第一話『故郷』(中)1
黄金色に輝く夕暮れの波をたっぷりと堪能し、すっかり日の落ちた洞爺湖畔。
ホテルの広々とした和洋室で少しだけ旅の荷解きをして一息ついた後、三人は夕食の会場である大型のレストランへと足を運んだ。
入り口のアーチを抜けると、そこには美波が思わず感嘆の声を上げてしまうほどの、目を見張るような料理の数々が広がっていた。
活気あるシェフたちの調理の音と、食欲をそそる芳醇な匂いが立ち込める中、特に美波の目を引いたのは、砕かれた氷の上にずらりと並べられた、色鮮やかな海鮮の数々だった。
美しいルビー色に輝くまぐろ、脂の乗ったサーモン、透き通るようなイカ、こぼれんばかりに煌めくいくらに、鯛、ブリ、甘海老、そして鮮やかなオレンジ色のとびっこ。客が好みの海鮮を温かいご飯の上に乗せ、独自の海鮮丼を作れるようになっていた。
「すごいですね。まるで海の宝石箱みたいです」
美波が丸眼鏡の奥の瞳を輝かせながら海鮮コーナーの前に立っていると、横から大きなお皿が不意に差し出された。
「美波。これも食え」
「えっ。幸一さん」
見ると、幸一が無言で差し出してきた平皿の上には、肉厚で艶やかなホタテが、これでもかというほど山盛りに積まれていた。
「ここのホタテは噴火湾の養殖でな。甘みが強くて身が分厚いんだ。ほら、海鮮丼に乗せろ。もっと食って体力をつけろ」
幸一は美波の戸惑いなど全く意に介さず、自分のおつまみよりも先に、ひたすら美波の皿を山盛りにすることに専念していた。
その物言いこそぶっきらぼうで無骨だが、そこには足場の悪い場所も一緒に歩いた美波を気遣い、土地の美味しいものをたくさん食べさせようとする、不器用すぎるほどの親心が表れていた。
「もう、お父さんったら。美波ちゃんが困っているじゃないの。ホタテばっかりそんなに乗せたら、他の美味しいものが食べられなくなってしまうわよ」
呆れ顔で笑いながらやってきた洋子の手にも、いくつかのお皿がバランスよく乗っていた。
「美波ちゃん、ここのホテルはね、自家製の燻製が名物なのよ。ほら、見て」
「燻製ですか。とってもいい香りがしますね」
洋子がテーブルに並べてくれたのは、艶やかな飴色に仕上がったブリや鮭、鶏肉の燻製だった。さらに驚いたことに、その横にはスモークされたお豆腐や焼売といった、美波が見たこともないような珍しい品まで並んでいる。
「お豆腐や焼売まで燻製にするのですね。どんなお味がするのでしょう」
「ふふ、食べてみてのお楽しみよ。さあ、冷めないうちにいただきましょう」
三人は広々としたテーブルにつき、「いただきます」と手を合わせた。
美波はまず、幸一が山盛りに盛ってくれた噴火湾のホタテを口に運んだ。
その瞬間、とろけるような柔らかさと、口いっぱいに広がる濃厚な甘みに、美波の目がこれ以上ないほど丸く見開かれた。
「んんっ……美味しいです。全く生臭さがなくて、噛むたびにホタテの甘いお出汁が口の中に溢れてきます」
幸せそうに頬を緩める美波の姿を見て、「だろ。東京のスーパーで売っているやつとは弾力が違うんだ」と、幸一は得意げに鼻を鳴らした。
続いて美波は、洋子お勧めの豆腐の燻製に箸を伸ばした。口に入れた途端、鼻へと抜ける豊かなスモークの香りの奥から、大豆の濃厚な旨味がチーズのように滑らかに広がっていく。
「すごいです、洋子さん。お豆腐なのに、まるで熟成された高級なチーズみたいです。焼売も、お肉の旨味がしっかりと閉じ込められていて。燻製という調理法は、食材の隠れた歴史と魅力を引き出す素晴らしい魔法ですね」
「美波ちゃんは本当に美味しそうに食べてくれるから、お父さんも私も、つい色々食べさせたくなってしまうのよね」
新鮮な海の幸の濃厚な旨味と、手間暇かけられた燻製の深い香り。どれを食べても、北海道の自然の豊かさが口いっぱいに広がる。美味しい食事と、自分を大切に想ってくれる三枝夫婦の愛情。美波にとって、これ以上ないほど贅沢で、お腹も心も満たされる幸せな夕食の時間だった。
