第一話『故郷』(前)2
記念館で大地の記憶と歴史の重みに触れた三人は、停留所を出て、ひんやりとした秋の風が吹き抜ける温泉街の通りをゆっくりと歩き出した。
温泉街の通りには、歴史ある大きな旅館や土産物屋が立ち並び、浴衣姿に羽織を重ねた観光客たちがのんびりと散策を楽しんでいる。十月半ばの洞爺湖畔は、東京の冬の入り口のような冷え込みだったが、あちこちの湯宿から立ち上る白い温泉の湯気が、街全体をふんわりと温かく包み込んでいるように感じられた。
「さあ、まずはここよ。洞爺湖に来たら、絶対にこれを食べなくちゃ始まらないわ」
停留所から歩いて五分ほど。洋子が嬉しそうに指差した先には、風格ある和風の店構えをした老舗の和菓子店があった。
お店の入り口のすぐ横には、絶え間なく透明なお湯が湧き出ている石造りの手湯が設置されている。冷たい秋の風に吹かれた観光客が、自由に手を温められるようにという、温泉街ならではの粋な計らいだった。
「わあ、手湯なんてあるのですね。とっても温かいです」
美波が両手をそのお湯に浸すと、冷えていた指先からじんわりと温泉の柔らかな熱が伝わり、心地よい溜息が漏れた。
隣を見ると、幸一も鼻を鳴らしながら、工具を握り続けてきた大きく無骨な手を、無言でお湯に浸している。冷え切った手を温め合うその無言の時間が、美波にはたまらなく愛おしかった。
しっかりと手を温めてから明るい店内に入ると、きつね色にこんがりと焼き上げられた、さつまいものような形をした小さなお菓子が、飾り棚の中に山のように並べられていた。店内には、お醤油が少し焦げたような、甘く香ばしい匂いが漂い、食欲をそそる。
「わかさいも、ですか。可愛らしい名前ですね。さつまいもを使ったお菓子なのでしょうか」
美波が不思議そうに商品を見つめていると、洋子が得意げに笑い、解説を始めた。
「それがね、これ、さつまいもを一切使っていないのよ」
「えっ。お芋を使わずに、いも、なのですか」
「そう。中身は北海道で採れる大福豆というお豆で作った白餡なの。それに、さつまいものホクホクとした繊維に見立てて、細かく刻んだ昆布が練り込まれているのよ。表面の焦げ目は、卵醤油を塗って焼いているから、あんなに香ばしい匂いがするの。昔、さつまいもが全く獲れなかった北海道で、なんとかして美味しい焼き芋を作ろうとした職人さんの工夫の結晶なのだって」
その説明を聞いた瞬間、美波の古物商としての、モノの歴史と知恵を深く愛する知的好奇心に火がついた。普段ののんびりとした美波の顔つきが、知的な輝きを放ち始める。
「さつまいもを使わずに、焼き芋の姿を再現する。昆布で繊維を表現し、お醤油で焦げた皮の香ばしさを出すなんて、なんて素晴らしい見立ての技術と、職人さんの工夫なのでしょうか。ただの美味しいお菓子というだけでなく、これは過酷な土地の気候に負けまいとする人々の、歴史と知恵と情熱が詰まった素晴らしい作品ですね」
古いモノが作られた歴史的背景や、そこに込められた職人の熱意を紐解くことを愛する美波にとって、こういう背景を持つ逸話は大変好ましいものであった。目を輝かせてお菓子の背景に感心する美波の姿に、幸一は呆れたように小さく鼻を鳴らした。
「お前は本当に、そういう職人の話が好きだな。理屈はいいから、ほら、食べてみろ」
幸一はいつの間にか支払い場に向かい、店頭で実演販売されていた揚げたてのいもてん、わかさいもに薄い衣をつけてサクッと揚げたものを三つ買ってきて、無言で美波と洋子に手渡した。
「幸一さん、ありがとうございます」
紙の包みから顔を出した揚げたてのお菓子は、サクッとした薄い衣の中に、優しい甘さの白餡がぎっしりと詰まっていた。噛むたびに、練り込まれた昆布の微かな塩気と、表面に塗られた醤油の香ばしさが絶妙な塩梅になって口の中に広がる。熱々のお菓子を息を吐きながら頬張り、三人は本日お世話になる湖畔の大型宿泊施設へと向かった。
***
レンガ調の落ち着いた外観を持つその建物は、洞爺湖の湖畔に堂々とそびえ立っていた。
入り口を抜け、広々としたロビーに足を踏み入れると、高い天井と、窓一面に広がる洞爺湖の絶景が目に飛び込んでくる。三人は手続きを済ませ、湖を望むラウンジのふかふかとしたソファに腰を下ろし、歓迎の温かいハーブティーで一息ついていた。
長旅の疲れを癒やす静かな時間が流れていた、その時だった。
