第四話『情景』(後)
数日後。
東京の空をすっぽりと覆っていた分厚い冬の雲が晴れ、透き通るような冷たい青空が広がった日の午後。
時洲美波と浅宮の二人は、都心の喧騒から遠く離れ、東京都の西の端、深い山々に囲まれた奥多摩の地域へと向かっていた。
下町から電車を何度か乗り継ぎ、窓の外の景色は背の高いビル群から、やがて低い屋根の住宅街へ、そして急峻な山肌と深い緑に囲まれた渓谷へと、その姿を劇的に変えていった。車内には暖房が効いているものの、扉が開くたびに流れ込んでくる山の空気は、都心のそれとは比べ物にならないほど鋭く、肌を刺すような冷たさを帯びている。
美波は厚手のコートに身を包み、隣に座る浅宮の様子を時折、気遣うように温かく見つめていた。
「浅宮さん、お体の具合はいかがですか。電車の揺れで、お疲れになっていませんか」
美波は鞄から小さな水筒を取り出し、湯気を立てるほうじ茶を紙コップに注いで手渡した。さらに「甘いものを食べると元気が出ますから」と、ポシェットから飴玉を取り出して浅宮の手にそっと握らせた。
浅宮は分厚い防寒着を着込み、首元までマフラーでしっかりと覆っている。彼の顔色は相変わらず青白かったが、美波のぽわんとした優しさに触れ、少しだけ照れくさそうに微笑んだ。
「大丈夫です、時洲さん。温かいお茶、ありがとうございます。むしろ、なんだかすごく新鮮で。僕は物心ついた頃から、ずっと白い病室の天井と、病院の中庭くらいしか見たことがありませんでしたから。こうして自分の足で電車に乗って、遠くの景色を見に行けるなんて、夢みたいなんです」
浅宮は自分の胸元、新しい命が脈打つ場所にそっと手を当てた。
「この新しい心臓が、僕をここまで連れてきてくれたんです。だから、彼が最後に見た景色から、絶対に目を背けたくないんです」
「ええ。ドナーの方もきっと、浅宮さんがこうして新しい景色をたくさん見てくれることを、喜んでくれていると思いますよ」
美波は丸眼鏡の奥の琥珀色の瞳を細めて頷き、浅宮のその真っ直ぐな覚悟を、しっかりと心に刻み込んだ。
やがて電車は終着駅に到着し、二人はそこからさらに、一日に数本しか走っていない小さな路線バスに乗り込んだ。
バスは曲がりくねった細い山道を、エンジン音を唸らせながらゆっくりと登っていく。車窓の右側には切り立った岩肌が迫り、左側には目が眩むほど深い谷底を、暗い緑色の川が蛇行しながら流れていた。
冬馬の言葉通り、画帳に描かれていた荒々しい地勢と全く同じ光景が、二人の目の前に広がっている。
目的の停留所で降りた時、時刻はすでに午後三時を回っていた。
冬の山間部は日が落ちるのが驚くほど早い。谷間にはすでに深い影が落ち始め、山の稜線が少しずつ、夕暮れの気配を帯びてきている。
美波と浅宮は、幸一の教えてくれた情報を頼りに、停留所から続く舗装された道を外れ、誰も通らなくなった荒れた山道へと足を踏み入れた。
「ここから先は舗装されていません。わっ、落ち葉が滑りますね。足元に気をつけて、ゆっくり進みましょうね」
自分が足を取られそうになりながらも、美波は一生懸命に浅宮を気遣って前を歩く。
「はい、ありがとうございます」
枯れ葉が幾重にも積もった山道は、一歩踏み出すたびに乾いた音を立てる。かつては林業の関係者や鉄道の作業員が使っていた道なのだろうが、数十年という歳月の間に自然に飲み込まれ、今では辛うじて人が一人歩ける程度の獣道のようになっていた。
冷たい風が木々の間を吹き抜け、枯れ枝が寂しげに擦れ合う。
美波は浅宮の歩幅に合わせ、決して急がせることなく、ゆっくりと歩みを進めた。浅宮の息遣いが少し荒くなるたびに立ち止まり、「無理をしないでくださいね」と声をかけながら、彼の背中を支え続けた。
そうして、山道を歩くこと約三十分。
鬱蒼と茂っていた木々が突然途切れ、視界が大きく開けた場所に出た。
そこは、山と山の間に深く刻まれた、巨大なV字型の渓谷だった。
「あっ……」
美波が思わず息を呑む。
目の前の空間を切り裂くように、一本の巨大な鉄の橋が、谷の向こう側へと架かっていたのだ。