***
お腹がいっぱいになり、時計の針が夜の八時二十分を回った頃。
三人は厚手の上着を羽織り、ホテルのすぐ裏手にある遊覧船乗り場へと足を運んだ。
そこには、煌々と黄金色の明かりを灯した船が停泊している。中世の古城を意匠に取り入れて造られた遊覧船だ。まるでおとぎ話の世界から抜け出してきたような、城壁や塔の装飾が施されたその船体は、漆黒の湖面に美しく、そして幻想的に浮かび上がっていた。
「お城が湖に浮かんでいるみたいです。とっても大きくて素敵ですね」
美波が目を輝かせて見上げていると、出航を知らせる重厚な汽笛が夜空に鳴り響く。
三人は階段を上り、船の屋上にある展望甲板へと向かった。
遊覧船が静かに岸を離れ、沖合へと進み始めると、遮るもののない湖上の風が容赦なく吹き付けてくる。美波が思わず小さく声を上げ、秋用のコートの襟を固く立ててかき合わせた、その時だった。
「ほら」
背後から現れた幸一が無言で、船内の自動販売機で買ってきたばかりの缶の紅茶を、美波の冷えた頬に軽く押し当てた。
「わっ。ありがとうございます、幸一さん。とっても温かいです」
「十月の北海道の夜風を舐めるな。風邪引くぞ」
幸一はぶっきらぼうにそう言うと、隣で「お父さん、私には」と悪戯っぽく笑う洋子にも、缶珈琲を無造作に押し付けた。
美波が缶の温もりを両手で大切に包み込み、体の奥まで広がる熱にほっと息を吐いた瞬間。
腹の底から内臓を揺さぶるような重い音が、夜の湖畔に響き渡った。
「始まるわよ、美波ちゃん」
洋子が夜空を指差した。次の瞬間、真っ暗な視界の先、湖の真ん中から打ち上げられた光の花が、鮮やかに咲き誇る。
四月の終わりから十月の終わりまで、半年間にわたって毎晩開催されている洞爺湖名物、ロングラン花火大会である。
赤、青、緑、黄金色。色鮮やかな大輪の花火が次々と打ち上げられ、漆黒の空に光の絵を描き出していく。周囲を山に囲まれたすり鉢状の地形のせいだろう。花火の爆音が周囲の山々に反響し、普通の場所で聞くよりもはるかに重く、立体的な音となって全身を震わせた。
「綺麗……」
美波は甲板の手すりから身を乗り出し、夜空を焦がす光の芸術にすっかり魅了されていた。
さらに息を呑むほど美しいのは、空に咲く花火だけでなく、その光が鏡のような洞爺湖の真っ暗な水面に反射し、湖面にもう一つの逆さ花火を映し出していることだった。
上空の光と、水面の光。上下から迫り来る光の波は、まるで万華鏡のトンネルの中を船で進んでいるような、圧倒的な没入感をもたらしてくれる。
連続して打ち上がる花火の眩い光が、甲板に並んで立つ三人の顔を色とりどりに照らし出す。
「お父さん、連れてきてくれてありがとう。本当に綺麗ね」
花火の音に負けないように洋子が大きな声で言うと、幸一は腕を組んだまま、「おう」とだけ短く応え、夜空を見上げている。その少し離れた場所から、美波は缶の紅茶を両手で握りしめながら、二人の横顔を優しく見つめていた。
一瞬で夜空に咲き、そして消えていく花火の光。
形には残らない儚いものだけれど、大切な家族と一緒にこの光を見たという事実は、彼らの心の中に、決して色褪せることのない心温まる記憶として刻まれていくのだろう。
秋の冷たい夜風の中にありながら、美波の心はどこまでも芯から温かかった。
***
遊覧船から戻り、時計の針が深夜の零時を回った頃。
美波は一人、浴衣姿で部屋をそっと抜け出し、ホテルの大浴場へと向かっていた。
幸一と洋子は、長旅の疲れもあってか、すでに柔らかな寝具に入り、穏やかな寝息を立てている。彼らの安眠を邪魔しないよう、美波は一人で静かに夜の温泉を楽しむことにしたのだ。
深夜の大浴場は、他の宿泊客の姿もなく、美波の完全な貸し切り状態であった。
広々とした内湯に足を踏み入れると、立ち込める白い湯気の中に、ほのかな温泉の香りが漂っている。丁寧に掛け湯をして、美波はゆっくりと肩までお湯に身を沈めた。
