第二話『傀儡』(前)
東京の下町に、本格的な冬の足音を感じさせる乾いた木枯らしが吹き始めた、十一月も終わろうとしているある日の午後。
骨董品店『時洲堂』の店先にある立派な銀杏の木は、すっかり黄金色の葉を落とし、冷たい北風が細い枝を揺らすたびに、乾いた物寂しい音を立てていた。道行く人々は皆、厚手のコートの襟を立て、マフラーに顔を埋めるようにして足早に通り過ぎていく。しかし、綺麗に磨き上げられたガラス戸の向こう側、静まり返った店内の空気は、外の刺すような寒さが嘘のように柔らかく温かかった。
若き店主である時洲美波は、重厚なマホガニーのカウンターの奥、いつもの指定席であるアンティークのロッキングチェアに深く腰を下ろしていた。厚手のアイボリーの編み物の上着を羽織り、膝には温かい格子柄の毛布を覆うように掛けている。
手元だけを照らす真鍮のデスクランプの、柔らかいオレンジ色の光。その下で、美波は入荷したばかりの古い銀製の懐中時計を、専用の柔らかい布で優しく、愛おしむように丁寧に磨き上げていた。
微かで規則正しい音を立てて時を刻むその時計は、おそらく何十年も前に作られた年代物だ。長い年月、誰かの衣服の懐の中で大切に過ごしてきたのだろう。丸みを帯びた銀色の外殻には、持ち主の生活の証である細かな擦れ跡が無数に残っている。それは決して価値を下げる傷や劣化ではない。その時計が確かな時間を誰かと共に歩んできたという、この上なく美しい歴史の痕跡だった。
美波はわずかにずり落ちた丸眼鏡のブリッジを指先でそっと押し上げ、その微細な擦れ跡の一つ一つを読み取るように、琥珀色の瞳を細めた。
店内には、クラシックの音楽と、年代物の石油ストーブの上で細い湯気を上げるやかんの沸騰音だけが満ちている。モノの静かな声に耳を傾ける、こののんびりとした下町の時間を、美波はとても好きだった。
その穏やかな静寂を破るように、涼やかな真鍮の鐘の音を立てて戸が開いた。
「いらっしゃいませ。あら」
時計を磨く手を止め、顔を上げた美波の視線の先に立っていたのは、この落ち着いた古物商には若干不釣り合いな、背が高く肩幅の広い、精悍な顔つきの男性だった。
仕立ての良い背広の上から、防寒用の黒いコートを羽織っている。鋭い鷹のような眼光と、自信に満ち溢れた隙のない立ち姿。警視庁捜査一課に所属する敏腕刑事、桐生だった。
「時洲。急に来て悪いな」
桐生は迷いのない足取りで店内に入ってくると、コートの襟を軽く整えながら、余裕のある笑みを浮かべてカウンターへと近づいてきた。普段は凶悪犯と対峙し、捜査一課の要として過酷な現場を仕切る男の、威風堂々とした態度はここでも変わらない。
だが、美波の顔を見た瞬間、その鋭利な刃物のような眼差しが、ほんのわずがだけ柔らかく温かなものへと和らいだのを、美波は見逃さなかった。
「桐生さん。お久しぶりですね。急だなんてとんでもないです、どうぞ中に入って温まってください。外、すごく冷えるでしょう」
「ああ、今日は今年一番の冷え込みらしいからな。まあ、俺くらいになるとこの程度の寒さはどうってことないが。近くまで聞き込みに来たついでに、顔を出してやったんだ。ほら、これ。差し入れだ」
桐生はコートのポケットから手を出して、カウンターの上にやや乱暴に小型の紙袋を置いた。それは、とても可愛らしい淡い桃色のリボンがかけられた、上品な洋菓子店のものだった。
美波が目を丸くして、その紙袋のロゴマークを見つめる。
「これ、銀座にあるすごく有名なケーキ屋さんの紙袋ではないですか。テレビで、毎日一時間以上並ばないと買えないとやっていましたよ。聞き込みのついでに簡単に買えるようなものでは……」
「たまたまだ、たまたま。前を通ったら、偶然列が短かったからな。刑事の勘で『今は並んでいない』というのがわかったんだよ。俺は甘いものはよくわからないから、店員に適当に見繕って箱に詰めさせただけだ。食べたければ食べればいい」
桐生は腕を組み、あくまで『ついで』であることを強調して胸を張った。
実際には偶然などではない。美波の喜ぶ顔が見たくて、非番だった昨日の夕方、冷たい木枯らしが吹く中を一人で四十分も並んで買ってきた、彼なりの精一杯の不器用な手土産だった。捜査一課の要と呼ばれる強面のエリート刑事が、若い女性ばかりの行列にしかめっ面で並ぶのは相当な忍耐が必要だったが、そんな苦労は微塵も感じさせないように振る舞っている。
美波は花がほころぶように微笑み、その紙袋をまるで大切な宝物のように両手で受け取った。
「ありがとうございます、桐生さん。とっても嬉しいです。ちょうどお湯も沸いていますし、今、温かい紅茶を淹れますね。せっかくですから、一緒にいただきましょう」
