第四話『情景』(中)
浅宮が時洲堂を後にした後。
美波はアイボリーの厚手の上着の上から、お気に入りの上質な外套を羽織り、首には防寒の布をしっかりと巻いた。愛用の銀色のルーペが入ったポシェットと、浅宮から預かったスケッチブックを鞄に入れ、冷たい北風が容赦なく吹きすさぶ下町の商店街へと足を踏み出した。
今回の探し物は、地図に載っているような有名な観光地ではなく、名もなき古い鉄橋だ。絵に描かれた山や川の様子から大まかな地域を特定するには、自分一人の古物の知識だけではどうしても限界がある。
美波が真っ直ぐに向かったのは、商店街の裏手にある月極の駐車場だった。そこには、下町を中心に毎日近郊を走り回っている運送会社の、見慣れた緑色の小型車両が停まっていた。
「冬馬くん、こんにちは」
荷台から、両手に大きな段ボール箱をいくつも抱えて降りてきた作業着姿の青年に、美波が丁寧な口調で声をかける。
配送業を営む真面目な青年、冬馬だった。
冬馬は突然美波に名前を呼ばれて肩を大きく震わせ、振り返ってその姿を確認した瞬間、弾かれたように居住まいを正した。
「と、時洲さん、こ、こんにちは。こんな寒い中、外に出歩いて風邪でも引いたらどうするんですか。あ、いや、今日はとても冷えますね。何か俺にご用ですか」
冬馬は慌てて荷物を置き直し、作業用の滑り止め手袋を急いで外しながら、美波の前に姿勢を正して直立不動で立った。
彼は根はとても優しく、仕事熱心な青年なのだが、美波に対して密かに熱い想いを寄せているため、彼女を前にするといつも極度に緊張して声が大きくなってしまうのだ。
美波はその冬馬の好意に気づいているのかいないのか、いつものようにぽわんとした穏やかな笑顔で画帳を差し出した。
「お仕事中にお引き止めしてしまって申し訳ありません。実は、冬馬くんの知識をお借りしたくてまいりました。毎日様々な道を走り慣れている冬馬くんなら、この絵に描かれている景色に心当たりがないかと思いまして」
「ぼ、俺の知識ですか。もちろん、時洲さんのためならいくらでも。ちょっと見せてください」
冬馬は自分の手が作業着で汚れていないかをズボンで念入りに擦って確認してから、美波から手渡された画帳を、まるで国宝の壊れ物でも扱うかのようにそっと受け取った。そして、夕焼けに染まる鉄橋と山並みの絵にじっと目を凝らした。
数秒後、冬馬の照れた顔つきが、毎日複雑な道を走るプロの運転手としての真剣なものへと変わる。
「なるほど。この絵はかなり正確に描かれていますね。俺の配達の経路の中にも、これとよく似た地形の場所がありますよ」
「本当ですか。どのあたりでしょうか」
「まず、背景に描かれているこの山の稜線ですが、とても険しくて、山肌の針葉樹の生え方が平野のものとは違います。それから、眼下を流れている川の急な蛇行の仕方と、川岸に削り取られた岩肌の露出。この地形の様子は、間違いなく東京都の西の端、奥多摩から埼玉へと抜けていく深い山間部の地域ですね」
冬馬は絵の山並みを指差しながら、的確に解説した。
「あの辺りは俺も資材の配達で得意先があってよく走るのですが、夕暮れ時になると、まさにこんな風に山間から強い西日が差し込んで、空が真っ赤に染まるんです。川の水の色合いを見ても、渓谷の地域で間違いないと思います」
「奥多摩から埼玉へ抜ける、山間部。さすがです、冬馬くん。毎日色々な道を走っていらっしゃるからこそわかる、生きた知識ですね」
美波が尊敬の眼差しで両手で小さく拍手をして褒め称えると、冬馬は耳まで赤くして照れくさそうに後頭部を掻いた。
しかし、すぐにまた画帳の鉄橋の部分に視線を戻し、申し訳なそうに八の字に眉を下げた。
「でも、地域は大体絞れるのですが……。肝心のこの古い鉄橋については、俺は見たことがありません。俺が走る道から見える範囲には、こんなに錆びついた大きな橋は残っていないはずです」
「冬馬くんでも、ご存知ないですか」
「ええ。これだけ錆びていて、周囲に植物が絡みついているということは、現在使われている道路や鉄道の橋じゃありません。おそらく、人が全く立ち入らないような場所に放置されている『廃線』の鉄橋だと思います。すみません、俺の知識では、そこまでは特定できませんでした」
冬馬が勢いよく頭を下げると、美波は「とんでもないです」と慌てて首を横に振った。
「謝らないでください、冬馬くん。奥多摩の山間部という地域が特定できただけでも、大収穫です。冬馬くんのおかげで、探し物の大きな手がかりをいただくことができました。本当にありがとうございます」
美波が心からの笑顔でお礼を言うと、冬馬は「お役に立ててよかったです」と安堵したように笑い、丁寧に画帳を返却した。
「でも、廃線の鉄橋となると、普通の地図には載っていませんよね」
美波が画帳を胸に抱え、小さく考え込むように視線を落とすと、冬馬が何かに気付いたように顔を上げた。