「はあ」
思わず、心底からの深い溜息が漏れた。
肌にまとわりつくような、少しとろみのある柔らかいお湯。冷えていた足先から、ふくらはぎ、太もも、そしてお腹の奥底へと、温泉の豊かな熱が深く浸透していく。
お湯の跳ねる微かな音だけが響く静寂の中、美波は目を閉じ、今日一日の出来事をゆっくりと反芻していた。
新幹線の中で恐怖に震えていた自分に、さりげなく海が見えるように席を譲ってくれた幸一。
夕暮れの湖畔で、自分の名前を美しい波と呼び、本当の娘みたいに愛おしいと抱きしめてくれた洋子。
いわくつきの木彫りの熊に隠された悲しい過去を紐解いた時も、二人はまるで自分のことのように誇らしげにしてくれた。
血の繋がりはない。けれど、彼らが美波に向けてくれる愛情は、どこまでも深く、見返りを求めない純粋なものだった。
お湯の温もりと、家族の温もり。それが今の美波を、優しく、確かに包み込んでくれている。
美波は濡れた髪をまとめながら細く息を吐き、明日から始まる旅の後半に思いを馳せた。明日は、洋子の幼い頃の思い出を辿る一日になるはずだ。どんな宝物に出会えるのか、確かな期待に胸を膨らませながら、美波はゆっくりと夜の温泉を堪能した。
***
翌朝。
朝の六時過ぎ、美波と洋子は連れ立って、露天風呂へと向かっていた。
この露天風呂は男女入れ替え制となっており、今日の朝はちょうど女性専用の時間帯にあたる。洋子が「絶対に早起きして行くわよ」と力説していた、洞爺湖の絶景を望む特別なお風呂だ。
脱衣所を抜け、露天風呂へのガラス戸を開けた瞬間。
美波は朝の寒さも忘れて感嘆の声を上げた。
そこには、まさに息を呑むような絶景が広がっていた。
浴槽の縁が見えないよう造られた露天風呂。なみなみと張られた温泉の湯が、そのまま目の前に広がる洞爺湖の青い湖面へと溶け込み、永遠に繋がっているように見えるのだ。
そして何より美しかったのは、秋の早朝特有の朝靄だった。
冷え込んだ空気によって、湖面からうっすらと白い靄が立ち上り、湖全体をすりガラスのように幻想的に包み込んでいる。その靄の向こう側に、朝の淡い光を浴びた中島が、まるで天空の城のようにぽっかりと浮かび上がっていた。
「すごい。本当に、お湯と湖が一つになっているみたいです。自分が湖の一部になってしまったような気がしますね」
「でしょう。ほら、早く入らないと風邪ひいてしまうわよ」
洋子に促され、美波は掛け湯をしてから、露天風呂のお湯にゆっくりと身を沈めた。
顔にはピリッとした冷たい秋の朝の風を受け、首から下は体の芯まで温まる熱い温泉に包まれる。極上の心地よさに、二人は揃って「あぁ……」と幸せな声を漏らした。
朝靄のかかる幻想的な湖を眺めながら、美波と洋子の間に、二人きりの静謐な時間が流れ始めた。
「こんなに綺麗な景色のある故郷で育ったなんて、本当に素敵ですね、洋子さん」
美波が静かに呟くと、洋子は湖面を見つめたまま、懐かしそうに目を細めた。
「そうね。でも、昔の私は、今の私みたいにこんなにおしゃべりじゃなかったのよ。どちらかと言うと、すごく内気で、いつも一人で湖畔を散歩しては、波の音を聞いているような大人しい子供だったの」
「えっ。洋子さんが、内気だったのですか」
いつも明るく、活発に下町の寄り合いを仕切り、頑固な幸一を手のひらで見事に転がしている洋子の姿からは、想像もつかない過去だった。美波が驚いて丸眼鏡を瞬かせると、洋子はふふっと笑った。
「想像もつかないでしょ。私が東京に出たのは、高校を卒業してすぐのことだったわ。料理の勉強をしたくて上京したのだけれど、都会の人の多さと、言葉の違いにすっかり圧倒されてしまってね。毎日、自分の殻に閉じこもって、寂しくて、この洞爺湖の景色を思い出してはアパートで泣いていたのよ」
「そんな時期があったのですね」
「ええ。でもね、そんな時に出会ったのが、お父さんだったの」