「ああ。茶くらいなら、特別に付き合ってやろう」
美波がカウンターの奥のこぢんまりとした台所に立ち、古い意匠のティーカップを二つ用意して、香り高い紅茶を淹れ始める。
桐生はコートを脱いでカウンターの前の重厚な椅子に腰を下ろし、美波が立ち働くその華奢な背中を、どこか眩しそうに見つめていた。
日々、人間の悪意や凄惨な事件ばかりを目の当たりにしている桐生にとって、古いモノを大切に扱い、誰に対しても分け隔てなく優しい笑顔を向けてくれる美波の存在、そしてこの時洲堂の穏やかな空気は、張り詰めた神経を解きほぐしてくれる何よりの癒やしだった。
だが、今日は単なる休息のために訪れたわけではない。
美波が湯気を立てる紅茶と、箱から出した宝石のように美しい洋菓子をカウンターに並べた時。桐生の顔つきが、刑事としての鋭く知的な、本来の『仕事の顔』へと瞬時に切り替わった。
「いただきます。すごくいい香りですね」
桐生は紅茶を一口飲み、その豊かな香りに短く息を吐いた後、美波の琥珀色の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「単刀直入に言う。時洲、あんたのその、『モノの記憶を読み解く眼』を、少しばかり俺に貸してくれないか」
美波はフォークを伸ばそうとしていた手をそっと置き、居住まいを正す。
「桐生さんが私に頼み事だなんて、珍しいですね。何か、特別な事件なのですか」
「ああ。俺たち捜査一課が追っている殺人事件だ。本来ならこんなところで油を売っている暇はないのだが、どうにも引っかかる点があってな。俺の推理を裏付けるための、確かな『物証の見方』が必要になった」
桐生はカップを置き、事件の概要をよどみなく、自信に満ちた口調で語り始めた。
「三日前の夜だ。都内の大きな公園の長椅子の裏で、男の遺体が発見された。被害者の名前は垂水。三十代の記者だ。雑誌に企業の実態などを寄稿していたらしい。死因は、背後から硬い鈍器のようなもので後頭部を殴られたこと。財布や携帯電話といった金目のものは奪われていなかったが、現場には凶器も残されておらず、最初は怨恨の線が濃厚だと思われていた」
「記者の方が……」
「だが、事件の翌日の朝、管轄の警察署に一人の男が自首してきた。相良という、四十代の無職の男だ。着の身着のままで、手には血のついた鉄の棒を握りしめていた。その血痕は、被害者の垂水のものと完全に一致した」
「犯人が自ら名乗り出たのですね」
美波が小首を傾げると、桐生は口角をわずかに上げ、鼻で笑うように息を吐いた。
「相良の供述はこうだ。『夜の公園で金持ちそうな男が一人で歩いているのを見つけ、金目当てで後ろから近づいて、持っていた鉄の棒で後頭部を思い切り殴った。だが、男が動かなくなって急に怖くなり、何も取らずに走って逃げた』と。自白があり、凶器もある。一見すれば、金に困った行きずりの犯行で事件解決だ。上層部も早々に送検して終わらせたがっている」
桐生はそこで言葉を区切り、鋭い鷹のような目で空間を睨みつけた。
「だが、俺の目は誤魔化せない。こいつは嘘をついている」
「嘘、ですか。どこかに不自然な点があったのでしょうか」
「ああ。決定的な矛盾が一つある。それは『逃走経路の防犯映像』だ」
桐生は身を乗り出し、マホガニーのカウンターを指先で軽く叩きながら説明を続けた。
「相良は犯行後、公園の南口から出て、住宅街を抜けて逃げたと供述している。確かに、犯行の推定時刻から約五分後、その経路にある店舗の防犯カメラに、小脇に鉄の棒らしきものを抱えて全力で逃げていく男の後ろ姿が映っていた。服装も、相良が自首してきた時に着ていた黒の衣服と一致している。だが、時洲。その映像に映っていた男の『走り方』が、どう考えてもおかしい」
「おかしい、とは」
「相良は長年定職に就かず、不摂生な生活を送っていたせいで、お世辞にも体力があるとは言えない体つきだ。健康の記録を見ても、足腰の筋肉がかなり落ちている。だが、映像に映っていた男の走りは、歩幅が広く、背筋が真っ直ぐに伸びていて、腕の振りも綺麗だ。まるで陸上の運動経験者のように無駄のない、バネのある力強い姿だった。あんな速度で、しかも人を撲殺した直後の動揺した状態で長く走れるような体力を、相良は持っていない。体の使い方が、根本的に違う」
桐生は自信たっぷりに断言した。刑事として、数え切れないほどの逃走犯の姿を見てきた彼にとって、その映像の違和感は明白だったのだ。
「俺は取調室で、相良にその矛盾を何度も追及した。『映像に映っていたのは本当にお前か』とな。だが相良は、『火事場の馬鹿力が出たんだ、無我夢中で走ったから姿勢なんか覚えていねえ』の一点張りで、それ以上はすっかり口を閉ざしてしまった。ただの強盗殺人なら、あんな風に頑なに黙秘を貫く理由がない。必ず何か裏がある」