「あ、そうだ。もし古い鉄や建築物のことなら、幸一さんに聞いてみてはどうですか。あの人は職人として、昔の建築物や鉄骨の歴史にもすごく詳しいですから。地域が奥多摩周辺だとわかっていれば、この鉄橋の構造だけで、幸一さんならピンとくるかもしれませんよ」
「幸一さんに。そうですね、その手がありましたね」
美波は顔を上げ、表情を花ほころぶように明るくした。
冬馬の言う通りだ。地形の広がりを捉えるのはプロの運転手である冬馬の得意分野だが、モノの構造や材質からルーツを紐解くのは、職人である幸一の領域である。下町の温かいつながりが、見事に次の手立てを教えてくれたのだ。
「冬馬くん、素晴らしいお考えをありがとうございます。早速、幸一さんの工房へ行ってみますね」
「はい。あ、時洲さん、気をつけて行ってくださいね。風が強いですから」
冬馬の温かく、少し声の大きな声援を背に受けながら、美波は外套の裾を翻し、足早に三枝幸一の営む金物工房へと向かって歩き出した。
***
美波が到着した三枝金物工房からは、金属を削る高い音と、鉄が焼ける独特の匂いが路地まで漂ってきていた。
引き戸を開けて中に入ると、工房の奥で作業着姿の幸一が、火花を散らしながら鉄を加工している。無精髭を生やした無骨な横顔は、職人としての厳しい集中力に満ちている。
「幸一さん、こんにちは。お仕事中、すみません」
機械の音に負けないように美波が大きな声で呼びかけると、幸一は機械を止め、保護用の眼鏡を額に押し上げて振り返った。
「おう、美波か。なんだ、また変な骨董品を拾ってきて俺に直せというのか」
幸一はぶっきらぼうな口調で言いながらも、作業用の革手袋を外し、美波のためにストーブの近くの丸椅子を足で引き寄せてくれた。相変わらず口は悪いが、その行動には父親のような不器用な優しさが滲み出ている。
「ふふっ、今日は修理のお願いではないのです。幸一さんの、職人としての知識をお借りしたくてまいりました。この絵を見ていただきたいのです」
美波は丸椅子に座り、画帳を開いて幸一に見せた。
そして、先ほど冬馬に特定してもらった『奥多摩から埼玉へ抜ける山間部にあるらしい』という情報と、『現在は使われていない廃線の鉄橋である』という推測を順序立てて説明した。
「なるほどな。奥多摩地域の、廃線になった鉄橋か」
幸一は画帳を受け取ると、眉間に鋭く皺を寄せ、絵の全体ではなく、鉄橋を構成している『鉄骨の組み方の部分』へと視線を集中させた。
彼にとっては、背景の夕焼けや山の美しさなどは関係ない。職人の目が捉えるのは、その構造物がいつ、どのような技術で作られたかという、鉄の歴史そのものだった。
「こいつは、ただの鉄橋じゃないな。美波、この鉄骨の組み方を見てみろ。斜めの部材だけじゃなく、垂直の部材も細かく組み込まれているだろう。トラス構造の中でも、かなり古い形式だ」
幸一は油で汚れた太い指で、絵の鉄橋の構造を指先で軽く叩く。
「部材同士を繋いでいるこの『留め具』の打ち方の間隔が、昔の異国の工法にそっくりだ。おそらく、昭和初期に海外の技術を輸入して作られた、相当古い鉄骨だな」
「昭和初期の、異国の工法。さすが幸一さん、絵を見ただけでそこまでわかるのですね」
「伊達に何十年も鉄を叩いているわけじゃないからな。それに、奥多摩方面の渓谷で、昭和初期に作られたこの方式の鉄橋が、今でも解体されずに廃線跡として残っている場所といえば、俺の頭の中には、一つしか思い浮かばないな」
幸一は画帳を美波に返し、腕を組んで自信ありげに鼻を鳴らした。
「旧、神無渓谷鉄道の、第三鉄橋だ」
「神無渓谷鉄道。第三鉄橋」
美波がその名前を口の中で繰り返すと、幸一は深く頷いた。
「ああ。昭和の中頃まで、あの辺りの山から切り出した木材や鉱石を運ぶために使われていた鉄道の跡だ。過疎化の波に押されて、数十年前に完全に廃線になった。今では線路も剥がされ、人が立ち入ることもない暗い森の奥で、鉄橋だけがそのまま朽ち果てて残っている。一部の廃墟愛好家の間では、有名な場所らしいな」
冬馬の広域な地理感覚と、幸一の専門的な構造の知識が見事に噛み合い、浅宮の脳裏に浮かんでいた幻の景色が、ついに現実の地図上の一点へと結びついたのだ。
「ありがとうございます、幸一さん。おかげで、探し物の場所が特定できました」
美波が画帳を胸に抱きしめて満面の笑みでお礼を言うと、幸一は「ふんっ」と顔を背け、再び作業用の革手袋をはめた。
「まあ、気をつけて行ってこい。あの辺りは冬になると日が落ちるのが早いし、廃線の周りは足場も悪いからな。怪我だけはするんじゃねえぞ」
「はい。気をつけて行ってまいります」
美波は幸一に一礼をし、足早に工房を後にした。
外に出ると、北風はさらに冷たさを増していたが、美波の足取りは確かな希望に満ちていた。
すぐに浅宮へと連絡を入れ、明日の午後、二人でその旧神無渓谷鉄道の第三鉄橋へと向かう約束を取り付ける。
角膜が最後に見た夕焼けの景色と、心臓が刻み込んだ激しい鼓動の理由。
二つの記憶が交差する山奥の廃線へと、美波は真実を紐解くための歩みを進めようとしていた。