洋子の口調が、少しだけ照れくさそうに、けれどとても愛おしそうな響きに変わった。
「当時のお父さんは、まだ工房で修行中の若い職人だったわ。口は悪いし、態度は無愛想だし、最初はなんて怖い人だろうって思ったのよ。でもね、私が都会の空気に馴染めなくて、重い風邪を引いて寝込んでいた時。あの人、どこから聞いてきたのか、無言で私のアパートのドアノブに、不格好な手作りのリンゴのすりおろしと、風邪薬の袋をぶら下げていってくれたのよ。中には『食って寝ろ』って、乱暴な走り書きのメモだけが入っていて」
その飾り気のない優しさが目に浮かぶようで、美波は思わず微笑んでしまった。
「幸一さんらしいですね。言葉は足りなくても、行動には優しさがいっぱい詰まっています」
「そうなの。あの人は昔からああいう性格で、でも誰よりも優しかった。私が寂しい顔をしていると、何も言わずに下町の美味しいお店に連れ出してくれたり、休みの日に浅草を案内してくれたりしたわ。あの人のその人間性に触れているうちに、私の寂しさや不安は、いつの間にか全部どこかへ消えてしまったのよ」
洋子は、朝靄の向こうから少しずつ顔を出し始めた太陽の光を浴びながら、穏やかに微笑んだ。
「だからね、今の私がこんなに明るく元気でいられるのは、全部お父さんのおかげなの。私にとってお父さんは、この洞爺湖の自然と同じくらい、私を温かく包んでくれる大切な心の拠り所なのよ」
洋子の語る、若き日の二人の思い出と、深い絆の歩み。
それを聞いた美波の胸の奥に、温泉の熱とはまた違う感動が広がっていった。
長い年月を共に歩み、お互いの弱さを補い合い、支え合ってきた夫婦の絆。その確かな歴史と愛情の深さが、今の居心地のよい三枝家を作っているのだ。
「素敵なお話を、ありがとうございます。幸一さんも洋子さんも、本当にお互いのことを深く愛していらっしゃるのですね」
「やだ、美波ちゃんの前でのろけすぎちゃったわね。お父さんには内緒にしておいてね、あの人、絶対に真っ赤になって怒るから」
洋子がイタズラっぽく口元に指を当てると、美波も「はい、秘密にしておきます」と笑い合った。
朝靄が少しずつ晴れ、洞爺湖の青い湖面が朝日の光を反射して輝き始める。
冷たい朝の風と、体を芯から温めてくれるお湯。そして、隣で微笑んでくれる洋子の存在。美波は、温泉の心地よさと家族のぬくもりに包まれながら、これから始まる今日という一日に、密やかな期待を寄せていた。
朝食を食べ終えたら、いよいよ洋子が生まれ育ったこの美しい町を巡る観光に出発する予定だ。
洋子の内気だった少女時代の大切な記憶が眠るこの地で、今日は一体どんな新しい発見があるのだろうか。
人の想いやモノの歴史を辿る古物商としての美波の知的好奇心も、朝の澄んだ光と共に静かに、けれど確かに目を覚まし始めていた。
***
露天風呂で体をたっぷりと温め、洋子の若き日の思い出話に花を咲かせた美波は、すっかり温まった体で朝食の会場へと向かった。
すでに窓際の席を取っていた幸一と合流し、北海道の新鮮な野菜や、焼き立てのパン、スープなどをテーブルに並べる。二泊三日の旅行の二日目。出発の時間を気にする必要もなく、時間はたっぷりとある優雅な朝だった。
「お前ら、風呂で長湯しすぎだ。のぼせて倒れるぞ」
珈琲を啜りながらぶっきらぼうに言う幸一に対し、洋子は「女同士には色々お話しすることがあるのよ」と笑って、色鮮やかなサラダを口に運んだ。
そして、ふと窓の外に広がる、朝の光に照らされた洞爺湖の青い湖面を見つめながら、洋子が少し真面目な声色で口を開いた。
「ねえ、お父さん、美波ちゃん。今日の観光なのだけど、有珠山の見学に行く前に、一つだけ、私の我が儘に付き合ってもらえないかしら」
「我が儘、か。別にいいが、どこに行きたいんだ」
「あのね。私、子供の頃に、この湖畔のどこかに宝箱を埋めたことがあるのよ。それを、探しに行きたいの」
「宝箱、ですか」
