年は遠慮がちに、ストーブの脇にある革張りの椅子に腰を下ろす。その動作一つ一つが、まるで壊れやすいガラス細工を扱うかのように慎重で、自分の体を無意識に庇っているように見えた。
美波はすぐに温かいほうじ茶を淹れ、湯気の立つ器を青年の前の机にそっと置いた。
「温かいお茶です。ゆっくり飲んで、お体を休めてください。お見受けしたところ、お体の調子が少しお悪いようですが、無理をしてこんな寒い中を外に出られても大丈夫だったのですか」
美波の気遣いに満ちた問いかけに、青年は器を両手で大切に包み込み、その温もりに長く息を吐き出してから、小さく頷いた。
「ご心配をおかけしてすみません。僕の名前は、浅宮と言います。……実は、二週間ほど前に、病院を退院したばかりなのです」
「退院されたばかりなのですね。大きなご病気だったのですか」
「ええ。僕は生まれつき、心臓の筋肉がどんどん弱っていく難病を患っていました。さらに数年前からは、目の角膜に異常をきたす病気も併発してしまい、視力もほとんど失いかけていたんです。お医者様からは、もう長くは生きられないだろうと、事実上の余命宣告を受けていました。……でも」
浅宮はそこで言葉を区切り、自分の左胸のあたり、おそらく大きな手術痕があるであろう場所を、右手でそっと押さえた。
分厚い衣服の上からでも、そこにある『命の音』を確かめるように。
「奇跡が、起きたんです。僕に適合する臓器を提供してくださるドナーの方が現れて、心臓と角膜の、同時移植手術を受けることができたんです。手術は無事に成功して、新しい心臓は力強く血を送り出し、この新しい角膜のおかげで、再びはっきりと光の輪郭を見ることもできるようになりました」
「心臓と角膜の、同時移植……」
美波は息を呑んだ。それは現代医学の奇跡と呼ぶべき、壮絶を極める大手術だったはずだ。目の前の浅宮が、自分の体を庇って動いていた理由がはっきりとわかった。彼の体の中には今、彼自身の命を繋ぐために提供された、見知らぬ他者の臓器が懸命に脈打っているのだ。
「浅宮さん、本当に手術が成功してよかったですね。あなたを救ってくださった方の想いと共に、こうして新しく命のバトンを繋ぐことができたのですね」
美波が温かい笑みを向けると、浅宮も「はい、感謝してもしきれません」と、涙ぐむように深く頷いた。
しかし、その直後。浅宮の表情から安堵の色が潮が引くように消え去り、再び最初に見せていたような、怯えたような深い翳りがその顔を覆った。
「でも、時洲さん。僕が今日、あなたにお願いしたい『探し物』というのは。……その、僕を救ってくれた方たちに関することなのです」
「臓器を提供してくださった方に関する、探し物ですか」
美波が小首を傾げると、浅宮は器を置き、震える両手を膝の上で固く組み合わせた。
「退院して、家に帰ってから数日経った頃から、奇妙なことが起きるようになったんです。夜、床に入って目を閉じると、不意に僕の全く知らない景色が、鮮明な映像として脳裏に浮かび上がってくるんです」
「知らない景色、ですか」
「はい。夕焼けに赤く染まった、古くて錆びた巨大な鉄橋の景色です。眼下には深い川が流れていて、とても冷たい風が吹いている。……僕は東京で生まれ育って、病室と家を往復するだけの人生でした。あんな大自然の中のそんな鉄橋なんて、これまでの人生で一度も行ったことも見たこともありません。でも、目を閉じると、まるでその場に立っているかのように、手すりの錆の感触や、風の冷たさまでが本当にリアルに感じられるんです」
浅宮の声が、得体の知れない恐怖と混乱で微かに震え始める。
「そして、その鉄橋の景色が脳裏に浮かぶと同時に、僕の左胸にあるこの新しい心臓が、張り裂けそうなほど激しく脈打ち始めるんです。まるで、とてつもない恐怖や、悲しみに完全に支配されたかのように。耳の奥まで響くようなものすごい鼓動で、息ができなくなるくらい苦しくなるんです」
それは、医学的な拒絶反応や手術の後遺症という言葉では到底説明のつかない、あまりにも奇妙で不可解な現象である。しかし、美波は浅宮の言葉をただの幻だ、夢の話だと笑うことは決してしなかった。モノに宿る記憶を信じ、その声なき声に耳を傾け続けてきた古物商にとって、人間の肉体もまた、何よりも雄弁にその持ち主の歴史を刻み込んでいる『器』であることを知っていたからだ。
「浅宮さん。あなたは、その幻影と鼓動が、移植された角膜と心臓の元の持ち主が持つ『細胞の記憶』だとお考えなのですね」
