第一話『故郷』(後)2
秋の傾きかけた太陽が、広大な昭和新山クマ牧場の敷地内に、木々の長い影を落とし始めていた。
美波を先頭に、アメリカ人観光客のジョン、通訳の女性従業員、そして三枝夫婦の五人は、クマたちの低い唸り声が響く飼育場所の順路を足早に戻り、敷地の最も奥に位置する第二牧場へと到着した。
そこは、他の場所よりもやや高い位置からヒグマたちを見下ろすことができる広い展望場所になっていた。巨大な鉄格子の柵の向こう側の下層には、北海道の厳しい自然を生き抜くエゾヒグマたちが重々しく歩き回り、ジョンの証言通り、二頭の若いクマがじゃれ合うようにして激しい取っ組み合いをしている姿が見えた。
「ジョンさん。先ほど、柵のギリギリまで身を乗り出して写真を撮ったというのは、具体的にこの展望場所のどの辺りか覚えていますか」
美波の問いかけを通訳の従業員が的確に伝えると、ジョンは広い柵沿いを忙しなく見渡し、ある一点を指差した。
「あそこだ。ちょうどあの、一部塗装が剥げている太い木の柱のすぐ右側だよ。あそこから柵に身を乗り出すようにして、下にいるヒグマを夢中で狙ったんだ」
「ありがとうございます」
通訳の返答を聞いて美波は小さく頷き、ジョンの指差した場所へと迷いなく歩み寄った。
展望場所の足元は、観光客が見学しやすいように大部分が綺麗にアスファルトで舗装されている。しかし、ヒグマたちがいる場所との境界を隔てる柵のすぐ足元、およそ数十センチの幅だけは、舗装されずにむき出しの黒い土と草地が残り、そこには秋の冷たい風で吹き寄せられた色鮮やかな落ち葉が、分厚い絨毯のようにこんもりと吹き溜まっていた。
「なるほど、落ち葉のクッションですね。これなら、重たい革財布が落下しても、何層にも重なった分厚い落ち葉が衝撃を完全に吸収し、落下音を消し去ってしまいます。ジョンさんがお財布を落とした音に気づけなかったのも無理はありません」
美波はポシェットの中から、愛用の銀色のルーペを静かに取り出し、琥珀色の瞳に探るような光を宿した。
迷子になったモノの声を聞き逃さないための、静かで研ぎ澄まされた集中の時間。周囲の観光客のざわめきも、クマの野太い鳴き声も、美波の耳からは遠ざかり、目の前にあるささやかな痕跡だけが世界を占める。
「ジョンさんは百九十センチの長身で、さらに重いレンズを構えるために、右足を大きく後ろに引き、踵に強い体重をかけて踏ん張る癖がある」
美波は柵の前に立ち、ジョンが立っていたであろう位置を逆算して、半歩後ろのアスファルトと土の境界線付近へと視線を落とした。
そこには、数え切れないほどの観光客の足跡が無数に交差していたが、美波のルーペは、その混沌とした情報の中から『一つの強烈な擦れ跡』を正確に捉え抜く。
他の足跡がただ土を平坦に踏み固めているだけなのに対し、その一つの痕跡だけは、右側から左前方へ向かって、靴の硬い踵で土を力強く抉り取ったような、斜めの溝を作っていたのである。
「これです。先ほど確認したジョンさんの右足の靴底の削れ方と完全に一致する、踏み込みの擦れ跡です。ジョンさんがここでカメラを構えたことは間違いありません。となると、重心を低く落として前のめりになったジョンさんの外套の右半分は、柵のこの部分に接触していたはずです」
美波は地面の足跡から視線を上げ、柵の太い木製の柱、ちょうど美波の胸の高さあたりへとルーペを向けた。
木製の柵は、長い間風雨に晒されたことで表面の塗装が剥がれ、細かい木目のささくれが無数に毛羽立っていた。美波が息を殺して、その無数のささくれをルーペで舐めるように観察すること数秒。
「見つけました」