桐生はそこで一度深く息を吸い、美波の顔を見た。
「相良の拘留期限が、もう目の前まで来ている。これ以上確たる証拠がなければ、上層部の意向通り、相良を強盗殺人の単独犯として起訴して捜査は打ち切られてしまう。俺は、そんな杜撰な決着を許す気はない。時洲。映像だけじゃ、あいつの嘘を完璧に崩すには弱すぎる。俺に必要なのは、現場に残された遺留品から、相良の供述を根底から覆す『物証の矛盾』だ。あんたの目で、相良の嘘を暴き出してほしい」
桐生はそう言って、真っ直ぐに美波を見つめた。
湯気の立つ紅茶と、手付かずの美しい菓子。その間に落ちた静寂の中で、美波はゆっくりと姿勢を正した。
先ほどまでのあどけない可愛らしい女の子の顔は消え失せている。
「わかりました、桐生さん」
美波の声は、のんびりとした響きから、迷子になったモノの記憶を辿る『探し物探偵』としての、低く真剣なものへと切り替わっていた。丸眼鏡の奥の琥珀色の瞳が、桐生の鋭い眼差しをしっかりと受け止める。
「モノは、決して嘘をつきません。人が言葉でどれほど事実を覆い隠そうとしても。その瞬間に着ていた服の擦れや、大切にしていた持ち物に刻まれた些細な傷跡には、必ずその時の人間の行動と、隠しきれない真実が残ります。垂水さんが遺した無言の記憶を、一緒に紐解きましょう」
美波の迷いのない承諾に、桐生は安堵したように力強く頷き、口角を上げた。
「さすがだな、時洲。そう言ってくれると信じていた。さっそく、遺留品の目録や現場写真を手配する。俺の権限で、持ち出せる資料は全部持ってきてやる」
桐生が意気揚々と答えると、美波は首を横に振った。
「いいえ。現場の状況や文字の記録も大切ですが、私が見たいのは垂水さんご自身の歩みと、その瞬間に起きた出来事の痕跡です。ですが、私は警察の関係者ではありませんから、証拠品の現物を直接この目で見ることはできませんよね」
「ああ、そうだ。さすがに、殺人事件の重要な遺留品を外部の一般人に直接触らせることはできない。見せられるのは、あくまで写真の記録までだ」
「でしたら、桐生さんに一つ、お願いがあります」
美波はカウンターの上に置かれた自分の手帳の上に、人差し指をそっと置く。
「通常、警察が証拠品を撮影する写真は、形や位置関係がわかるように、全体像を撮ったものが多いと思います。ですが、それらの写真をいくら後から拡大しても、映像が粗くなってしまい、私が知りたいモノの細かな傷や繊維のほつれを正確に読み取ることはできません。ですから」
美波は真剣な眼差しで、桐生に思いを伝えた。
「鑑識の方にお願いして、被害者である垂水さんが着ていた衣服の襟元、背中、そして胸元の付近。さらに、彼がその日身につけていた所持品すべての、ありとあらゆる角度からの、極めて詳細な『近接写真(マクロ撮影)』を用意してください」
「近接の写真。全体像じゃなく、表面の細かな傷がわかるような写真ということか」
「はい。繊維の一本一本、金属の微細な凹凸や、擦れ跡の方向までがはっきりと見える、私がルーペで覗き込んだ時と同じ鮮明な写真が必要です。相良さんが供述している通り、本当に後ろから襲ったのかどうか。モノの表面に残されたささやかな痕跡が、必ず私たちに答えを教えてくれるはずです」
美波の凛とした要望に、桐生は面白そうに息を吐き、力強く胸を叩く。
「なるほどな。あんたのそのルーペの目の代わりになるような、詳細な写真を用意しろというわけだ。任せておけ。鑑識の連中には俺から言って、言われた部分をすべて撮り直させる。少々時間をくれ。必ず、あんたが求める最高精度の資料を揃えて持ってくる」
「はい、お待ちしております。それと、桐生さん」
すぐにでも署に戻ろうと立ち上がりかけた桐生を、美波が優しい声で引き止めた。
探偵の鋭い顔から、再び穏やかな下町の女の子の顔へと戻っている。
「せっかくの美味しい洋菓子、このままでは風味が落ちてしまいます。お仕事が忙しいのはわかりますが、まずは肩の力を抜いて、温かい紅茶と一緒にいただきませんか」
美波が小首を傾げて微笑むと、桐生の自信に満ちた顔が、再び純粋な青年のようにうっすらと赤く染まる。
「……ああ。そうだな。せっかく偶然買えたものだからな。冷める前にいただくか」
再び椅子に座り直した桐生は、大きな手で金属のフォークを器用に持ち、甘い菓子を口に運んだ。
木枯らしの吹く外の寒さを忘れるような、時洲堂の温かい時間。
敏腕刑事の抱いた違和感と、若き古物商のモノに寄り添う眼差し。
二つの異なる視点が交差する時、偽りの自首という深い謎を解き明かすための物語の幕が上がろうとしていた。




