第一話『故郷』(前)1
東京の下町に、本格的な秋の訪れを告げる少し冷たい風が吹き抜け始めた、十月中旬のある日のこと。
時洲堂の店先にある色づき始めた銀杏の木から、黄金色の葉が舞い落ち、綺麗に磨き上げられたガラス戸の向こうへと影を落としていた。
店主である時洲美波は、マホガニーのカウンターの奥に置かれた指定席のロッキングチェアに腰を下ろし、入荷したばかりのアンティークの銀食器を、柔らかい布で丁寧に磨き上げていた。静かな店内に、柱時計の規則正しい音が心地よく響いている。
その穏やかな静寂を破るように、勢いよくガラス戸が開いた。
「美波、いるか」
入ってきたのは、近所で金物工房を営む三枝幸一だった。いつもの作業着姿ではなく、今日は少し厚手のカーキ色の上着を羽織っている。その表情はどこか固く、照れくささを隠すように眉間に深い皺が刻まれていた。
「あ、幸一さん。いらっしゃいませ。今日は洋子さんはご一緒ではないのですか」
「ああ。あいつは今、近所の連中と寄り合いに行っている。これを持ってきた」
幸一は無言でカウンターに歩み寄ると、懐から取り出した分厚い茶封筒を、少し乱暴な音を立てて天板に置いた。美波が少しずり落ちた黒縁の丸眼鏡のブリッジを指先でそっと押し上げ、不思議そうにその封筒を見つめた。
「開けてみろ」
ぶっきらぼうな声に促され、美波は茶封筒の封を丁寧に切った。
中から出てきたのは、新幹線の乗車券、北海道を走る特急列車の切符、そして色鮮やかな紅葉が印刷された洞爺湖温泉の案内書と、立派なホテルの宿泊券だった。
「わあ。北海道の、洞爺湖へのご旅行の切符ですね。二泊三日。あっ、日程が来週になっていますよ。もしかして」
「来週は、洋子の誕生日だ」
幸一は腕を組み、カウンターの隅にある古い柱時計から目を逸らさずに、低い声でぽつりと言った。
「洋子の生まれ故郷は、洞爺湖の町なんだ。若い頃に東京に出てきてから、俺と一緒になって、ずっとこの下町で苦労をかけてきた。だから、今年の誕生日は、何十年ぶりかの里帰りをさせてやろうと思ってな。こっそり手配していたんだ」
「幸一さん。なんて素敵な贈り物なのですか。洋子さん、きっと大喜びされますよ」
美波が自分のことのように目を輝かせ、拍手を送ると、幸一は顔を微かに赤らめてそっぽを向いた。そして、咳払いを一つしてから、さらにぶっきらぼうな口調で言葉を継いだ。
「だから、お前も来い」
「え」
「切符は三人分ある。宿の部屋も、三人で泊まれる広い和洋室をとってある。お前も一緒に、北海道に行くぞ」
美波は驚きのあまり、目を見開いた。封筒の中をよく見ると、確かにすべての切符が三名様で手配されている。
「で、でも。ご夫婦の大切な、洋子さんの誕生日のお祝いの旅行なのに、私なんかがお邪魔しては申し訳ありません。夫婦水入らずで、ゆっくり羽を伸ばしてきてください」
慌てて切符を押し返そうとする美波を、幸一はいいから持っておけと強い口調で制した。
「あのな、美波」
幸一は不器用に言葉を探すようにして、重い口を開いた。
「俺たちには子供がいない。だから、洋子にとってお前は、本当の娘みたいなものなんだ。あいつはな、何か美味いものを見つけるたびに美波ちゃんにも食べさせてあげたいと言うし、綺麗な景色を見れば美波ちゃんにも見せたいと言うんだよ。あいつの故郷の景色を、俺たちにとっての大切な家族であるお前にも、一緒に見てほしいんだ。だから、三人で行く。これは決定だ」
幸一のその不器用で、見返りを一切求めない純粋な愛情の言葉に、美波の琥珀色の瞳から、じわりと温かい涙が滲んだ。
時洲堂の看板を守り、一人で生きてきた美波にとって、自分を本当の家族として愛してくれる彼らの存在は、何よりも得難い宝物だった。
「はい。私のような者でよければ、ぜひ、ご一緒させてください」
美波が涙を拭いながら深々と頭を下げた、その時だった。
手元にある新幹線の切符の印字を見ていた美波の顔色が、さっと青ざめた。