幸一が言っていた通り、昭和初期に異国の技術を用いて作られたという、無数の鉄骨が複雑に組み合わさった重厚な構造の鉄橋。旧神無渓谷鉄道の第三鉄橋である。
かつては重い木材や鉱石を積んだ貨物列車が走っていたであろうその巨大な構造物は、今はすっかり赤茶色の錆に覆われ、あちこちに枯れた蔦や雑草が絡みついていた。線路のレールはすでに剥がされており、腐りかけた枕木と、その上に渡された点検用の細い鉄の通路だけが、対岸へと続いている。
立ち入りを禁じる厳重な柵などはなく、ただ『危険・この先橋梁につき注意』と書かれた、文字の掠れた古い看板が傾いて立っているだけだった。
そして、その錆びついた鉄橋を照らし出しているのは、西の山際に沈みかけている、燃えるような夕日だった。
冬の澄み切った空気の中で、夕日は真紅の光を放ち、冷たい渓谷全体を血のような赤色に染め上げている。
巨大な鉄骨の姿が夕日に黒々と浮かび上がり、眼下、何十メートルも下を流れる暗い川の水面にも、赤い光が反射していた。
それは、恐ろしいほどに美しく、そしてどこまでも孤独で、寂しい景色だった。
「ここ、です……」
背後で、浅宮の震える声がした。
美波が振り返ると、浅宮は限界まで目を見開き、信じられないものを見るような表情で、夕焼けに染まる鉄橋を凝視していた。
「絵と、全く同じ景色だ。間違いない、僕が毎晩夢に見ていたのは、この場所です」
浅宮の青白い顔が、夕日の赤い光に照らされている。
彼がそう叫んだ、次の瞬間だった。
「うっ……あああ」
浅宮は突然、喉の奥から絞り出すような苦悶の声を上げ、自分の左胸を両手で強く、衣服をかきむしるように押さえた。
そのまま足から力が抜け、枯れ葉の積もる地面にガクンと膝をつき、うずくまってしまったのだ。
「浅宮さん」
美波は慌てて駆け寄り、浅宮の背中を全力で支えた。
分厚い衣服の上からでも、浅宮の体が小刻みに激しく震えているのがわかる。彼の口からは引きつったような過呼吸の音が漏れ、額にはひどい冷や汗が滲んでいた。
「し、心臓が……ものすごい音で、鳴っている。痛い、苦しい、怖い」
浅宮は胸を強く押さえたまま、まるで怯える小さな子供のように声を上げた。
その鼓動の激しさは、隣で背中を支えている美波の腕にまで、異常な振動として直接伝わってくるほどだった。
それは、ただ走って息が上がった時の動悸などではない。
人間が、己の命が消え去る瞬間に直面した時にだけ発する、本能的な恐怖と深い絶望が生み出す、悲痛な鼓動だった。
『細胞の記憶』が、この場所に立ったことで完全に呼び起こされ、提供者が最期に抱いた強烈な感情をそのまま引き出しているのだ。
「浅宮さん、大丈夫です。私がついていますから、ゆっくり息を吐いて」
美波は浅宮の背中をさすりながら、必死に彼を落ち着かせようと声をかけ続けた。
浅宮に移植された、角膜と心臓。
臓器を提供した人物は、この場所で、この夕焼けの景色を最後に見て、そしてこの激しい恐怖の鼓動を感じながら命を終えたのだ。
だが、一体なぜ。
不幸な事故だったのか。それとも、事件だったのか。
(見つけ出さないと。この場所で、過去に何が起きたのか。ドナーの方が、浅宮さんに何を伝えようとしているのかを)
美波は浅宮の震える背中を丁寧に撫でながら、彼を少しでも風の当たらない安全な木の根元へとゆっくり座らせた。
「浅宮さん、ここで少しだけ休んでいてください。私は、この鉄橋が覚えている記憶の痕跡を探してきます」
「時洲、さん。気をつけて」
苦しい息の下からそう呟く浅宮に、美波は力強く頷いてみせた。
そして立ち上がり、自分のポシェットから愛用の銀色のルーペを取り出した。
丸眼鏡の奥の琥珀色の瞳が、夕日の赤い光を反射して静かに、そして鋭く光る。
温和な女の子の顔から、迷子になったモノの記憶を辿る、探し物探偵としての真剣な眼差しへの移行。
周囲の木々を揺らす風の音も、眼下を流れる川の音も、美波の耳からは遠ざかっていく。目の前にあるのは、数十年の時を止めたまま朽ち果てていく、巨大な鉄と石の塊だけだった。
