第一話『故郷』(後)1
財田地区の静謐な浜辺で、洋子の純粋な少女時代の思い出である宝箱を無事に見つけ出した三人は、再び路線バスを乗り継ぎ、今度は洞爺湖の南側にそびえる雄大な火山地域へと足を運んだ。
先ほどまでの鏡のように穏やかで静寂に包まれた湖畔の風景から一転、視界に飛び込んできたのは、赤茶けた山肌が荒々しく剥き出しになり、今もあちこちから絶え間なく白い噴煙を上げ続けている昭和新山の姿だった。
大地の奥底から湧き上がる微かな硫黄の匂いと、生きた火山の圧倒的な息吹を肌で感じながら、三人はそこからさらに高い場所へと向かうべく、有珠山ロープウェイの山麓駅へと向かった。
「お前ら、足元気をつけろよ。こういうのは乗り降りが揺れるからな」
幸一がぶっきらぼうに言いながら、先に大きな赤い箱のようなゴンドラに乗り込み、美波と洋子の腕をしっかりと支えて引き上げてくれる。
「あっ……ありがとうございます」
美波がわずかにバランスを崩しかけたところを、幸一の分厚い手が力強く受け止めた。
やがてゴンドラの扉が閉まり、振動と共にゆっくり動き出すと、秋の色に染まった山肌を這うようにして、一気に標高を上げ始めた。
足元から次第に遠ざかっていく木々の赤や黄色。そして眼下には、先ほどまで間近で見ていた洞爺湖が、雄大な青い水鏡のように広がっていく。周囲を囲む山々の鮮やかな紅葉と、湖の中央に浮かぶ中島。高く昇るにつれて、そのスケールの全貌が明らかになっていく。
「まるで鳥になったみたいです。上から見ると、本当に大きな湖なんですね。あの中島の向こう側の浜辺で、ついさっきまで宝探しをしていたなんて、なんだか不思議な気分です」
美波は丸眼鏡の奥の瞳を輝かせ、両手を窓ガラスにぴったりと張り付けて、子供のように感嘆の声を上げていた。そんな無邪気な美波の背中を、幸一と洋子は本当の親のように目を細めて見守っている。
わずか六分ほどの空中散歩で、一行は有珠山の山頂駅へと到着した。
駅を降りて、綺麗に整備された遊歩道をほどなく歩いた先に広がっていたのは、大自然の風景を三百六十度一望できる『有珠テラス』だ。
広々とした木製のウッドデッキには、ゆったりと腰を下ろせる長椅子が並び、こだわりの珈琲を提供するお洒落なカフェが併設されている。三人は温かい飲み物を片手に、その特等席の長椅子に並んで腰を下ろした。
「すごい絶景。あちら側には、海まで見えるのね」
洋子が温かいカフェラテのカップを両手で包み込みながら、嬉しそうに白い息を吐いた。
視界の左側には穏やかで美しい青色をたたえる洞爺湖、右側には昭和新山、そして遠くにはオロフレ山のシルエットが見える。しかし、振り返って目を向ければ、そこにはかつての強大な噴火によってえぐられた有珠山の火口や、荒々しい岩肌がひび割れて剥き出しになった大地の傷跡が、生々しく残されていた。
美しい湖の静寂と、大地のエネルギーが渦巻く火山の動。二つの相反する顔が、この場所に同居している。
「先ほど、洋子さんの宝箱を掘り出した時も思いましたが……」
美波は、丸眼鏡の奥の琥珀色の瞳で、その荒々しくえぐれた火口の跡を見つめた。
「人間の力など遠く及ばない、途方もない大地の怒りや変動が、かつての洋子さんの思い出の地形を壊してしまったことは事実です。でも、そのとてつもないエネルギーがあったからこそ、この美しい洞爺湖が生まれ、温かい温泉が湧き、人々がこうして集まる安らぎの場所になったのですね。大地の記憶は、恐ろしくもありますが、同時にとても優しく、豊かな歴史なのだと実感します」
古物商として、自然の歩みとモノに宿る記憶を語る美波の言葉。それを聞き、幸一は温かいブラック珈琲の入った紙コップを持ったまま、ゆっくりと目を閉じて深く頷いた。