「あの、幸一さん。これ、新幹線のはやぶさと書いてありますけれど」
「ああ。東京から新函館北斗まで、新幹線で一本だからな。楽でいいだろう」
「し、新幹線。あの、ものすごい速度で走るという、鉄の塊ですか」
美波は極度の飛行機嫌いであるが、実は新幹線に対しても強い恐れを抱いていた。飛行機のように空を飛ぶという直接的な恐ろしさはないものの、あれほど巨大な鉄の塊が、目にもとまらぬ猛速度で地上を駆け抜けるなど、普段からのんびりとした下町の時間を愛する美波の感覚からすれば、あまりにも現実離れした乗り物なのである。しかも、美波にとってこれが人生初の新幹線だった。
「無理です。怖すぎます。あんな速度で走ったら、絶対に途中で線路から飛び出してしまいます。鈍行列車でゆっくり行きましょうよ」
涙目で抗議する美波に対し、幸一は呆れたように大きなため息をついた。
「馬鹿野郎、鈍行で行ったら北海道に着く頃には洋子の誕生日が終わってしまうぞ。そんなに新幹線が嫌なら、飛行機にするか。今からならまだ羽田からの切符が取れるぞ」
「ひ、飛行機ですか」
新幹線の猛速度で地上を走る恐怖と、飛行機の空を飛ぶ恐怖。
究極の二択を突きつけられ、美波は小さく首を横に振った。
「し、新幹線でお願いします。新幹線は、人類の英知の結晶ですから」
「往生際の悪い奴だ」
幸一は鼻を鳴らし、当日は遅れるなよとだけ言い残して、時洲堂を出て行った。
こうして、秋深まる北海道、洞爺湖への、三人の賑やかで少しだけ心もとない里帰り旅行が幕を開けることとなったのである。
***
旅行当日の朝。
東京駅のホームに滑り込んできた緑と桃色の線が美しい車体、北海道新幹線はやぶさ。その先頭車両の鋭く尖った形状を見た瞬間、美波は小さく悲鳴を上げて後ずさった。
「大丈夫よ、美波ちゃん。新幹線はとっても安全にできているのだから。ほら、お父さんが待っているわよ」
洋子に手を引かれ、美波は売られていく仔牛のような足取りで車内へと足を踏み入れた。
指定された三人掛けの座席。美波は窓側に押し込まれ、両手で肘掛けを指の関節が白くなるほど強く握りしめて、目を固く閉じた。
やがて、音もなく扉が閉まり、列車が滑るようにホームを離れる。
「ああ。動いています、動き出しましたよ洋子さん」
「ふふっ、美波ちゃんったら。まだ全然速度出ていないわよ」
東京都心を抜け、関東平野に出たあたりから、はやぶさはその本領を発揮し始めた。座席にぐっと体が押しつけられるような強い加速を感じ、美波はすっかり固まってしまった。窓の外の景色が、まるで早送りの映像のように後方へ飛び去っていく。
「速い。速すぎます。景色が溶けています」
「うるさいな。静かに乗っていろ」
通路側に座る幸一が、腕を組んで目を閉じたまま呆れたように言った。
しかし、大宮を過ぎ、宇都宮を越える頃になると、美波の強張っていた肩の力が少しずつ抜け始めた。途方もない速度で走っているにもかかわらず、車内の揺れは驚くほど少なく、静かで快適だったからだ。
「すごいです。こんなに速いのに、お茶のペットボトルが全然揺れません。日本の技術って、本当に素晴らしいのですね」
ようやく目を開け、感心したように車内を見回す美波を見て、洋子がくすくすと笑いながら、東京駅で買い込んでいた大きな紙袋を開けた。
「さあ、美波ちゃんも落ち着いたみたいだし、少し早いけれどお昼にしましょうか。お父さん、飲み物だして」
「おう」
洋子が広げたのは、彩り豊かな秋の味覚が詰まった豪華なお弁当だった。栗ご飯に、脂の乗った焼き鮭、そして色鮮やかな煮物の数々。
いただきますと手を合わせ、お弁当を頬張ると、長旅の緊張がすーっと溶けていく。美味しいご飯と、窓の外を流れる秋の景色。そして、隣でお父さん、卵焼き食べる、お前が食えと甲斐甲斐しく世話を焼く洋子と幸一のやり取り。
まるで遠足に向かう子供たちのような、賑やかで温かい時間が過ぎていった。