美波の静かな声に、後ろで見守っていた全員が息を呑んだ。
「従業員さん。ジョンさんに伝えてください。この柵の木のささくれに、ジョンさんが着ている撥水コートと全く同じ色の極小の繊維が数本、絡みつくようにして残っています」
従業員が驚きの声を上げながらそれを訳すと、ジョンは「オーマイガー」と叫んで自分のコートの右側付近を確認した。そこには確かに、木と強く擦れてわずかに毛羽立ったような微細な跡が残っている。
「ジョンさんがここでカメラを構え、前のめりになった瞬間。コートの右側が柵に強く擦れ、大きく口を開いた右のポケットから、滑りやすい重たい長財布がこぼれ落ちた。お財布はそこから、このささくれの真下へと、真っ直ぐに落ちたはずです」
美波はルーペをポシェットにしまい、柵の真下、分厚く降り積もった落ち葉の吹き溜まりへとゆっくりとしゃがみ込んだ。そして、両手で乾いた音を立てながら、色鮮やかな赤や黄色の落ち葉を一枚、また一枚と丁寧に払い除けていく。
数層の落ち葉をよけた、その時だった。
秋の落ち葉の絨毯の奥底から、鈍い光沢を放つ上質な焦げ茶色の革の塊が、不意に姿を現した。
「ありました。ジョンさん、これですね」
美波が土を手早く払い、分厚い本革の長財布を拾い上げて振り返ると、ジョンは信じられないものを見るような目で、完全に硬直していた。
「ああ、まさか……信じられない……」
ジョンは震える手でその財布を受け取ると、慌てて中身を確認した。クレジットカードも、大切な身分証も、たっぷりと入った現金も、すべて無傷のまましっかりと収まっている。
広大なクマ牧場の中で完全に絶望的だと思われていた落とし物が、わずか数分の観察と、人の無意識の癖やモノが落ちる自然の理だけで、寸分の狂いもなく見つけ出されたのだ。
ジョンは財布を胸に強く抱きしめ、天を仰いで歓喜の声を上げた。
「奇跡だ。君は魔法使いなのかい。いや、違う。君はファンタスティックな日本の名探偵だ」
ジョンは感極まった様子で大声で叫ぶと、身長差などお構いなしに、長い両腕を大きく広げて美波へと突進してきた。アメリカ人特有の、喜びと感謝を全身で表現する熱烈な抱擁をしようとしたのだ。
「えっ。あっ、ジョンさん……」
突然の巨漢の突撃に、名探偵から普通のぽわんとした女の子に戻ってしまった美波が、目を丸くして硬直した、まさにその瞬間だった。
美波とジョンの間に、カーキ色の作業着を着た分厚い壁が、凄まじい速さで割って入った。
幸一だ。
幸一は、抱擁をしようと広げられたジョンの長い両腕の間に無言で立ち塞がり、自分の背中に美波を完全に隠すようにして、仁王立ちになったのである。
「おい。気安く触ってんじゃねえ」
幸一は、自分よりも頭一つ分高いジョンを鋭く見上げ、眉間に険しい皺を刻み、地獄の底から響くような低いドスを効かせた声で威嚇した。その眼光の鋭さと職人の威圧感は、柵の向こうにいる巨大なエゾヒグマすらも震え上がらせるほどの凄まじい迫力だった。
「ワオ」
突如として現れた日本の無骨な職人の恐るべき威圧感に、ジョンは短い悲鳴を上げて後ずさり、両手を上げて降参の姿勢をとった。
「ああっ、幸一さん。ジョンさんはただ、お礼を言おうとしてくれただけで……」
背後から慌てて美波が止めに入るが、幸一は微動だにせず、ジョンを鋭く睨みつけたままだ。しかし、その分厚い背中に守られた美波の心臓は、驚きとは別の、絶対的な安心感でじんわりと温かくなっていた。
その光景を見ていた通訳の従業員が、慌ててジョンに「彼は彼女のお父さんのような存在で、あなたから娘を守ろうとしたんです」と英語で伝える。
それを聞いたジョンは、なるほどと安堵したように胸をなでおろし、今度は幸一に向かって深く、そしてとても丁寧なお辞儀をした。
