第二話『傀儡』(中)
桐生が時洲堂を訪れたあの日から、三日が経過した。
その日の東京は、朝から冷たい氷雨が降り続き、下町の路地はどんよりとした重い空気に包まれていた。吐く息は白く、道行く人々は皆、色とりどりの傘を深く差して、凍える肩をすぼめるようにして家路を急いでいる。
美波はマホガニーのカウンターの奥で、古い焼き物の器に熱いほうじ茶を淹れながら、窓の外の凍てつく雨だれをじっと見つめていた。
あの事件の被害者である、記者の垂水という男性。彼が寒々しい公園の長椅子の裏で息を引き取った時も、今日のように底冷えのする厳しい夜だったのだろうか。彼が最期に見上げた暗い空や、無念のまま遺されたモノたちが抱えている悲しみに思いを馳せていると、ふいに、涼やかな真鍮の鐘の音が店内に響いた。
「時洲。待たせたな」
雨の冷気を纏って店に入ってきたのは、黒いコートの肩を濡らした桐生だった。
彼は上着を脱いで軽く水滴を払うと、自信に満ちた足取りでカウンターへと歩み寄り、小脇に抱えていた黒い革製の鞄から、頑丈な覆いのつけられた大型の一枚の端末を取り出した。
「桐生さん、いらっしゃいませ。こんな雨の中、わざわざありがとうございます」
「気にするな。俺たち捜査一課の人間にとって、雨風なんてのは日常茶飯事だ。それより、あんたの注文通り、鑑識の連中を徹底的に動かして、被害者の遺留品の詳細な写真をありったけ撮らせてきた」
桐生は誇らしげに口角を上げ、端末をカウンターの上に置いた。
殺人事件の重要な証拠品を、これほど微細な部分まで何百枚も撮り直させるのは、警察内部でも相当な反発があったはずだ。「全体像がわかれば十分だ」「目に見えないような小さな傷なんて捜査に関係ない」と文句を言う鑑識課員たちを、桐生がその持ち前の強引さと、刑事としての熱い執念でねじ伏せてきたことは想像に難くない。
美波はその端末を両手で大切に受け取ると、桐生に向かって深く、丁寧に頭を下げた。
「本当にありがとうございます、桐生さん。警察組織の中で、多大なご無理をお願いしてしまって申し訳ありません。でも、この写真があれば、きっと垂水さんの遺した無言の声を聞き取ることができるはずです」
「あんたが謝ることはない。これで相良の嘘を完全に壊して、その後ろに隠れている真犯人を引きずり出せるなら、安い労力だ。さあ、冷めないうちにその茶をいただいて、早速始めようか」
桐生が重厚な椅子に腰を下ろし、美波が差し出した熱いほうじ茶を口にしてほっと息を吐く。その様子を見届けて、自身のポシェットから、使い込まれた古い革の手帳サイズの入れ物を取り出し、中から愛用の銀色のルーペをそっと取り出した。
端末の電源を入れ、桐生が画面を操作して厳重な保管場所を開く。
高精細な画面には、被害者である垂水が身につけていた衣服や靴、そして持ち物といった遺留品の写真が、何百枚もずらりと並んでいた。
「まずは、相良が『後ろから襟首を掴んで引き倒した』と供述している、被害者の上着の写真だ」
桐生が画面に触れると、血痕のついた分厚い衣服の写真が大写しになる。
美波は、ずれかけた丸眼鏡のブリッジを指先で静かに押し上げた。その瞬間、おっとりとした下町の女の子の顔から、迷子になったモノの記憶を読み解く、古物商としての鋭く真剣な眼差しへと切り替わる。
「これは、とても上質で厚手な羊毛で仕立てられた上着ですね」
画面に映る生地の質感を見つめながら、落ち着いた声で語り始めた。
「この生地は、厳しい自然の中で育った羊の太い毛を使い、職人さんがしっかりと密に絡み合わせて織り上げる伝統的なものです。とても分厚くて丈夫で、風を通さず、少しの雨なら弾いてしまうほどの高い保温性を持っています。きっと垂水さんは、冬の寒い日でも外を歩き回って取材をする記者として、この衣服を相棒のように大切に着ていたのでしょうね」