美波がパンを持った手を止め、ちょこんと小首を傾げると、洋子は少し照れくさそうに頷いた。
「ええ。中身はね、古いお菓子のブリキ缶。その中に、湖畔に打ち上げられた変わった形の流木とか、波に洗われて丸くなった色とりどりのガラスの欠片……シーグラスと言うのだけれど。それをたくさん集めて、自分だけの宝物にして土の奥深くに隠したのよ」
「お前にも、そんな空想めいた時期があったんだな」
幸一がからかうように言うが、その横顔には、自分の知らない妻の純粋な少女時代の思い出に触れられた嬉しさが滲んでいた。
「もう、お父さんったら。朝の露天風呂でも美波ちゃんに話したけれど、私だって昔は、一人で湖の波の音を聞きながら、光るガラスを集めるような、おとなしくて夢想がちな女の子だったのよ。でも、もう何十年も前のことだし、どこに埋めたかもぼんやりとしか覚えていないから、今更見つかるわけないとは思うのだけれど。せっかく何十年ぶりに故郷に帰ってきたのだから、どうしてももう一度、あの場所に行ってみたくて」
洋子が過去の記憶を懐かしむように、諦め半分のような笑みを浮かべた、その時だった。
美波の琥珀色の瞳の奥に、迷子になったモノを探し出す、探し物探偵としての静かで確かな決意の光が宿った。
「洋子さん。見つけましょう」
「えっ」
「モノは、たとえ何十年という途方もない歳月を、冷たい土の底で眠っていても、理由もなく消えてなくなることはありません。誰かに見つけてもらうのを、ずっと、同じ場所で待っているんです。私が必ず見つけ出しますから、洋子さんの大切な記憶が詰まった宝物を、今日一緒に探しに行きましょう」
美波の真っ直ぐで力強い言葉に、洋子は一瞬驚いたように目を見開き、やがて嬉しそうに顔を輝かせた。
「ありがとう、美波ちゃん。なんだか、本当に見つかるような気がしてきたわ」
朝食を終えた三人は、ホテルに大きな荷物を置いたまま身軽な格好になり、早速宝箱探しへと出発した。
「それで洋子さん、その宝箱を埋めたのは、この温泉街の近くの湖畔なのですか」
「ううん。この南側の温泉街の辺りは昔から大きな旅館やお土産屋さんが多くて人がたくさんいたから、私がよく一人で遊んでいたのは、もっと自然がそのまま残っている人の気配がない場所だったわ。確か、湖の北西に位置する財田地区の、とうや水の駅の裏手に広がる静かな浜辺だったはずよ」
洞爺湖は周囲が約四十三キロメートルもある広大な湖だ。歩いて行ける距離ではないため、三人は停留所から路線バスに乗り込み、湖畔をぐるりと半周するようにして北西の財田地区へと向かった。
華やいだ観光地の喧騒は徐々に消え去り、そこには手つかずの豊かな自然と、静寂だけが広がっている。
バスを降りて、水の駅の裏手から、色づいた木々の間を抜けて穏やかな湖畔へと出ると、細かい砂利と砂が混ざり合った自然のままの浜辺が広がっていた。護岸された温泉街の岸辺とは違い、ここでは透明度の高い湖水が、柔らかな音を立てて波打ち際を洗っている。
聞こえてくるのは、冷たい秋の風が木々の葉を揺らす微かな音と、穏やかな波の音、そして遠くで鳴く野鳥の声だけだ。
しかし、美しい自然の佇まいとは対照的に、浜辺に降り立った洋子の表情だけがひどく困惑に満ちていた。
「おかしいわね。なんだか、昔と全然景色が違う気がするわ」
洋子は少し厚手の衣服の裾を風に揺らしながら、周囲を見回した。その足取りはどこか落ち着きがなく、まるで迷子になってしまった子供のようだった。
「景色が違う、ですか。何十年も経っていますから、木が大きくなったり、近くに新しい施設ができたからではないのですか」
美波が尋ねると、洋子は困ったように眉尻を下げて、ゆっくりと首を横に振った。
「ううん、そういうことじゃなくて。私が宝箱を埋めた時の目印は、根本が二股に分かれた大きなヤナギの木だったの。その特徴的な木を背中にして、波打ち際に向かってまっすぐ、ちょうど三十歩くらい歩いたところの土の中に、ブリキの缶を埋めたはずなのだけれど」