「ごめんなさい、お父さん。僕が興奮しすぎたよ。でも、本当に、本当にありがとう。君の娘さんは、世界一の探偵だ」
従業員がその言葉を訳すと、幸一は鼻を鳴らし、ようやく威圧感を収めて腕を組んだ。
「俺の娘が優秀なのは当たり前だ。財布が見つかってよかったな。……ほら、美波、洋子。帰るぞ」
幸一は照れ隠しのように顔を逸らし、出口の方へと大股で歩き出してしまった。
その広く頼もしい背中を見つめながら、洋子が楽しそうに笑う。
「お父さんったら。美波ちゃんが抱きしめられそうになって、本気で焦ってしまって。本当に美波ちゃんのこととなると過保護なのだから」
「幸一さん」
不器用すぎる父親の愛情に、美波も思わず頬を緩ませた。
ジョンと従業員に何度もお礼を言われながら、三人は夕暮れが近づく昭和新山クマ牧場を後にした。
***
宿泊施設へと戻り、豪華な夕食を済ませた二日目の夜。
三人は、館内にある落ち着いた雰囲気の喫茶室へと足を運んだ。
木目を基調とした温かみのある広々とした店内には、間接照明の柔らかな光が灯り、淹れたての珈琲の芳醇な香りが漂っている。そして何より目を引くのは、壁一面に本棚が設置され、数え切れないほどの色とりどりの本が並べられていることだった。
北海道の美しい風景を収めた大判の写真集、野生動物の生態を記した分厚い図鑑、そして土地の言葉で綴られた詩集など、知的好奇心をくすぐる品揃えに、美波の目はすっかり釘付けになっていた。
「素敵な空間ですね。美味しいお茶を飲みながら、自由に本を読めるなんて」
美波は本棚から北海道の生き物図鑑と、洞爺湖の自然を詠った古い詩集を手に取り、窓際のゆったりとした長椅子に腰を下ろした。
しばらくして、注文を終えた幸一と洋子が、盆に飲み物を乗せてやってきた。
「ほら、美波ちゃん。ここの珈琲はとても美味しいらしいわよ」
「ありがとうございます、洋子さん」
美波が受け取ったのは、美しい模様が描かれた温かいカフェオレ。洋子は香りの良いハーブティー、そして幸一は真っ黒なブラック珈琲だ。美波は珈琲を一口飲み、その豊かな味わいとミルクのまろやかな甘さにほっと息を吐いた後、手元に開いた北海道の生き物図鑑のページをそっと撫でた。
「今日、クマ牧場で出会ったジョンさんのお財布を探した時。彼が残したコートの繊維や足跡から、無意識の行動を紐解くことができました。でも、それは人間だけではなく、この図鑑に載っている野生の動物たちも、そして有珠山や洞爺湖といった巨大な自然も、すべて同じように『足跡』を残しているのですよね」
美波は図鑑から視線を上げ、夜の闇に沈む窓の外の洞爺湖へと目を向けた。
「洋子さんの宝箱が、二〇〇〇年の有珠山の噴火による大地の変動で底に沈んでしまったように。自然の残す痕跡は、時に人間の想像を絶するほど巨大で圧倒的です。でも、だからこそ、何十年経っても決して消えることのない確かな記憶として、私たちの心に刻まれるのだと思います」
美波の静かで詩的な言葉に、洋子はハーブティーの器を持ったまま、目尻を下げて頷いた。
「ええ。私が子供の頃に集めたシーグラスもね、元々は誰かが捨てた、ただの鋭いガラスの破片だったのよ。でも、それが洞爺湖の波に何十年も洗われて、他の石や砂と擦れ合うことで角が取れて、あんなに丸くて美しいすりガラスになった。……人間も、同じかもしれないわね。色々な人と出会って、時には激しくぶつかり合って、傷ついて、そうやって少しずつ丸くなっていく。私とお父さんも、そうやって今日まで歩いてきたんだもの」
「お前は昔から十分に丸かっただろうが」