新幹線が津軽海峡の海底トンネルを抜け、終点の新函館北斗駅に到着した時のことだ。ホームに降り立った瞬間、美波は思わず声を上げ、秋用の薄手のトレンチコートの襟をかき合わせた。
「冷たい。東京と全然違いますね」
肌を刺すような、冷たく澄んだ空気。秋というよりも、すでに初冬の足音が聞こえてきそうな凛とした風が、北海道に到着したことを実感させる。
「さあ、ここからは特急列車に乗り換えよ。洞爺駅までは二時間くらいね」
洋子に手を引かれ、三人は深い青色の車体をした特急列車へと乗り込んだ。
特急列車の指定席は、通路を挟んで二人掛けの座席が並んでいる。幸一が手配していた席は、洋子が窓側、その隣の通路側に幸一、そして通路を挟んだ向こう側の席に美波、という配置になっていた。
列車が静かに走り出し、函館本線を北上していく。
車窓にはまず、大沼国定公園の美しい湖沼群と、雄大にそびえる駒ヶ岳の姿が広がった。木々は赤や黄色に見事に色づき、鏡のような湖面にその姿を映している。
やがて列車が森駅を過ぎたあたりで、視界が一気に開けた。
車窓の右側に、太陽の光を惜しみなく反射して眩しいほどに輝く噴火湾の穏やかな海が、どこまでも広がっていったのだ。時折、海沿いに立ち並ぶ小さな漁村の風景や、遠くに薄青く霞む対岸の山々の稜線が絵巻物のように流れ去る。秋の北海道の壮大な自然が、まるで一枚の巨大な絵画のように美しく切り取られていた。
「ほら美波ちゃん、海が見えるわよ。本当に綺麗ねえ」
窓側に座っていた洋子が、嬉しそうに身を乗り出して外を指差した。
美波は丸眼鏡の位置を指先でそっと直すと、首を伸ばして、通路越しに洋子側の窓の景色を覗き込んだ。
「はい、本当に綺麗です。太陽の光をいっぱいに浴びて、波がまるで細かく砕いたガラスみたいに光っていますね。東京の海とは全く違う青色をしていて、ずっと見ていても飽きません」
通路越しに琥珀色の瞳を輝かせ、感動の溜息を漏らす美波。その声を聞いて、腕を組んで目を閉じていた幸一が、短く鼻を鳴らした。
「おい。見えづらいなら、俺と代わるか」
そう言って、幸一は重い腰を上げ、自分の席を空けようとする。通路を挟んだ席からでは、どうしても自分の体が邪魔になり、美波が海を存分に楽しめないだろうと気遣ってのことだ。
言葉は相変わらずぶっきらぼうで愛想もないが、その行動の裏には、大切な娘の視界を少しでも広くしてやりたいという、不器用で温かい父親の愛情がたっぷりと詰まっている。
「ふふっ、大丈夫ですよ、幸一さん。お気遣いありがとうございます。ここからでも十分に素晴らしい景色が見えていますから、そのまま座っていてください」
美波が柔らかく微笑んで丁寧にお辞儀をすると、幸一はそうかとだけ短く言い、再び座席に腰を下ろして腕を深く組んだ。その照れくさそうな横顔を見て、洋子が楽しそうに笑った。
やがて特急列車は、洞爺駅のホームに静かな音を立てて滑り込んだ。
荷物を手に取り、冷たい風が吹き抜ける外へと降り立った三人は、駅前から路線バスに乗り換え、目的の湖畔に広がる温泉街を目指して内陸の山側へと登っていく。
バスが秋ののどかな風景の中を走り抜け、曲がりくねった山道を力強く登り切った、その時だった。
鬱蒼とした紅葉の森が途切れ、視界が一気に開ける。
「あっ」
美波は思わず窓ガラスに顔を近づけ、小さく息を呑んだ。
車窓の向こうに唐突として現れたのは、視界のすべてを鮮やかな青と、山々の燃えるような紅葉で染め上げる、大きな洞爺湖の姿だった。
風を遮る山々にぐるりと囲まれた、まるで鏡のように穏やかな水面。湖のちょうど中央には、こんもりとした木々に覆われた中島が、湖を支配する要塞のように雄大に浮かんでいる。中島の木々もまた、赤や黄色に見事に色づいており、それが青い湖面に反射して、息を呑むほどの絶景を生み出していた。
「着いたわね、お父さん。何十年ぶりに見たかしら。昔より、湖がうんと大きくなったみたいに見えるわ」