洋子の視線の先、浜辺から少し陸側に入った草地には、確かに何本かの大きな木々が生い茂っている。しかし、美波が順番に確認していっても、どれも根本が二股に分かれているような形をしたヤナギの木は見当たらなかった。
だが、美波が最も不自然に感じたのは、木がないことではなかった。木々が生えている土の草地の境界から、水が打ち寄せる波打ち際までの距離であった。
「三十歩、ですか。洋子さんの歩幅であれば、およそ十五メートルから二十メートルといったところでしょうか。ですが」
美波は丸眼鏡のブリッジを指先でそっと押し上げ、足元の草地から湖の波打ち際へと、静かに視線を向けた。
現在の地形は、木々が生えている境界から、水が打ち寄せる波打ち際までの距離が、どう見積もっても五、六メートルほどしかないのだ。もし木々のある場所から三十歩も湖に向かって歩き出せば、途中で完全に冷たい湖の底へと沈んでしまう距離感だった。
「もしかして、昔より水かさが増して、浜辺自体が狭くなったのかしら。それとも、やはり私の記憶違いだったのかな。子供の頃の三十歩なんて、大した距離じゃなかったのかもしれないし」
洋子が肩を落とし、悲しそうに力なくつぶやいた。
自分の大切な心の拠り所である思い出の場所が、記憶の中からすっぽりと抜け落ちてしまったような喪失感。その小さな背中を見て、幸一が黙って洋子の隣に歩み寄り、無骨な大きな手を、妻の肩に乗せた。
言葉は発しない。しかし、その分厚い手のひらからは、「気にするな」という優しい体温が、確かに伝わっているはずだった。幸一は、洋子の肩に手を置いたまま、湖畔の地形を険しい顔で見渡した。
「何十年も前だ。波で少しずつ土砂が削り取られて浜が狭くなったか、目印の木が寿命で枯れて無くなってしまったのだろう。これじゃあ、どこからどの方向に掘ればいいか、全く見当がつかないな」
幸一の言う通り、自然の風景というものは、人間が思っている以上に容易くその姿を変えてしまうものだ。風が吹き、雨が降り、波が打ち寄せる。その悠久の時の流れの中で、数十年という歳月は、一つの木を腐らせ、十メートルの砂浜を削り取るには十分すぎる時間である。普通に考えれば、洋子の記憶にある三十歩という距離感のズレは、そうした経年変化によるものだと結論づけるのが自然だった。
しかし、美波の考えは違った。
木が枯れて土に還ることはある。波の働きで浜辺の砂が少しずつ削られることもあるだろう。しかし、美波は肩から下げた小さなポシェットから愛用の銀色のルーペを取り出すと、足元の地面の起伏スレスレまで顔を近づけ、大地の記憶を辿る視点へと意識を切り替えた。
先ほどまでの温和で愛らしい態度は影を潜め、プロの探偵としての鋭い空気が全身から立ち上る。
美波のその目がルーペ越しに捉えたのは、波風による緩やかな自然の経年変化などでは決して説明のつかない、もっと大きくて、生々しい大地の傷跡だった。
足元の土は不自然に隆起し、波打ち際へと続く傾斜は、かつて水平だった地面が無理やりへし折られたような歪な角度を持っている。浜辺の石ころの並び方一つとっても、自然に堆積したものではなく、強い圧力を受けて押し上げられ、転がったような不自然な重なり方をしていた。
美波は立ち上がり、そのまま視線を少し離れた場所を通る遊歩道へと向けた。綺麗に舗装されているように見えるその道も、ルーペ越しに丁寧に観察すれば、全体が波打つようにわずかに歪み、過去に大規模な修復工事が行われたひび割れの痕跡が残されていた。
(これは、ただの波の働きや経年劣化による地形の変化じゃない。地面そのものが、途方もないエネルギーによって根底から持ち上げられ、書き換えられてしまった痕跡だ)
美波の脳裏に、古物商として北海道の歴史や地質、そして過去の災害記録を調べた際に目にした、ある一つの鮮烈な記録が蘇った。
