第五話『疑惑』(前)
東京の下町に、本格的な冬の底冷えが容赦なく牙を剥く十二月の夜。
日中から冷たい雨として降り続いていた水滴は、日が落ちて気温が下がると同時に、細かい粉雪へとその姿を変えていた。
アスファルトの路面を薄く白く染め上げながら、細い路地裏を吹き抜ける北風が、まるで何かが泣いているような物寂しい音を響かせている。商店街のシャッターは下ろされ、普段は賑わいを見せる通りを歩く人の姿は、今夜ばかりは見当たらない。一定の間隔で立つ街灯の頼りないオレンジ色の光だけが、風に煽られて荒れ狂う雪の姿を、静かに照らし出していた。
そんな凍てつくような暗闇と寒気の中で、古物商『時洲堂』の入り口に灯る琥珀色の小さな照明だけが、まるで暗い海を漂う迷子を導く灯台のように、周囲の雪景色に柔らかな光の輪を投げかけていた。
分厚いガラス戸と木枠に守られた店内は、外の過酷な寒気から完全に切り離された、穏やかで包み込むような温もりに満ちている。
若き店主である時洲美波は、その日の営業を終え、一人静かに閉店の作業を進めていた。
店の奥に鎮座する年代物の石油ストーブの火力を少しだけ落とし、手元だけを照らす真鍮の照明の下で、今日入荷したばかりの古い銀の懐中時計と向き合っている。専用の柔らかい布で表面のくすみを優しく拭き取り、細い指先でつまみをゆっくりと巻き上げる。
長い間眠っていた時計の心臓が目を覚まし、静寂に包まれた店内に、規則正しく心地よい金属音を響かせ始めた。
厚手で肌触りの良い編み物の上着を羽織った美波は、少しずり落ちた丸眼鏡のブリッジを指先でそっと押し上げ、その時計が刻む生命の音に耳を澄ませながら、細く息を吐き出した。
(今夜は、ひどく冷え込むなあ。明日の朝には、このあたりも雪が真っ白に積もっているかも。早く片付けを終わらせて、温かいお茶でも淹れようっと)
美波が磨き終えた懐中時計を、傷がつかないよう布の上にそっと置き、立ち上がって店の奥の台所へ向かおうとした、まさにその時だった。
穏やかな静寂を切り裂くような乱暴な音と共に、入り口のガラス戸が激しい音を立てて荒々しく開け放たれた。
勢いよく吹き込んでくる冷たい雪風に、店内の照明が大きく揺らぐ。その風と共に、一人の男が店内に転がり込むようにして駆け込んできた。
「ここが、時洲堂か」
男は三十代前半ほど。仕立ては悪くないが何日も着ているのか深い皺のある背広の上に、黒い外套を無造作に羽織っている。肩や乱れた髪には真っ白な雪が積もり、冷たい風に打たれ続けた頬は赤くこわばり、吐く息は白く乱れていた。
そして何より、美波を驚かせたのはその『鋭い眼光』だった。
まるで危機的状況の現場から直接逃れてきたような、肌を刺すような緊張感と異常な焦燥が、男の全身から立ち上っていたのだ。
「いらっしゃいませ。あの、外は猛吹雪です。まずは戸を閉めて、中に入ってください」
美波は突然の来訪者に驚きつつも、すぐに駆け寄って男を店内へと招き入れ、外の冷気を遮断するためにガラス戸をしっかりと閉めた。
男は荒い息を繰り返しながら、獣のように油断のない視線で店内を素早く見回し、そして美波の顔を真っ直ぐに見た。
「あなたが、この店の店主の時洲さんですね」
「はい。時洲美波と申します。あの、お体がひどく冷え切っていらっしゃいます。どうぞ、ストーブの近くの椅子へ。今、すぐに温かいお茶を淹れますから」
「茶は結構です。そんな悠長な時間はないので」
男は美波の気遣いを手で制するように遮ると、雪に濡れた外套の内側から一枚の黒い革の手帳を取り出し、美波の目の前で開いて見せた。
そこには、冷たく光る金色の旭日章、警視庁の印と、綾瀬という名前が記されていた。
「警視庁捜査一課の綾瀬と言います。時洲さん、単刀直入に言わせてもらいます。あなたに、どうしても探してほしい人間がいるんです」
「綾瀬さん……。もしかして、桐生さんの同期の」
現役の刑事が、なぜ警察の組織力や鑑識を使わず、一介の古物商である自分に直接人探しを依頼しに来るのか。美波が不思議に思いつつも、以前桐生から聞いていた名前に思い当たって尋ねると、綾瀬は少し驚いたように目を見張った。
「桐生を知っているんですか。そうか、あいつが話していた『眼のいい古物商』というのは、あなたのことだったんですね。なら、話が早い」
綾瀬は濡れた前髪を乱暴に掻き上げ、強く奥歯を噛み締めた。