幸一が珈琲を啜りながらぶっきらぼうに茶化すと、洋子は「もうっ」と笑いながら幸一の腕を軽く叩いた。
美味しい珈琲の香りと、本に囲まれた静寂の空間。
旅行最後の夜は、家族の温かい笑い声と共に、ゆっくりと、そして穏やかに更けていった。
***
翌朝。二泊三日の里帰り旅行も、いよいよ最終日を迎えた。
朝食を済ませ、荷物をまとめた三人は、名残惜しさを胸に宿泊施設の出発手続きを済ませた。
帰りのバスの時間までは、まだ多少余裕がある。三人は、敷地内にある足湯へと向かった。
目の前に広がる洞爺湖の絶景を特等席で眺めながら、宿泊客がのんびりとくつろげるように作られた、木造りの立派な足湯だ。
三人は長椅子に並んで座り、靴と靴下を脱いで、温かいお湯にゆっくりと足を浸した。
「ああ……いい気持ち。十月の朝の冷たい風と、この足湯の温かさが最高ね。なんだか、東京に帰るのがもったいなくなってしまうわ」
洋子が幸せそうな息を吐き、幸一も腕を組んで黙って湖を眺めている。
美波は足先から全身へとじんわりと広がっていく温泉の極上の温もりを感じながら、目の前に広がる洞爺湖の絶景を心ゆくまで堪能していた。
三日目の朝も、空はどこまでも高く澄み渡り、風も穏やかだ。対岸にはまだうっすらと秋の朝靄がかかり、湖の中央には色鮮やかな紅葉を纏った中島が静かに浮かんでいる。
「洋子さん、幸一さん」
美波は、足湯の温もりの中で、隣に座る二人に向かって真っ直ぐに向き直り、深々と頭を下げた。
「今回の里帰り旅行、本当にありがとうございました。お二人にとって大切な誕生日のご旅行に、こうして本当の家族のように一緒に来させていただけて。私、本当に幸せです」
美波が顔を上げると、その琥珀色の瞳は、あふれる感謝の涙でうっすらと潤んでいた。
「色々なモノの記憶や歩みを探す中で、幸一さんの誰よりも深い愛情と、洋子さんのすべてを包み込むような温かさに、何度も救われました。この洞爺湖で過ごした三日間は、私にとって一生の宝物です」
美波の真っ直ぐで嘘のない言葉に、洋子は目尻に涙を浮かべ、その細い肩を力強く抱きしめた。
「私たちの方こそ、ありがとう。美波ちゃんが一緒に来てくれたおかげで、私の忘れかけていた宝箱も見つかったし、本当に楽しかったわ。美波ちゃんは、私たちの自慢の娘よ」
「おう。また来年も、どこか連れて行ってやるからな。体力つけておけ」
幸一がぶっきらぼうに言いながら、足湯から上がり、無言で美波と洋子に清潔な手拭いを差し出した。
その相変わらずの照れ隠しのような気遣いに、美波は「はい」と満面の笑みで頷いた。
黄金色の夕暮れ、朝靄の露天風呂、探し物の軌跡、そして温かい珈琲の香り。洞爺湖の美しい景色と、家族の愛おしい時間を胸に刻み込み、三人は帰路についた。
帰りの道のりは、来た時と同じ順序である。
路線バスで洞爺駅へと下り、そこから特急列車に乗り込んで、噴火湾の海沿いを南下していく。車窓から見える海は、来た時と同じように眩く輝いていたが、旅の終わりの一抹の寂しさが入り混じり、どこか切ない色に見えた。
新函館北斗駅で、北海道新幹線へと乗り換える。
行きは恐怖で全身をこわばらせていた美波だったが、二度目の乗車ともなると、さすがに幾分かは慣れたようだった。
「ふう。やっぱり速いですけれど、揺れないのでお弁当は食べやすいですね」
幸一から渡された駅弁を美味しそうに頬張っていると、新幹線は猛速度で本州へと突入し、東北の紅葉の山々を駆け抜けていく。
旅の疲れが出たのだろう。仙台を過ぎたあたりで、隣の席の洋子が規則的に首を揺らして舟を漕ぎ始め、やがて穏やかな寝息を立て始めた。
通路を挟んだ席からその様子を見ていた美波が、洋子が風邪を引かないように布をかけようと立ち上がりかけた。