「モノも自然も、表裏一体ということだ。強い力が加わって傷跡が残るからこそ、新しく生まれて後世に残るものもある。美波の言う通りだな」
幸一のその短くも職人らしい含蓄のある言葉に、美波と洋子は顔を見合わせ、温かく微笑み合った。
秋の澄み切った空の下、雄大な大地の記憶と火山の息吹を肌で感じながら、三人はテラスでの穏やかな時間を心ゆくまで堪能した。
***
テラスでの絶景を楽しんだ後、再びロープウェイで麓へと下りてきた三人は、すぐ隣にある施設、『昭和新山クマ牧場』へと足を向けた。
入り口のゲートをくぐると、独特の獣の匂いと、あちこちから聞こえてくる「グォウ」「ガウッ」という低く野太い鳴き声が、冷涼な秋の空気に混じって漂ってくる。
「お父さん、ここでクマさんの餌のリンゴとクッキーを買っていくわよ」
洋子が売店で餌の入ったオレンジ色の紙袋をいくつか購入すると、三人はヒグマたちが暮らす広大な飼育エリアへと進んでいった。
そこには、北海道の厳しい自然を生き抜く、体格の良いエゾヒグマたちが何十頭も暮らしていた。分厚いガラスや、見下ろす形の柵越しに見るヒグマは、立ち上がると優に二メートルを超え、その丸太のような腕や鋭い爪には、人間の力など容易くねじ伏せてしまうほどの圧倒的な野生の威厳が詰まっていた。
「大きいです。こんなに間近で見ると、すごい迫力ですね」
美波が少し圧倒され、思わず幸一の分厚い背中の後ろに隠れるように後ずさる。しかし、ヒグマたちの行動は、その恐ろしい外見とは裏腹に、どこか愛嬌に溢れていた。
観光客が美味しい餌を持っていることに気づくと、大きなヒグマたちは二本足で器用に立ち上がり、「こっちに投げて」とばかりに、大きな前足を盛んに振ってアピールしてくるのだ。中には、両手を合わせて拝むような姿勢をとる器用な熊や、仰向けに寝転がって、口だけを大きく開けて待っている怠け者の熊までいる。
「可愛いわねえ。ほら、お食べ」
洋子がリンゴを軽く放り投げると、ヒグマは大きな口で器用に受け止め、小気味よい音を立てて美味しそうに咀嚼した。
「おい、あっちの端っこで立ってる奴には届いてねえぞ。貸してみろ」
幸一は洋子からクッキーの入った袋を受け取ると、職人の確かな腕力と空間把握能力を活かし、遠くで立ち上がっているヒグマの口元へ向けて、見事なコントロールで次々とクッキーを投げ込んでいった。
無表情のまま正確無比な軌道でクッキーを投げ続ける幸一と、それを一歩も動かずに次々と当たり前のように受け止め続けるヒグマの間に、謎の阿吽の呼吸が生まれている。そのシュールな光景に、美波と洋子は声を上げて笑い合った。
すっかりクマ牧場を満喫し、餌もすべてあげ終えた三人が、出口のお土産屋が立ち並ぶエリアへと向かって歩いていた、その時だった。
「Oh, no. Where did I drop it.(なんてことだ。どこで落としたんだ)」
出口付近の長椅子の辺りで、頭を抱えてパニックに陥っている外国人男性の姿があった。
年齢は三十代半ばほど。身長は百九十センチ近くありそうな長身で、秋物のスマートな撥水コートを着こなし、首からは本格的な望遠レンズのついた一眼レフカメラを下げていた。
彼の傍らでは、施設のスタッフが流暢な英語で男性を落ち着かせようと懸命に対応している。
「あら、あの方、何か落とし物かしら。すごく慌てているわね」
洋子が心配そうに立ち止まった瞬間。
美波の顔つきが、先ほどまでの熊に怯えていた観光客のものから、一瞬で引き締まった。
迷子になった『モノの気配』を感じ取った美波は、一切の迷いなく、その男性とスタッフのもとへと歩み寄った。彼女の背中からは、プロの古物商、そして『探し物探偵』としての凛とした空気が立ち上っている。