美波はルーペを固く握りしめ、ゆっくりとした足取りで、鉄橋の入り口へと近づいていった。
まず美波が考えたのは、浅宮の脳裏に浮かんだ絵の構図だった。
絵には、鉄橋の巨大な構造が画面の右側に描かれており、眼下には川が、遠くには山並みが見えていた。
つまり、提供者の人物は鉄橋の真ん中を歩いていたわけではない。鉄橋の入り口付近、向かって左側の欄干のすぐ傍に立ち、身を乗り出すようにして、鉄橋の側面と夕焼けの谷底を同時に見つめていたはずなのだ。
「ここですね」
美波は、鉄橋の左側の欄干、陸地から数メートルほど橋に足を踏み入れた場所で不意に立ち止まった。
そこから見る景色は、まさに浅宮が描いた絵の構図と寸分違わず一致していた。
そのまましゃがみ込み、まずは足元のコンクリートの土台部分へとルーペを近づけた。
長い年月、誰も訪れることのなかった廃線の鉄橋。その表面には、雨風に晒されて黒ずんだ苔が生え、細かい砂が分厚く積もっている。
美波は、息を殺してその表面を数センチ単位で観察し始めた。
すると、苔と砂が不自然に削り取られている、ごくわずかな擦れ跡がルーペの視界に飛び込んできた。
(これは。靴底が強く擦れた跡。それも、つま先から踏み切るようにして、非常に強い力がかかっている)
美波はさらにその痕跡を詳細に分析した。
擦れ跡は、一つではなかった。
(右側の擦れ跡は、靴底の模様が細かく擦り減った、おそらく男性の平らな革靴のもの。だけど、そのすぐ左側にぴったりと並んでいるもう一つの擦れ跡は、踵の部分が少し高く、つま先側に細い傷が集中している。これは、女性のヒールの高い靴の跡だ。異なる二種類の靴底が、全く同じ場所で、全く同じ方向に向けて強く踏み込んだ痕跡……)
美波の胸の奥で、嫌な予感が冷たく、しかし確実に膨らみ始めていた。
彼女は立ち上がり、今度は目の前にある、分厚い鉄の欄干へと視線を向けた。
大人の腰よりも少し高い位置にあるその欄干は、塗装が完全に剥がれ落ち、表面全体が赤茶色の分厚い錆で覆われている。
美波は欄干の表面に顔を近づけ、ルーペをかざした。
錆というものは、鉄が空気と水に触れて酸化することで生まれる自然の膜だ。誰も触れなければ、錆は均等に、時間をかけて分厚く層をなしていく。
しかし、美波の目の前にある欄干の錆は、横幅およそ一メートルほどの範囲にわたって、非常に不自然な剥がれ方をしていた。
(分厚く積もった錆の層が、抉り取られるようにして剥がれ落ちている。そして、その剥がれた錆の断面は、手前側から奥側、つまり、『谷底の方向』に向かって、強い力で削り取られたような角度を持っている)
美波はその剥がれの範囲を、自分の手のひらの幅と照らし合わせた。
(人の手が、この欄干を強く握りしめた痕跡。それも、一人じゃない。二人の人間が、ぴったりと横に並んでこの欄干を両手で強く握り。そして、そのまま前方へと滑り落ちるようにして、錆を抉り取ったんだ)
二種類の異なる靴の擦れ跡。
二人の人間が同時に欄干を握りしめ、谷底へと向かって削り取った錆の痕跡。
そして、浅宮の心臓が今まさに発している、恐怖と絶望の鼓動。
それらすべての痕跡と、肉体が発する声が、美波の頭の中で一つの残酷な結末へと結びついていく。
(浅宮さんに命を分けてくれたドナーの方は……一人で亡くなったわけじゃない。隣に、もう一人、心から信頼する誰かがいたんだ)
美波は、夕焼けに染まる谷底を、悲痛な瞳で見つめ下ろした。
何十メートルも下を流れる暗い川は、音もなく冷酷にすべてを飲み込んでいくように見えた。
美波が辿り着いた、あまりにも悲しすぎる真実。
それは、二人の人間がこの鉄橋の欄干に並んで立ち、互いの手を強く握り締め、同時に谷底へと身を投げたという、『心中』の痕跡だった。
何らかの理由で深い絶望を抱え、共に生きることを諦めてしまった二人。
彼らはこの廃線の鉄橋を最期の場所に選び、並んで欄干を握り締める。
浅宮に角膜と心臓を提供したドナーは、この二人のうちの『一人』だ。