「相棒、か。確かに、こいつの部屋を家宅捜索した時、これ以外に目立った防寒着はなかった。いつもこいつを着て、夜の街を飛び回っていたのだろうな」
桐生が神妙な顔で頷く。その様子をよそに、画面に表示された衣服の背中と襟首の詳細な近接写真を次々とめくり、その極めて鮮明な画像に愛用のルーペを直接当てて、繊維の一本一本を丁寧に観察し始めた。
「相良さんは、後ろからこの襟首を強く掴み、力任せに引き倒したと供述しているのですよね」
「ああ。鉄の棒で殴った後、倒れそうになる被害者の襟首を力任せに引っ張って、地面に仰向けに転がしたと調書で語っている」
「だとしたら、桐生さん。相良さんの供述は、完全に間違っています」
美波の迷いのない、はっきりとした断言に、桐生の目が鋭く光った。
「嘘だと断言できるのか。その近接写真から何がわかる」
「はい。この生地は、太くて短い羊毛をしっかりと絡み合わせて織られているため、全体としては非常に丈夫です。ですが、だからこそ、もし大人の男性の全体重がかかるほど強い力で急激に引っ張られた場合、生地の織り目に必ず『不自然な歪み』が生じるのです。糸が引きつれたり、繊維の絡まりが無理やり解けたり、あるいは縫い目の糸が生地に深く食い込んだりする痛みの痕跡が、絶対にどこかに残ります」
ルーペを当てたまま、画面の襟首の縫製部分を桐生に指し示す。
「桐生さんも、この襟首の写真を見てみてください。太い糸が規則正しく交差したまま、どこにも歪みがありません。縫い目の糸にも、強い力で引っ張られて生地に食い込んだようなテンションの跡が全く見られません。この衣服の背中側は、誰の手にも乱暴に扱われることなく、とても穏やかな状態を保っています」
「なるほど。確かに、大人の男を力任せに引き倒したような服には見えないな。繊維の並びが綺麗すぎる。鑑識の連中も、一見して破れていないからと見落としていたわけか」
桐生は深く頷き、忌々しそうに息を吐いた。
「やはり、相良は嘘をついていた。後ろから不意打ちで殴って引き倒したというのは、真犯人の姿を隠すための作り話か」
「はい。そして、真犯人が垂水さんと『どのように対峙したのか』。その答えも、この衣服がしっかりと記憶してくれています」
画面を操作し、今度は衣服の正面、胸元の留め具付近の写真を大きく表示させた。そして再びルーペを画面に近づけ、息を殺してその微細な痕跡を読み取っていく。
「桐生さん、ここを見てください。胸元の生地の表面です」
桐生が身を乗り出して、高精細な画面を覗き込む。
詳細な近接写真には、太く荒い繊維の表面がごくわずかに毛羽立ち、ほんの少しだけ押し潰されたようになっているのが見て取れる。さらに、水牛の角でできた留め具の縁にも、微かな擦れ跡が残っている。
「これは。誰かと正面からぶつかり合って、激しく揉み合った跡だな」
「その通りです。真犯人は後ろから不意打ちをしたのではなく、垂水さんと真っ正面から向き合い、激しく揉み合いになっています。そして、注目すべきはこの『擦れ方の質』です」
琥珀色の瞳を輝かせ、古物商としての豊かな知識を紡ぎ始める。
「もし、相良さんが自首してきた時に着ていたような、安価な化学繊維の衣服とこの羊毛が強く擦れ合ったなら、摩擦熱で繊維がわずかに溶けて付着するか、あるいは摩擦が起きずに滑ってしまって、これほど繊細な毛羽立ちは残りません。この胸元に残された痕跡は、羊毛よりもはるかに細く、しなやかで、そして非常に密度の高い『高級な生地』と強く擦れ合った時にだけできる、特有の傷み方なのです」
「高級な生地」