「あの、どうかされたのですか」
美波が静かな、しかしよく通る声で尋ねると、『案内係』と名札に書かれた女性スタッフが、困り果てた顔で振り返った。
「あっ、いえ。こちらのアメリカから観光で来られたジョンさんが、お財布を落とされてしまったようでして。大切な身分証やクレジットカード、現金もすべて入っているので、とても取り乱されていて……」
「なるほど、お財布ですね。スタッフさん、しばらくの間、私と彼の間で通訳をお願いしてもよろしいでしょうか。私が必ず探し出しますので」
「えっ、探すって、あなたがですか。わ、分かりました」
若い女性の堂々とした宣言に彼女が戸惑いながらも頷くと、美波は取り乱している長身のジョンへと真っ直ぐに向き直った。
「ジョンさん。落ち着いてください。モノは理由もなく消えたりしませんから、必ず見つかります。最後にそのお財布を持っていたのは、いつですか」
美波の優しくも自信に満ちた声をスタッフが素早く英語に訳すと、ジョンは幾分か落ち着きを取り戻し、身振り手振りを交えながら訴えた。
「入り口で、クマにあげるクッキーを買った時だよ。その時は間違いなく、この外套の右のポケットに入れたんだ。分厚い本革の長財布さ。それから、クマの写真をたくさん撮って、出口に来て探したら、なくなっていたんだ。もしかして、誰かにスリに遭ったのかな……」
ジョンの不安に満ちた言葉を聞き、美波は小さく頷いてから、静かに、しかし断固として首を横に振った。
「いいえ、ジョンさん。盗まれた可能性は極めて低いです」
美波の迷いのない断言に、ジョンとスタッフが目を丸くする。美波は周囲の環境を指差しながら、順を追って丁寧な推測を語り始めた。
「まず、ここは満員電車のような密室ではなく、非常に広々とした屋外の観光施設です。人と人が肩をぶつけ合うほどの混雑はしていません。さらに、ジョンさんの身長は百九十センチ近くあります。これほど長身の男性の衣服のポケットから、相手に気づかれずに分厚い長財布を抜き取るには、犯人は相当不自然に腕を上に伸ばさなければならず、周囲の目にも明らかに不審に映ります」
スタッフの的確な通訳を聞き、ジョンは「確かに」と納得したように頷いた。
「つまり、誰かに盗まれたのではなく、お財布の重みと布の滑りやすさのせいで『自然に滑り落ちた』と考えるのが妥当です。入り口から出口まで、広大な飼育エリアをぐるりと一周してきた。そのどこかで落としたとなれば、探す範囲は途方もなく広く思えますが……。落とし物には、必ず持ち主のささやかな痕跡が残ります」
美波はポシェットから、愛用の銀色のルーペを取り出した。
彼女がまず注目したのは、ジョンの行動の曖昧な記憶ではなく、彼自身の身につけている『モノ』と『無意識の癖』であった。
美波の探るような眼差しは、彼が着ている秋物のコートに向けられた。
「スタッフさん。ジョンさんに、お財布が落ちた時、なぜ音や感触に気づかなかったのか。その理由をわかりやすく説明します」
スタッフが訳すと、ジョンは身を乗り出して聞き入る。
「まず、ジョンさんが着ているコートの素材です。これは水を弾く加工が施された綿生地ですね。表面の摩擦が少なく非常によく滑る生地のため、重たい革の長財布を入れると、少しの角度の変化で簡単に滑り落ちてしまいます。さらに、ポケットの裏地も滑らかな素材のようです。これでは、落ちる瞬間の布の引っ掛かりを体に伝えることができません」
美波はさらに、ジョンの首から下がっている重たそうな一眼レフカメラを指差した。