「馬鹿野郎。湖の大きさが勝手に変わるわけないだろう。お前が小さくなったんだ」
窓の外を見つめる洋子の感傷的な呟きに、幸一が無愛想な言葉を返す。しかし、その声の響きは普段よりもずっと低く、どこか優しかった。何十年ぶりかに故郷の景色を前にして、彼の胸の奥でも、若き日の記憶が呼び起こされ、少しだけ感情が揺れているのが美波にはわかった。
バスが終点の温泉街の停留所に到着し、三人は大きな荷物を持って車外へと足を踏み出した。
アスファルトの上に降り立った瞬間、美波は小さく声を上げ、その場に立ち止まってしまった。
「どうしたの、美波ちゃん。忘れ物?」
洋子が心配そうに振り返るが、美波はゆっくりと首を横に振った。
「いえ、そうではなくて。空気が、全然違います。なんだか、肺の中がすーっと軽くなるみたいで」
美波は静かに目を閉じ、胸いっぱいにゆっくりと深呼吸をした。
冷たく、それでいて不純物が一切混ざっていないような、澄み切った空気がそこにあった。十月半ばの広大な湖を渡ってくる風は、木々の香りを豊かに含んでいる。大きく息を吸い込むと、都会の淀んだ空気に慣れた肺の奥底までが綺麗に洗い流されるようだった。
「洞爺湖はね、周りを山に囲まれた巨大なカルデラ湖だから、外界の空気が遮断されて、とっても空気が澄んでいるのよ。ここで深呼吸すると、空気が本当に美味しく感じるでしょう」
「はい。とっても美味しいです。ずっとここで深呼吸していたいくらいです」
美波が満面の笑みを浮かべると、幸一は無言のまま、美波と洋子の二人分の大きなトランクの持ち手を両手に握りしめた。
「おう。行くぞ」
幸一を先頭に、三人はまず、停留所の建物の二階にある記念館へと足を運んだ。
二〇〇八年にこの洞爺湖で開催された主要国首脳会議の資料が展示されているこの施設には、当時実際に使用された巨大な円卓がそのままの形で保存、展示されていた。
「これが各国の首脳が座った円卓ですか。すごい重厚感ですね」
美波が感心して見つめていると、洋子が「お父さん、美波ちゃん、こっちこっち」と楽しそうな声を上げた。
見ると、そこには当時の演台を模した撮影場所や、各国首脳の顔出しの板が設置されていた。
「ほらお父さん、そこに立って。演説しているみたいに手を挙げてみてよ」
「ば、馬鹿野郎。いい歳してそんな恥ずかしい真似ができるか」
「いいからいいから。ほら、美波ちゃんも隣に立って」
洋子に強引に背中を押され、幸一は顔を赤くしながら、不機嫌そうに演台の前に立たされた。その隣で、美波も少し恥ずかしそうに丸眼鏡を押さえながら並ぶ。
洋子がスマートフォンの画面を操作する。
画面の中に収まった、仏頂面の幸一と、はにかんで笑う美波の姿は、どこからどう見ても、仲の良い本物の親子のようだった。
「ふふっ、いい写真が撮れたわ。次は奥の展示室に行ってみましょう。洞爺湖の自然のことがたくさん展示されているみたいよ」
別室に移動すると、そこには洞爺湖や、大地の歴史に関する美しい写真や資料が所狭しと展示されていた。
大昔の噴火によって大地が陥没してできた湖の成り立ち。そして、何万年という途方もない歳月をかけて、自然が今の美しい景色を作り上げてきたという壮大な歩み。
美波は展示された地層の写真や解説を、一つ一つ丁寧に読み込んでいった。
「古いモノに込められた職人さんの歴史も素晴らしいですが。自然が作り上げた大地の歴史というのも、本当に気が遠くなるほど長い時間がかかっているのですね。私たちが今立っているこの静かな場所も、地球の力強い息吹の積み重ねの上に成り立っていると思うと、なんだか不思議な気持ちになります」
展示を見つめながら柔らかく微笑む美波の横顔を、幸一と洋子は温かい目で見守っていた。
澄み切った秋の空気と、雄大な自然の歩みに触れた三人の旅は、ここからさらなる驚きと、心をほぐすような温かい謎解きへと続いていくのである。