しかし、それよりも先に無言で立ち上がった幸一が、自分が着ていた厚手の上着を脱ぎ、眠っている洋子の肩から首元まですっぽりと、そっとかけてやったのである。そして再び自分の席に座ると、何事もなかったかのように腕を組んで目を閉じる。
その一連の流れるような、あまりにも自然でさりげない行動。
美波は立ち上がりかけた姿勢のまま、その光景を琥珀色の瞳に焼き付けて頬を緩め、ゆっくりと自分の席に座り直した。
血の繋がりはない。言葉も足りない。
けれど、この二人は間違いなく、世界で一番温かくて、強い絆で結ばれた夫婦なのだ。
目に見える擦れ跡や地層のズレだけが痕跡ではない。こうして相手を想う無言の行動の一つ一つが、愛の痕跡となって、確実に人の心に積もっていく。
窓の外を流れる夕暮れの景色を眺めながら、美波は新幹線の心地よい揺れに身を委ね、第二の故郷となった東京の下町へと帰っていくのであった。
***
その日の夜。
東京の下町、静まり返った古物商『時洲堂』の店内には、古い柱時計の規則正しい秒針の音だけが心地よく響いていた。
北海道の研ぎ澄まされた冷たい風とは違う、下町の少々湿り気のある秋の夜風が、わずかに開いた窓の隙間から入り込んでいる。
美波はマホガニーの重厚なカウンターの奥、指定席であるアンティークのロッキングチェアに腰を下ろしていた。
手元だけを照らす真鍮のデスクランプ。その柔らかなオレンジ色の光の下で、美波は大切にしている古い革の手帳を開き、愛用の万年筆のキャップを静かに外した。
ペン先を古い紙に滑らせ、小気味よい摩擦音を立てながら、今回の特別な旅の記録を紡いでいく。
『木彫りの熊と、異国の旅人が残した小さな足跡。
モノに込められた想いは決して消えない。
失われたと思われた秘密の宝箱は、
変わらない山の稜線と優しい記憶が導く、
隆起した浜辺の奥深くに眠っていた。
ひしゃげたブリキ缶と、すりガラスの欠片。
暗い土の底で守られていた真の思い出は、
孤独な少女の悲しみをゆっくりと溶かした、
長い歳月と大地の温かい記憶だった。
大地の形が大きく変わろうとも、愛の痕跡は必ず残る。
冷たい秋風の中で、心温まる愛情で守られたこの旅の記憶は、
今も変わらず、私の心を本当の家族の温もりで包み込み続けている。』
美波はそこまで書き終えると、万年筆のペン先をそっと浮かせ、インクの乾き具合を確かめるように手帳をわずかに傾けた。
窓の外から、近所の飼い猫ののんびりとした鳴き声が聞こえてくる。穏やかな日常の下町の世界だ。
美波は静かに手帳を閉じ、傍らに置いてあったイギリス製の古いティーカップを手に取った。
ぬるくなった紅茶を一口飲み、その豊かな香りを楽しみながら、ふうっと穏やかな息を吐く。
(明日は幸一さんの工房に、綺麗に印刷したこの写真を持って行かないと)
美波の視線の先には、サミット記念館で洋子が撮ってくれた写真を現像した一枚が飾られていた。演台の撮影場所で、真っ赤な顔をして仏頂面を作っている幸一と、その隣ではにかんで並ぶ美波の姿が写っている。
これを見せたら、また「こんな恥ずかしいもの、さっさとしまえ」と怒られるかもしれない。けれど、その後に必ず美味しいお茶を淹れてくれる幸一と、隣で楽しそうに笑う洋子の姿が目に浮かび、美波は丸眼鏡の奥の琥珀色の瞳を穏やかに細めた。
静寂に包まれた時洲堂に、美波の小さく温かい笑い声が溶けていく。
迷子になったモノの足跡を追い、そこに宿る人の想いを紐解く、若き古物商の物語。
その一ページに、決して色褪せることのない黄金色の湖の記憶が、確かに刻み込まれた夜であった。