「そして最大の理由は、そのカメラです。本格的な望遠レンズがついた重いカメラを構える時、両手は完全にカメラの保持と操作に塞がれます。さらに、レンズ越しに動くヒグマを追いかけることに夢中になっていると、人間はどうしても手元や足元の感覚がおろそかになってしまうものです。周りの音も聞こえなくなるくらい、クマの姿に心を奪われていたのですね。だから、重いお財布が落ちても気づけなかったのです」
美波の腑に落ちる論理的な説明に、ジョンは「Oh...」と納得の溜息を漏らし、後ろで見ていた幸一も腕を組んで「なるほどな」と感心したように頷く。
「では、その落ちた瞬間は、いつ、どこで発生したのか。それを教えてくれるのが、ジョンさんの足元です」
ルーペを持った美波は、ジョンの足元、彼が履いている上質な革靴の底の擦り減り方に視線を向けた。
「ジョンさんの革靴は、右足の踵の外側が、左足に比べて異常に深く削れています。これは、歩く時の単なる癖というよりも、彼が何か特定の動作をする時に、『右足に強い体重をかけて踏ん張る癖』がある証拠です」
美波は顔を上げ、ジョンを見つめた。
「ジョンさん。試しにここで、先ほどのようにクマの写真を撮るつもりで、カメラを構える姿勢をとっていただけますか」
スタッフの滑らかな通訳を聞いたジョンは、言われるがまま、首から下げたカメラを両手で持ち、ファインダーを覗き込む姿勢をとった。
その瞬間、美波の琥珀色の瞳に確信の光が宿った。
百九十センチ近い長身のジョンは、重たいカメラを安定させてブレを防ぐため、そして柵の向こうの下にいるヒグマを撮影するために、無意識のうちに右足を大きく後ろに引き、踵を強く地面に踏み込んで重心を低く落とすという、特徴的な『前のめりの姿勢』をとっていたのである。
「なるほど。モノの動きと、ジョンさんの癖が繋がりました」
美波は満足そうに頷き、ジョンのコートの右ポケットを指差した。
「皆さん、彼の右のポケットを見てください。ジョンさんがその低い姿勢をとる時、右に引いた足に合わせて、コートの右半分が強く張り詰め、右ポケットの入り口が大きく開いて完全に下を向く形になります。つまり、ジョンさんがお財布を落としたのは、ただ歩いている時ではありません。クマの写真を撮るために、右足を大きく後ろに引き、前のめりになって踏ん張った瞬間です」
スタッフが的確に伝えると、ジョンは自分のコートの開き具合を見て、「ワオ」と驚きの声を上げた。確かにその姿勢をとると、ポケットの中身が滑り落ちる滑り台のような状態になっていた。
「さらに、もう一つ。分厚い革財布が舗装された通路に落ちれば、いくら集中していても、さすがに鈍い落下音が聞こえたはずです。音がしなかったということは、落ちた場所は硬い通路の上ではなく、柵のすぐ下にある柔らかい土や落ち葉の上である可能性が高いということです」
美波はルーペをしまい、真っ直ぐにジョンを見つめた。
「ジョンさん。あなたが一番夢中になって、前のめりでクマの写真を撮った場所は、この牧場内のどこですか」
スタッフの通訳を聞き、ジョンは不意に思い出したように顔を上げ、興奮した様子で答えた。
「奥の方にある第二牧場だ。あそこで、二頭の大きなヒグマがじゃれ合いをしていて、柵のギリギリまで身を乗り出して、何度も低い姿勢で写真を撮ったよ」
「そこです。行きましょう」
美波は力強く頷き、通訳のスタッフとジョン、そして頼もしい三枝夫婦と共に、広大なクマ牧場の順路を足早に戻り始めた。
異国の旅人が残した、無意識の足跡と擦れ跡。コートの素材、重みの移動、そして人間の思い込みによる死角。
身につけているモノの性質と、人間の無意識の行動。それらすべてを丁寧かつ論理的に結びつけ、時洲美波の鮮やかな追跡が、今まさに隠された真実へと迫ろうとしていた。