「ええ。俺が探してほしいのは、俺や桐生のかつての直属の先輩です。名前を、牧村秋義と言います」
牧村、秋義。
その響きを聞いた瞬間。
美波の胸の奥で、奇妙で冷たいざわめきが一気に広がっていった。
先日、秘密の指輪の事件の際に桐生の口から聞かされた、綾瀬が心から慕っていたという警察組織を去った元刑事。そして何より――漆黒の髪を後ろに撫でつけ、常に仕立ての良い衣服を身に纏い、その整った顔に冷酷で、どこか底知れない笑みを浮かべていた男。
古いモノの記憶を読み解く美波の力を評価し、ある猛吹雪の夜にこの店を突然訪れ、後に指輪の仕掛けを通して巨大な事件の真実へと導いた、あの影のような男の顔が、鮮明な映像として脳裏に蘇ったのだ。
「牧村秋義さん。はい、存じております。桐生さんからお話は伺いましたし、以前、実際にこの店にいらっしゃったこともあります」
美波の返答に、綾瀬は力なく肩を落とし、重圧に耐えかねたように、ストーブの前の椅子に崩れ落ちるように腰を下ろした。
「牧村さんは、俺がまだ右も左もわからない新米刑事として警察に入ったばかりの頃の、直属の先輩であり、俺の指導係だったんです。誰よりも頭が切れ、誰よりも執念深く、どんな凶悪犯を前にしても決して怯まない。現場で俺が命を落としそうになった時も、自分の身を呈して守ってくれた。俺はあの人の背中を見て、刑事としての誇りや、捜査のすべてを教わりました」
綾瀬の瞳に、深い敬愛と、そして後悔の念が浮かぶ。
「数年前、牧村さんはある『目的』があって、突然警察組織を去りました。今は記者だの、裏社会の情報を扱う者だのという、ひどく胡散臭い肩書きで一人で動いているようですが。それでも、俺にとってあの人は、たった一人の尊敬する先輩であることに変わりはなかった。俺たちは、牧村さんが警察を辞めてからも、月に一度は必ず、昔なじみの店で二人で飲みに行く間柄だったんです」
「月に一度、必ず」
「ええ。牧村さんは極端に単独行動を好む一匹狼で、自分の居場所や連絡先を変える、用心深い人間でしたが、その月に一度の俺との約束だけは、何があっても破ることはなかった。……でも」
綾瀬は膝の上で両手を強く握りしめ、震える声で言葉を継いだ。
「ここ数ヶ月、牧村さんと全く連絡が取れないんです。行きつけの店にも姿を見せないし、俺が独自に情報屋に探りを入れても、完全に足取りが途絶えている。いくらあの人でも、これほどの音信不通は異常すぎる。絶対に、俺たち警察の手の届かないような、何か巨大な出来事に巻き込まれたとしか思えないんです」
綾瀬の顔は、尊敬する先輩の身を案じる極限の焦燥感で土気色になっていた。
美波は静かに、綾瀬の対面にあるロッキングチェアに座り、真正面から彼を見つめた。
「綾瀬さん。牧村さんが姿を消す前に、何か変わった様子や、思い当たる兆候のようなものは、何もなかったのですか」
「……ありました」
綾瀬は重々しく、悔しそうに頷いた。
「牧村さんが音信不通になる直前。最後に行きつけの店で飲んだ帰りのことです。いつもなら『じゃあな』と背中を向けて一人で去っていくあの人が、その夜に限って、雪の降る夜空を遠く見つめるような目をして、俺に、こう言い残したんです」
綾瀬は、牧村のその時の声色を再現するように、低くかすれた声で言った。
『綾瀬。俺に何かあったら、時洲堂に行け』
「時洲堂に。私のもとへ」
美波は思わず息を呑んだ。
「俺には、最初その意味が全くわかりませんでした。なぜ、警察の人間である俺に、事件に巻き込まれたら組織に頼れというのではなく、下町の古物商の元へ行けなどと言い残したのか。ですが、牧村さんが姿を消した今、その言葉の本当の意味が、ようやくわかりました」
綾瀬は険しい目で美波を射貫くように見た。
「牧村さんは、自分がいずれ巨大な闇に飲み込まれ、警察の力では到底探し出せない場所に消え去ることを、あらかじめ予期していたんです。だからこそ、警察という、時にしがらみに縛られ、記録が残ってしまう組織ではなく、モノの痕跡から真実を読み解くという、あなたのその『力』に、自分の最後の望みを託したんだ」
綾瀬の悲痛な言葉を聞きながら、美波の脳裏には、あの猛吹雪の夜に牧村とこの店で交わした会話の細部が、はっきりと蘇ってきていた。
『――すみません、ここは禁煙ですよ』
店内で銀色の道具を取り出し、煙草に火をつけようとした牧村に、美波がそう注意した時のことだ。