「あれ。もしかして、時洲さんではありませんか」
背後からかけられた声に美波が振り返ると、そこには、仕立ての良いジャケットを着こなした、四十代半ばの恰幅の良い男性が、驚いたような顔で立っていた。
「柳橋さん。お久しぶりです。まさか、こんなところでお会いするなんて」
男性は、以前に東京の下町にある時洲堂を訪れ、蔵から出てきた古い掛け軸の鑑定を美波に依頼したことのある顧客、柳橋であった。
偶然の再会に驚き合う二人だったが、柳橋の表情は、旅行中の明るいそれではなく、どこかひどく思い詰めたような、重い影を落としていた。
「時洲さんに、少し見ていただきたいものがありまして。偶然ここでお会いできたのは、何かの巡り合わせかもしれません」
柳橋はそう言うと、自分が大切そうに抱えていた厚手の手提げ袋の中から、ズシリと重たい木彫りの熊を取り出し、テーブルの上にそっと置いた。
鮭を咥えた一般的なものではなく、四つん這いで前を見据える、荒々しくも力強いヒグマの木彫りだ。黒光りする木肌には、長い年月を経た特有の艶やかな歴史が刻まれているように見えた。
「これなのですがね。昨日、函館を回ってきた時に、とある骨董屋で昭和初期の有名なアイヌの職人が手彫りした、非常に珍しいアンティークの木彫りの熊だと勧められましてね。結構な値が張ったのですが、素晴らしい彫りに惹かれて買ってしまったんです。ただ、ホテルに戻ってこうして眺めていると、どうも、なんというか、手にした時の違和感があるんです」
「違和感、ですか」
「はい。古いモノ特有の温かみではなく、もっと何か、暗くて、重たいものを抱え込んでいるような、不気味な気配を感じてしまって。気のせいかとも思ったのですが、どうしても気がかりだったんです。少しだけ、見ていただけないでしょうか」
柳橋の言葉に、美波はかけていた黒縁の丸眼鏡のブリッジを細い人差し指で押し上げた。
その瞬間、美波の表情から、旅行客としてののんびりとした空気がすっと消え去った。
迷子になったモノの歴史と、そこに込められた想いを紐解く古物商としての、真剣な眼差しに変わったのだ。
「お任せください。それでは、拝見させていただきます」
美波はポシェットから古い革の手帳サイズのポーチを取り出し、その中から愛用の純銀製のルーペを取り出してテーブルに置く。
一度、その木彫りの熊を両手で優しく持ち上げ、まずは全体の重みを確認した。
その瞬間、美波の琥珀色の瞳が微かに細められた。
美波は熊をテーブルに戻し、出しておいたルーペを手に取って右目に当て、木彫りの熊の表面、特に毛並みを表現している彫りの溝の奥や、腹部の木目へと、モノの来歴を辿る視点に意識を切り替えて観察を始めた。
ルーペ越しに広がる世界。そこには、モノが作られた歴史と、それに触れた人間が残したささやかな生活の痕跡が、静かに物語られている。
美波は数分間、無言のまま熊の背中、足の裏、そして顔の彫りを観察し続けた。やがて、静かにルーペを下ろし、柳橋に向き直った。
「柳橋さん。結論から申し上げますと、こちらの木彫りの熊自体は、間違いなく昭和初期に腕の良い職人さんの手によって彫られた、素晴らしい本物の品です」
「本物ですか、よかったです。それならこの違和感も、きっと私の気のせいですね」
「いいえ。柳橋さんが感じた違和感は、決して気のせいではありません」
美波は静かに、しかし相手を安心させるような優しい声で言葉を継いだ。
「この木彫りの熊には、作られた当時の職人さんの想いとは別の、もっと新しくて、もっと冷たい何かが込められています。柳橋さん、この熊は、中身が空洞になっています」
「えっ。空洞」
驚く柳橋に対し、美波は木彫りの熊を裏返し、足の裏から腹部にかけての木目の一部分を指差した。
「熊を持ち上げた時の、重みが不自然でした。本来、硬く詰まった木材でできているはずの熊が、腹部だけ異様に軽かったのです。そして、腹部の木目をよく観察したところ、自然の年輪の線に沿って、肉眼ではほとんど見えないほどの極めて細い切断面が存在していました。これは、ごく最近になって、極細の特殊な工具を使って、底の部分をくり抜き、再びしっかりと蓋をして接着した痕跡です」
美波の丁寧な説明に、柳橋は息を呑んだ。
幸一も腕を組み、鋭い視線でその木彫りの熊を見下ろしている。
「底がくり抜かれているってことは、中に何かが入っているのか」