その人は、身を投じる直前まで、隣の誰かと手を繋いだまま、この燃えるような赤い夕焼けの景色を絶望と共に瞳に焼き付けていた。
そして、谷底へと踏み出すその瞬間、己の命が消えていくことへの恐怖と、隣の誰かと共に死へ向かうことの深い悲しみによって、心臓が張り裂けんばかりに激しく打ち震えていたのだ。
二人は同時に欄干から手を離し、暗い川へと落ちていった。
しかし、運命は彼らに残酷な、あるいは奇跡的な結末をもたらした。
川に落ちた直後。おそらく、たまたま近くにいた釣り人か警察によって、二人はすぐに引き上げられ、病院へと運ばれたのだろう。
彼ら自身の命の炎は、そこで完全に消え去ってしまった。しかし、健康だった彼らのうちの一人の臓器だけは、現代医学の力によって奇跡的に機能を取り戻し、提供を待ち望んでいた見知らぬ患者のもとへと運ばれていったのだ。
角膜は、あの赤い夕焼けの絶望の景色を記憶したまま。
心臓は、身を投じる瞬間のあの恐怖と悲哀の鼓動を記憶したまま。
一つの肉体から摘出されたその二つの臓器が、浅宮という青年の体に移植されたことで、最期の記憶が完全に共鳴し、こうして凄まじい現象を引き起こしてしまったのである。
美波はルーペを強く握りしめ、目をきつく閉じた。
胸の奥が、冷たい手で鷲掴みにされたように痛い。
モノの記憶を辿る探偵として、これまで数々の隠された真実を紐解いてきた。持ち主の温かい想いや、穏やかな愛情の痕跡を見つけ出すたびに、この力があってよかったと心から思えた。
しかし、今回だけは違う。
美波が見つけ出してしまったのは、希望など微塵もない、二人の死という真っ暗な絶望の記憶だった。
(これを、浅宮さんに伝えるべきなんだろうか)
美波は、ゆっくりと振り返った。
木の根元でうずくまっている浅宮は、今も胸を押さえたまま、肩で荒い息を繰り返している。
彼は、長年の難病という暗闇からようやく抜け出し、これからの人生を新しい光と共に生きていこうとしている、希望に満ちた青年だ。
その彼に向かって、どうして言えるだろうか。
『あなたの目と心臓は、大切な人と共に絶望して、自ら命を絶つことを選んだ人のものです。あなたが毎晩見ているのは、彼らが命を絶つ瞬間に見た死の光景であり、あなたを苦しめているその鼓動は、彼らが身を投じる瞬間に感じた恐怖と悲しみの記憶なのです』と。
そんな残酷な真実を告げてしまえば、きっと浅宮は、二人の死の重圧に押し潰され、一生その罪悪感と恐怖から逃れられなくなってしまうのではないだろうか。
彼自身の新しい人生までもが、死者の絶望に縛り付けられてしまう。
「浅宮さん」
美波は、浅宮のそばに歩み寄り、その場に崩れ落ちるようにして膝をついた。
真実を語るべきか。それとも、隠し通すべきか。
美波の琥珀色の瞳からは、堪えきれない大粒の涙がとめどなくこぼれ落ちていた。丸眼鏡のレンズが涙で曇り、彼女の顔が深い悲しみに歪む。
言葉が喉の奥で詰まり、どうしても音になって出てこない。古物商として常に事実を誠実に語ってきた彼女にとって、真実を隠すことは身を切られるような苦しみだった。
「時洲、さん」
ふいに、浅宮の穏やかな声が頭上から降ってきた。
美波が涙でぼやけた顔を上げると、先ほどまであれほど激しく胸を押さえて苦しんでいた浅宮が、ゆっくりと体を起こし、穏やかな表情で美波を見つめていた。
彼の胸の異常な動悸は、まるで嘘のように収まり、規則正しい鼓動へと戻っていたのだ。
それはまるで、自分の絶望の記憶を見つけてもらい、真実に辿り着いてくれた美波の美しい涙を見たことで、ドナーの魂がようやく安らぎを得て、悲痛な叫びを止めたかのようだった。
「浅宮さん。お体の具合は……」
「不思議ですね。さっきまでのあの張り裂けそうな恐怖と痛みが、すっかり消えてしまいました。今はとても、穏やかな気持ちです」
浅宮は自分の左胸をそっと撫で、それから、涙を流している美波の琥珀色の瞳を、すべてを包み込むような優しい眼差しで見つめ返した。