あの時、常に余裕を見せていた牧村は、美波の言葉と声の調子を聞いた瞬間、信じられないほど激しく動揺し、こう呟いたのだ。
『全くその通りだ。血は争えないな。注意する声の調子まで、あの頃と全く同じだ』
今から十年前。
美波がまだ幼かった頃、この時洲堂で、美波の『父』もまた、若き日の牧村秋義に向かって全く同じ言葉で注意をしたのだという。
牧村はあの時、自分が警察を辞めてまで、かつて捕まえることができなかった『過去の亡霊の足跡』を今も一人で追い続けていると、恐ろしいほどの執念を燃やして語っていた。
(どうして牧村さんは、私に伝言を残したんだろう)
美波の胸の鼓動が、恐怖で激しく打ち始める。
十年前の時洲堂を知っている男。警察を辞めてまで恐ろしい過去の亡霊を追っている男。
その男が姿を消し、なぜか今、自分を頼り、あの暗闇の中へ引き込もうとしているのだ。
これまで、平和で穏やかな下町の日常の中で、迷子になったモノたちの温かい記憶ばかりを紐解き、人々の心に寄り添ってきた美波にとって、それは得体の知れない、あまりにも暗く冷たい深淵が、足元まで迫ってきているような感覚だった。
「時洲さん」
恐怖に縛り付けられそうになっていた美波を現実に引き戻すように、綾瀬が外套のポケットから、小さな包みを取り出し、カウンターの上に置いた。それは、茶色い封筒のようなものに幾重にも包まれた、小さな四角い物体だった。
「数日前、俺の住まいの郵便受けに、差出人不明でこれが投げ込まれていたんです。封筒には切手も消印もなく、配達業者の証もない。ただ、誰かが直接入れに来たんです」
綾瀬が封筒の口を破り、中身を美波の前のカウンターに差し出した。
鈍く重たい音を立てて転がり出たのは、使い込まれて細かい傷が走り、銀色の表面が所々剥げかかっている、ひどく年季の入ったオイルライターだった。
「これは」
「牧村さんが、常に持ち歩いていた、愛用の道具です」
綾瀬は、その銀色の金属の塊をひどく痛ましそうな、祈るような目で見つめた。
「あの人は、どんなに金に困っても、どんなに危険な状況に陥っても、これだけは絶対に手放さなかった。いわば、牧村秋義という人間の魂の一部のようなモノです。その道具が、俺のところに投げ込まれていた。これが意味することは、俺には一つしか考えられません」
綾瀬は両手をカウンターにつき、美波に向かって深く頭を下げた。
「牧村さんは、言葉や電話、デジタルの記録では、相手に筒抜けになってしまうため、あえてアナログな『モノ』だけを俺の元に残した。そして、時洲さん。あなたなら必ず、この道具に刻まれた微細な痕跡から、自分が最後にいた居場所を見つけ出してくれると信じ切って、俺にこれを託したんです。どうか、お願いします。牧村さんを見つけるために、あなたのその眼差しを、力を貸してください」
現役の刑事が、一介の古物商に頭を下げる。
それほどまでに、牧村の失踪は切迫した状況にあり、彼が追っていた闇は深いのだ。
美波は静かに息を深く吸い込み、揺れる心を落ち着かせながら、ロッキングチェアからゆっくりと立ち上がった。
そして、カウンターの上に置かれた銀の着火道具に、そっと指先で触れた。
ひんやりとした金属の冷たさ。
しかし、その冷たさの奥底には、牧村秋義という一人の男の執念と、美波にどうしても何かを伝えようとする無言の叫びが、確かに熱を帯びて宿っているのを、彼女の指先は感じ取っていた。
「頭を上げてください、綾瀬さん」
美波の声は、先ほどまでの穏やかな響きから、迷子になったモノの記憶を辿る『探し物探偵』としての、静謐で揺るぎないプロのものへとすっかり切り替わっていた。
「モノは、決して言葉を発しません。しかし、持ち主の人生と、その最期の瞬間の行動や想いを、どんな言葉よりも雄弁に記憶しています。この道具は、ただの落とし物ではありません。牧村さんが、己の命を懸けて、意図的に私に向けて残した沈黙の手紙です。必ず、私が読み解いてみせます」
美波の力強い決意の言葉に、綾瀬は顔を上げ、「ありがとうございます」と震える声で感謝を口にした。
美波は黒縁の丸眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げ、カーディガンのポケットから、愛用の銀色のルーペを取り出した。
そして、カウンターの上の照明を明るく調整し、道具を手のひらに乗せると、ルーペのレンズ越しに、その金属の表面に刻まれた極微細な痕跡の世界へと、意識を潜り込ませていった。