「はい。極細の糸を使って織り上げられた、しっとりとした艶のある最高級の生地です。そういった繊細な生地の服を着た人物が、垂水さんの胸元を正面から強く掴み、乱暴に揺さぶった。その時の強い摩擦が細かい紙やすりのように働き、この上着の表面にささやかな痕跡として残されているのです」
そっとルーペを下ろすと、桐生の顔を真っ直ぐに見つめた。
「真犯人は、相良さんのような衣服を着た人物ではありません。仕立ての良い、高級な背広を身に纏った人物です」
「高級な背広を着た男」
桐生は低く呟き、椅子からゆっくりと立ち上がった。その精悍な顔には、点と点が一本の線で見事に繋がった時の、刑事としての凄みと確信が満ち溢れていた。
「間違いない。時洲、あんたのその見立てで、俺の頭の中にあった欠片が見事に組み上がったぜ。相良の嘘と、その後ろで糸を引いている者の正体がな」
桐生は興奮を抑えきれない様子で、時洲堂の少し空いた空間を歩き回りながら、自分の導き出した推理を語り始めた。
「まず、相良の自首は、金で雇われた身代わりだ。ただ、普通の身代わりとはわけが違う。あいつは最初から、刑務所に入る気なんてさらさらないんだよ」
「どういうことですか。自首をしてしまえば、捕まってしまうのでは」
「ここが、知恵をつけた者の狡猾なところだ」
桐生は足を止め、美波に向かって言葉を投げかけた。
「相良は、凶器の鉄の棒に自分の指紋をべったりとつけて自首してきた。だが、遺体を引き倒したと供述しているのに、あいつの服や靴には、被害者の血痕や公園の泥が一切付着していなかったんだ。俺はずっとそれが引っかかっていた。おそらく相良は、送検されて裁判が近づいた頃に、突然こう言って供述を翻すつもりだ。『本当は殺していない。公園に落ちていた血のついた鉄の棒を、金になるかと思って拾っただけだ。警察の厳しい取り調べが怖くて、嘘の自白をしてしまった』とな」
桐生の説明に、美波は息を呑んだ。
「日本の裁判では、決定的な目撃証言や、自白を裏付ける強固な物的証拠がなければ、有罪に持ち込むのは非常に難しい。凶器に指紋があっても、服に血痕がなく、防犯映像とも体格が一致しないとなれば、検察も証拠不十分として相良を不起訴にする可能性が高い。不起訴になれば、相良は無罪放免だ。誰の目から見ても事件は迷宮入りし、相良は約束された莫大な報酬だけを手に入れて、何食わぬ顔で生きていく。そんな入れ知恵をした奴がいるんだ」
「そんな……。人の命を奪っておいて、法律の隙間を突いて逃げ切ろうだなんて、あまりにも悲しすぎます」
美波が胸の前で両手を強く握りしめると、桐生は「全くだ」と深く頷き、怒りを孕んだ低い声で言葉を継いだ。
「だが、あんたが見つけてくれた『高級な生地の擦れ跡』のおかげで、事件の真の標的がはっきりと見えた。垂水が記者として命懸けで追っていた、でかい事件の中心にいる男だ」
「垂水さんは、どのような事件を追っていらっしゃったのですか」
「都内で現在進行中の、大規模な駅前再開発事業に絡む汚職事件だ。大企業が、工事の入札を有利に進めるために、ある政治家に巨額の賄賂を渡していたという疑惑だ。その額は数十億円にものぼると言われている」
桐生は鋭い眼光で、窓の外の冷たい雨を睨みつけた。
「その癒着の中心にいるのが、現役の議員、明智だ。明智は昔から黒い噂の絶えない男だが、非常に用心深く、警察や報道に決して尻尾を掴ませない。なぜなら、その手足となってすべての汚れ仕事を引き受けている優秀な腹心がいるからだ」
「腹心」
「明智の秘書を務めている、蛯名という男だ」
桐生は端末を操作し、別の場所から一枚の人物写真を表示させた。