美波の大粒の涙を見て、浅宮という青年は、自分の提供者に何があったのか、その大まかな真実を、深く悟ったのだ。
自分の命を繋いでくれた臓器が、幸せな結末を迎えた人のものではないということを。
そして、目の前の聡明で可愛らしい探偵が、自分の未来を傷つけまいとして、必死に真実を飲み込み、沈黙の壁となって守ろうとしてくれていることを。
「時洲さん。なにも、言わなくていいです」
浅宮は、そっと、切ないほど穏やかに微笑んだ。
「あなたが言葉を詰まらせて泣いてしまうほど、悲しくて、重たい真実だったのですね。なんとなく、わかりましたから」
「浅宮さん」
「大丈夫です。僕は、もう怖くありません」
浅宮は、夕焼けの光が完全に沈み、深い青色に包まれようとしている渓谷の空を見上げた。
「どんなに悲しい記憶であれ、どんなに絶望的な結末だったのだとしても。彼らの体の一部は今、僕の中でこうして確かに生きています。彼らが見られなかった明日の景色を、彼らが刻めなかった未来の時間を、僕がこの鼓動と一緒に、精一杯生きていきます。それが、僕にできる唯一の恩返しですから」
浅宮の言葉は、冬の冷たい山風の中で、何よりも温かく、力強く響いた。
彼は真実の詳細を知らぬまま、しかしその重さをすべて背負う覚悟を決め、新しい人生を歩き出そうとしているのだ。
美波は溢れる涙を拭うこともせず、ただただ、深く何度も頷いた。
「見つけてくれて、ありがとうございました。時洲さんにお願いして、本当によかったです。でも、辛い思いをさせてしまい、申し訳ありませんでした」
浅宮は美波に向かって深く、丁寧な一礼をした。
そして、二度と恐怖の鼓動を鳴らすことのなくなった新しい心臓と共に、浅宮はゆっくりと、夕闇が迫る山道へと帰っていく。
美波は、その細くとも力強い青年の背中が見えなくなるまで、ずっとその場で見つめ続けていた。
深い渓谷に、夜の静寂が訪れようとしていた。
***
その日の夜。
東京の下町。静まり返った古物商『時洲堂』の店内には、柱時計の時を刻む規則正しい音だけが、心地よく響いていた。
外の寒風を遮るように、ストーブの火が青々と燃えている。
美波はマホガニーのカウンターの奥、指定席のアンティークのロッキングチェアに深く腰を下ろしていた。
手元だけを照らす真鍮のデスクランプ。その柔らかなオレンジ色の光の下で、美波は大切にしている古い革の手帳を開き、愛用の万年筆のキャップを外した。
ペン先が紙に触れ、紙を擦る心地よい摩擦音を立てながら、今回のあまりにも悲しく、そして美しい探し物の記録を紡いでいく。
『夕焼けの鉄橋が映す幻影と、共鳴する悲痛な鼓動。
錆びついた欄干に残された二つの摩擦痕が語る真実は、
決して言葉にしてはならない、深すぎる絶望の記憶である。
命の終わりを選んだ二人の悲鳴は、
青年の胸の中で、沈黙という優しさに包まれて静かに眠りについた。
肉体に刻まれた悲しい記憶は、決して消えることはない。
けれど、その重さを背負って生きていく覚悟が、
過去の絶望を、明日を生きるための強い鼓動へと変えていく。』
美波はそこまで書き終えると、万年筆のペン先をそっと浮かせ、インクの乾き具合を確かめるように手帳を少し傾けた。
窓の外からは、冷たい冬の夜風の音が聞こえてくるが、時洲堂の中は今日も変わらず穏やかで温かい。
美波は手帳を閉じ、傍らに置いてあったほうじ茶の入った器を両手で包み込んだ。
一口飲み、その温かい香りに包まれながら、美波はそっと目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、あの夕闇の山道を、力強い足取りで帰っていった浅宮の背中だ。
彼の中で脈打つ命のバトンが、どうかこれからの彼の人生を、美しく、そして明るい光で照らしてくれることを。
迷子になったモノの歴史を追い、そこに宿る人の想いを紐解く、若き古物商の物語。
その一ページに、告げられなかった真実の重さと、青年が未来へと歩み出すための確かな祈りが、刻み込まれた夜であった。