外で吹き荒れる雪の音や、綾瀬の呼吸音すらも、美波の耳からは遠ざかっていく。
目の前にあるのは、傷だらけの銀色の金属塊だけだった。
美波はまず、視覚ではなく、全体から漂う『匂い』に神経を集中させた。
長年染み付いた煙草の匂い。油の揮発する匂い。それに混じって、ごく最近付着したであろう、微かな、しかし非常に特徴的な匂いがある。
(潮の匂い。ただの綺麗な海の匂いじゃない。大型船の油の匂いや車の排気ガスが混じったような、港町特有の、少し重たい潮風の匂いが、金属の隙間にしっかりと染み付いてる)
美波は次に、道具の底面へとルーペを当てた。
底には、製造年などを示す刻印が打たれている。しかし美波が注意深く見つめていたのはその文字ではなく、金属のわずかな凹みや傷の奥底に、入り込んでいる微細な粉末だった。
「綾瀬さん。牧村さんは最近、古いレンガ造りの建物の近くにいませんでしたか」
「レンガ造り……いや、俺には心当たりはありませんが。どうしてそれがわかるのですか」
「底の傷の中に、非常に細かい赤い粉が付着しています。これはただの赤土や泥ではありません。高温で焼成された、建築用のレンガが風化して削れ落ちた粉末です」
美波はルーペを覗き込んだまま、古物商としての豊かな知識と鋭い観察眼を紡ぎ始めた。
「しかも、この赤レンガの粉末は、少し黒ずんでおり、成分が非常に脆くなっています。現代の工場で作られた均一なレンガではなく、おそらく明治から大正期にかけて作られた、焼き温度にムラのある古い赤レンガの成分です。牧村さんは、そういった歴史のある古い赤レンガ造りの建物の中に潜伏し、これをレンガの壁や床に直接置いたか、あるいは落としたのだと思います」
「古い赤レンガ造りの建物。そして、港町の潮風の匂い」
綾瀬が顎に手を当てて考え込む。
しかし、美波の観察と推理はそれだけでは終わらなかった。
「最も決定的な伝言は、これです」
美波は硬質な金属音を立てて蓋を開けた。
そして、火花を散らすための車輪と、風よけの金属の隙間にルーペを当てた。
そこには、一見するとただのポケットの中のゴミのように見える、黒く焦げた小さな紙片が、意図的に挟み込まれていたのである。
「綾瀬さん、ここを見てください」
美波に言われ、綾瀬が顔を近づけて目を凝らす。
「なんですかこれは。ゴミ……いや、紙の燃えかすですか」
「はい。これは、飲食店などで配られている『紙の軸』の一部です。考えてもみてください。油と石で火をつける専用の道具を長年愛用している人が、わざわざマッチの燃えかすを、こんな重要な部品の隙間に挟み込んだままにするでしょうか」
美波の指摘に、綾瀬は戦慄し、目を見開いた。
「あり得ません。そんなゴミが挟まっていれば、着火の致命的な邪魔になります。つまり、牧村さんは意図的に、この燃えかすをここに挟み込んで、自分から俺のところに入れたということですか」
「その通りです。そしてこの紙、ただの燃えかすではありません。黒い軸紙の端に、特徴的な『金色の箔押し』の意匠の一部が残っています。そして、わずかに残った火薬の匂いには、強い香料が混ぜられています。これは、とても珍しい特注品です」
美波はルーペを下ろし、確信に満ちた琥珀色の瞳で綾瀬を見た。
いくつもの散らばった点が、一本の線で完璧に繋がった瞬間だった。
「港町特有の潮風。明治、大正期の古い赤レンガ。そして、金色の箔押しと香りがする特注の紙」
美波は静かに、その特定の場所の名前を口にした。
「横浜の港町にある、古い赤レンガ倉庫を改装した老舗の店舗、『ブルーノート・ミント』です。音楽家や、少し訳ありの人間たちが集う、知る人ぞ知る場所。牧村さんが姿を消す直前まで潜伏し、私たちに次の道標を残したのは、そこしかありません」
牧村秋義が、己の命と引き換えにしてでも遺そうとした、沈黙の伝言。
それを読み解いた美波に、綾瀬は息を呑み、深く、力強く頷いた。
「横浜の赤レンガの店舗。行きましょう、時洲さん。明日の朝一番で、その店に向かいます」
美波は銀の道具を、自分の胸の前でしっかりと握りしめる。
その金属の冷たさが、これから彼女が足を踏み入れることになる、得体の知れない闇の深さを暗示しているかのようだった。
猛吹雪の下町の夜。
迷子になったモノの記憶が導く、謎への扉が、今、静かに開かれようとしていた。