美波の穏やかで知的な問いかけに、浅宮は弾かれたように顔を上げ、力強く頷いた。
「はい。臓器移植を受けた患者の嗜好や性格が、提供者のものに変化してしまうという話を聞いたことがあります。医学的には根拠がないと言われていますが……。でも、僕の目が見ているあの夕焼けの鉄橋の景色は、絶対にただの夢や幻なんかじゃありません。あの強烈な鼓動は、絶対にこの心臓の持ち主が、最後に感じた『本当の感情』なんです」
浅宮はすがるような目で美波を見つめた。
「僕は、病院の担当医の先生に、提供者の身元を教えてもらえないかと何度も頼み込みました。でも、厳格なプライバシーの規定で、個人情報や死因は、僕には絶対に教えられないと冷たく拒絶されました。このままでは、毎晩あの鉄橋の景色と、張り裂けそうな鼓動に苦しめられながら生きていくことになります。自分が一体、誰のどんな想いを抱え込んでいるのかわからないまま生きるのは、本当に怖いんです……」
浅宮は持参していた黒い鞄から、一冊のスケッチブックを取り出し、美波の前の机にそっと置いた。
「時洲さん。あなたは、迷子になったモノの記憶を読み解く、とても優秀な探偵だと噂で聞きました。どうか、お願いです。僕の脳裏に浮かぶこの景色が、一体どこにあるのか。そして、僕に目と心臓をくれた方たちが、その場所で一体何を想い、何を伝えようとしているのか。その真実を探し出してもらえないでしょうか」
美波は黙ってその画帳を手に取り、ゆっくりと表紙を開いた。
そこには、非常に細やかな筆致で一つの風景が描かれていた。
燃えるような、赤い夕焼け空。
画帳の右側には、無数の鉄骨が組み合わされた、堅牢で巨大な古い鉄橋が描かれていた。鉄橋の欄干はひどく錆びついており、下には深い谷と、蛇行して流れる暗い川の水面が見えた。
遠くには幾重にも連なる山々の姿が描かれており、浅宮がその光景をいかに鮮明に見ているかが、その筆致の細かさから痛いほどに伝わってきた。
「浅宮さん」
画帳から目を上げた美波の琥珀色の瞳は、先ほどまでの穏やかな温かさを潜め、真実を見極める探し物探偵としての、静かで、そしてどこまでも真剣な色へと変わっていた。
「モノに刻まれた傷跡や、肉体に宿る記憶というものは、時に人間の想像を絶するほど深く、生々しいものです。そして、その記憶を辿った先に待っている真実が、必ずしも美しい物語や、心温まる結末であるとは限りません」
美波の静謐な声が、時洲堂の店内に響き渡った。
「鉄橋の景色と、激しい鼓動。それがもし肉体に宿る記憶であるならば。元の持ち主の方は、その場所で『深い恐怖』や、『強い悲しみ』を抱いていた可能性が高いということです。私が真実を見つけ出した時、それはもしかすると、浅宮さんが顔を背けたくなるような、残酷で恐ろしい事実かもしれません。それでも」
美波は画帳をそっと閉じ、浅宮の揺れる瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「それでも、あなたはその真実を受け入れ、この先もその角膜と心臓と共に、生涯を生きていく覚悟がありますか」
それは、他者の命をもらって生きる青年に対する、美波なりの厳しくも優しい問いかけだった。真実を知るということは、それを背負って生きるということだ。中途半端な気持ちで開けてはならない扉が、この世界には確かに存在する。
美波の問いかけに、浅宮は一瞬だけ息を呑み、迷うように目を伏せる。
しかし、やがて彼は自分の左胸、力強く脈打つ新しい心臓の鼓動を両手でしっかりと包み込み、確かな強さを持って顔を上げた。
「僕の命は、彼らがくれたものです。彼らが何を想い、どんな結末を迎えたのだとしても。僕は、この目と心臓から逃げることはできません。どんなに悲しい記憶であれ、それを知ることが、僕に命を繋いでくれた人たちへの唯一の恩返しだと思うんです」
浅宮の青白い頬に、確かな生への意志と覚悟が灯っていた。
彼は美波を真っ直ぐに見つめ返し、力強く頷いた。
「大丈夫です。どんな真実であっても、僕は受け入れます。どうか、僕の記憶の場所を探してください」
その言葉を聞いて、美波は張り詰めていた表情をふっと和らげ、いつもの優しい微笑みを浮かべた。
「わかりました。浅宮さんのその覚悟、確かに受け取りました。あなたに命を託した方々が、最後に見た景色と鼓動の理由。私が必ず見つけ出します」
美波は画帳を大切に胸に抱え、浅宮に向かって深く頭を下げた。