「はい、その通りです幸一さん。柳橋さん、開けてみてもよろしいでしょうか」
「は、はい。もちろんです」
美波はポシェットから小さな工具を取り出すと、底面の接着部分のわずかな隙間に滑り込ませた。乾いた音と共に、木彫りの熊の底の一部が、四角く外れた。
くり抜かれた空洞の中には、黒いビロードの布に厳重に包まれた小さな包みが入っていた。
美波が布を開くと、そこから姿を現したのは、眩いばかりの輝きを放つ、大粒のダイヤモンドが装飾されたプラチナの古い指輪だった。
誰もが目を奪われるほど美しい宝石。しかし、美波の表情は非常に険しかった。
「これは、ものすごい高価な宝石じゃないか。骨董屋は、これが入っていることを知らずに私に売ったのか」
「おそらく、骨董屋の店主も気づいていなかったのでしょう。ですが柳橋さん、この指輪は、決して手元に置いておくべき代物ではありません」
美波はルーペをリングの裏側と、台座の金属部分に当ててから、柳橋を気遣うように言った。
「この指輪のプラチナのリング部分には、硬い金属で無理やりねじ切られ、乱暴に引っ張られたような痛々しい傷跡が無数に残されています。これは、正規の経路で取引されたものではありません。おそらく、元の持ち主から無理やり奪ったか、あるいは盗品などを隠すために、この木彫りの熊が隠し場所として利用されたのでしょう」
「盗品」
「はい。柳橋さんがこの熊から感じた背筋が寒くなるような違和感は、この指輪に刻まれた、元の持ち主の悲しみや恐怖、そして奪った人間の悪意が、気配となって漏れ出していたからだと思います。いわくつきの代物です」
美波はそこで言葉を区切り、古物商としての揺るぎない覚悟と倫理を込めて、はっきりと告げた。
「私は古物商です。このような明確な犯罪の痕跡がある品を見過ごすことは、法律上も私の信念としてもできません。柳橋さん、一緒にこの街の警察へ行きましょう。古物営業法に基づいて、私からも事情を説明し、盗品の疑いがある品として申告いたします」
美波の毅然とした申し出に、柳橋は深く、深く頭を下げた。
「ありがとうございます、時洲さん。あなたの深い思いやりと確かな眼がなければ、私は何も知らずに、この悲しい来歴を持った指輪を家に飾り続けるところでした。どうか、同行をお願いいたします」
柳橋が木彫りの熊と指輪を大切に、しかし恐る恐る鞄にしまい立ち上がると、一部始終を見ていた幸一が、腕を組んで短く鼻を鳴らした。
「ふん。相変わらず、大した眼と度胸だぜ」
「ふふっ。お父さん、美波ちゃんの仕事ぶりを見て、すごく誇らしそうな顔しているわよ」
「う、うるさい。ほら、美波。交番から戻ってきたら、部屋に行く前に、少し湖の周りを歩くぞ」
照れ隠しに声を上げた幸一に見送られ、美波は柳橋と共に交番へと向かった。
それから小一時間後。無事に手続きを終えて戻ってきた美波を交え、三人は夕暮れの湖畔へと散歩に出た。
太陽が西の山へと傾き、洞爺湖の波が、夕日を反射してキラキラと黄金色に輝き始めている。それは、息を呑むほどに美しく、どこか感傷的な光の絶景だった。
昼間の澄み切った青色とは全く違う、優しく、すべてを包み込むような黄金色の波。
「綺麗ねえ。私、子供の頃から、この夕暮れの黄金色の波の景色が一番好きだったの」
洋子が、眩しそうに目を細めて湖面を見つめながらぽつりと言った。そして、隣に立つ美波の横顔を、とても優しく、愛おしそうに見つめた。
「美しい波と書いて、美波ちゃん。本当に、素敵な名前ね。私たちには子供がいないから、もし神様が娘を授けてくれていたら、きっと美波ちゃんみたいに優しくて、芯の強い女の子になっていただろうなって思うの。今日、こうして美波ちゃんと一緒に、私の故郷のこの波を見られていることが、私にとっては、最高の誕生日プレゼントだわ」
洋子のその真っ直ぐで温かい言葉に、美波の胸の奥がぎゅっと熱く締め付けられた。
大きな琥珀色の瞳から、一粒の温かい涙が零れ落ちる。美波は言葉の代わりに、洋子の背中にそっと腕を回し、その温もりを力強く抱きしめた。
「お誕生日、おめでとうございます。洋子さん」
不器用な幸一が計画した、秘密の里帰り旅行。
秋の冷たい風と、黄金色に輝く湖の波音が、三人の家族の絆を、より一層深いものへと育てていく。
洞爺湖の夜は、まだ始まったばかりだ。