そこには、政治家である明智の後ろに控える、冷ややかで狡猾そうな顔つきの四十代の男が映っていた。
「蛯名は、頭が切れ、邪魔者はどんな手を使ってでも排除する。そして何より、自分の権力を誇示するように、いつも仕立ての良い特注の高級な背広を着こなしている。相良を唆して身代わりに仕立て上げ、公園で垂水と揉み合いになり、自らの手で彼を殺害したのも、この蛯名で間違いない」
高級な衣服の擦れ跡と、政治家の秘書という符合。
美波の見つけ出したささやかな痕跡が、見事に警察の捜査線と結びつき、真犯人の姿を明るみに出したのだ。
「桐生さん。それなら、すぐにその蛯名さんという方を捕まえることはできないのですか」
美波の問いに、桐生は悔しそうに顔を歪め、重い溜息を吐く。
「それができれば苦労はしないのだがな。蛯名を容疑で引っ張るには、まだ証拠が弱すぎる。奴は事件の夜のアリバイを、秘書仲間の偽証で完璧に固めているはずだ。あの連中を完全に追い詰めるには、どうしても『あれ』が必要なんだよ」
「あれ、とは」
「垂水が命と引き換えにしてでも守り抜こうとした、明智と企業の癒着を証明する『証拠のデータ』だ」
桐生は再び椅子に座り、両手を組んで深く考え込むような姿勢をとった。
「垂水は殺される数日前、親しい同業者の記者にこう漏らしていたらしい。『明智を完全に終わらせる、決定的なデータを手に入れた。近いうちに大々的に公表する』と。おそらく蛯名はその動きをいち早く察知し、データを取り返すために垂水を公園に呼び出し、揉み合いの末に殺害したのだろう」
「では、そのデータは、すでに蛯名さんに奪われてしまったのでは」
「いや、違う」
桐生は首を横に振り、確信に満ちた強い視線で美波を見た。
「俺が独自に蛯名の周辺を調べたところ、あいつらも血眼になって何かを探していることがわかったんだ。垂水の知り合いの記者の部屋が何者かに荒らされたり、垂水の実家周辺に不審な車がうろついたりしている。つまり、蛯名は垂水を殺したものの、肝心のデータを見つけることができなかったんだ」
「まだ、見つかっていない」
「ああ。俺たち警察も、垂水の自宅や、隠れ家として使っていた場所、そして現場の公園の茂みまで徹底的に捜索したが、記憶媒体の類は一切見つかっていない。垂水は、殺される直前、蛯名にも、警察にも見つからない場所に、そのデータを隠したんだ」
桐生の言葉を聞き、美波は胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。
巨大な権力の闇をたった一人で暴こうとした、一人の記者。
彼は公園で蛯名と対峙した時、自分が殺されるかもしれないという絶対的な恐怖を感じていたはずだ。それでも彼は、決して証拠を渡さず、真実を未来に託すために、最後の力を振り絞ってデータをどこかに隠したのだ。
「垂水さんが、命を懸けて守り抜いた真実」
美波は端末の高精細な画面に視線を落とした。
そこには、『遺留品』という一覧が残されている。
使い込まれた財布、手帳、家の鍵、ハンカチ、小銭入れ。事件当夜、垂水が身につけていた、ありふれた日用品の数々。
「桐生さん。垂水さんが遺した所持品の写真を、もう一度最初から、すべて私に見せていただけますか」
美波の琥珀色の瞳には、悲劇のまま終わらせてはならないという、強い決意の光が宿っている。
「垂水さんが最期に命を託したモノが、必ず私たちに何かを語りかけてくれるはずです。彼が遺した真実の隠し場所を、絶対に見つけ出しましょう」
「ああ。頼む、時洲」
桐生が力強く頷き、端末の画面を操作する。
冷ややかな雨音だけが密やかに響く時洲堂の中で、若き古物商と敏腕刑事による、声なきモノたちとの真剣な対話が、再び始まろうとしていた。