西暦二〇〇〇年。洞爺湖のすぐ南にそびえる活火山、有珠山の大規模な噴火。
当時の報道でも大々的に報じられたその噴火は、単に火山灰を降らせただけのものではなかった。マグマが地下の浅い部分に貫入したことにより、凄まじい地殻変動を引き起こしたのだ。その自然の猛威は、噴火口周辺だけでなく、この洞爺湖畔の地形をも広範囲にわたって歪ませたのである。
場所によっては地面が隆起し、あるいは陥没し、道路は寸断され、水際の位置すらも完全に変えてしまったという。
つまり、洋子が少女時代に遊んでいた当時の地表は、二十年以上前のその地殻変動によって、すっかり姿を変えてしまっていたのである。
「洋子さん、大丈夫です。その記憶は、決して間違っていません」
美波はルーペを握りしめ、歪んだ地面からゆっくりと顔を上げた。
その凛とした声に、肩を落としていた洋子と、寄り添っていた幸一が同時に美波の方を振り向く。
「間違っていないって。でも、木もないし、距離も全然違うのよ」
「はい。木がなくなってしまったのも、波打ち際までの距離が縮まってしまったのも、洋子さんの勘違いではありません。ただ、景色が変わってしまった理由が、単なる木の寿命や波の働きではないのです」
美波は丸眼鏡の奥の瞳を真剣な色に染め、足元の不自然に傾斜した地面を指差した。
「洋子さん、幸一さん。二〇〇〇年に起きた、有珠山の大規模な噴火の記録を覚えていますか」
「有珠山の噴火……ああ、覚えているわ。テレビで連日、すごい煙が上がっているのを見て、生まれ故郷がどうなってしまうのかって、東京で毎日お父さんと心配していたもの」
「俺も覚えている。あの時は、避難指示が出て、洞爺湖の温泉街も長期間人がいなくなってしまったと聞いたぞ」
幸一の言葉に、美波は深く頷いた。
「ええ。あの噴火がもたらしたのは、火山灰だけではありませんでした。地下のマグマの移動によって、この洞爺湖周辺一帯に、凄まじい大地の変動が引き起こされたのです。大きな力が加わって地面が波打つように歪み、この浜辺周辺は湖側へと斜めに傾き込みながら、一部が大きく沈降してしまったのですよ」
「地面が傾いて、沈み込んだ……」
「はい。その結果、何が起きたか。地盤が斜めにへし折られるように傾いたことで、かつて平坦だった浜辺の多くが水没し、結果として湖の水際の位置が、当時の洋子さんの記憶よりもずっと内陸側へと食い込むように移動してしまったのです。さらに、その急激な地盤の変動に耐えきれず、目印だった二股のヤナギの木も、根っこから折れるか、枯れて倒れてしまったのでしょう」
美波の事実を優しく、かつ論理的に紐解く説明を聞き、洋子は驚きに目を見開いた。
「それじゃあ、私が歩いた三十歩という距離も、木がなくなってしまったのも……」
「はい。すべて、大地の巨大なうねりが地形を塗り替えてしまったからです。洋子さんの記憶は、少女時代のあの日のまま、何一つ間違っていません」
美波の言葉に、洋子はホッとしたように胸をなでおろした。自分の大切な記憶が嘘ではなかったという事実は、彼女の心を少しだけ救ったように見えた。しかし、すぐにまた、非情な現実が洋子に突きつけられる。
「でも、それじゃあ、やっぱりもう見つからないわね」
洋子は悲しそうに、足元の歪んだ土を見つめた。
「じゃあ、私が宝箱を埋めた場所は、もう湖の底に沈んでしまったのね。目印の木もないし、当時の地表は冷たい水の中……。これじゃあ、探しようがないじゃない」
洋子の言う通りだった。
何十メートルもの範囲の湖底を、闇雲に潜って探すわけにもいかないのだ。
洋子の瞳が薄っすらと潤み始める。自分の大切な少女時代の記憶が、強大な大地の力によって永遠に失われてしまったという喪失感が、彼女を深く打ちのめしていた。
幸一は無言のまま、上着のポケットからハンカチを取り出し、洋子の手にそっと握らせる。そして波打ち際へと視線を向け、悔しそうに短く舌打ちをした。




