仕事が山積みなんですよ
翌朝、寝室のカーテンから差し込んだ朝日でアントンは目を覚ました。
隣ではマリーネがまだ眠っている。アントンは彼女を起こさないよう、そっと寝台を抜け出し、サイドテーブルに置かれていた水差しを手に取った。グラスに水を注ぎ、それをゆっくりと口に含む。冷えた水が喉を通り、ようやく体が目覚めていくようだった。
「ふう……。最高の朝だな」
アントンは満足げに呟いた。かつて、身を引き裂かれるような思いで別れた最愛の人。彼女以外と結婚なんて考えられないほど愛していた。結ばれないのなら、せめて生涯彼女だけを思って独身を貫こうとさえ思っていた。結局、それは許されず妻を娶る羽目になったのだが、それでもずっと心はマリーネのものだった。
それほど愛していた人と再び巡り会い、今こうして共にいられる。それが何より嬉しい。
(だが、クレアには少し悪いことをしてしまったな……)
政略で娶ることになった妻はひと回りも年下の、まだ幼さを残した少女だった。
可憐で美しくはあるものの、アントンは物足りなかった。彼は可憐な少女よりも、艶やかな女に惹かれる性質だったから。華奢で儚げなクレアよりも、女性らしい体つきと成熟した色香を放つマリーネの方がアントンの好みだった。
しかし、クレアは若いながらも実に有能で、彼女が来てからというもの領地は見違えるほど発展した。
その功績については大いに感謝している。
そんな妻を追い出すような形で離縁を迫ってしまったことに罪悪感はある。
だが、後悔はしていない。自分の隣にいてほしいと願うのは、マリーネただ一人なのだから。
(……終わったことだ。もう考えるのは止めにしよう。それより、今日はマリーネとどうやって過ごそうか……)
アントンの頭の中はすっかりマリーネと何をして過ごすかでいっぱいになった。
庭師自慢の庭園を案内し、そこで二人でお茶をしようか。それとも、街に出て買い物でもしようか。
顔を緩ませながらそんなことを考えていると、ふいに扉を叩く音が響いた。
「旦那様、起床のお時間です」
それは家令のローレンスの声だった。アントンは緩んでいた頬を引き締め、あからさまに苦い顔を浮かべながら扉へ近づき、声を潜める。
「……なんだ、ローレンス。今日くらいはそっとしておいてくれないか?」
「なりません。旦那様が奥様を追い出されたことで、仕事が山積みになっております」
「追い出したなんて……そんな嫌な言い方をするな。気分が悪い」
「それは申し訳ございません。ですが、仕事が山積みなのは事実でございます。一刻も早く取り掛かっていただかねばなりません」
「……明日まとめて片付ければいいだろう」
「それでは間に合いません。頭から抜けていらっしゃるようですが、今まで奥様がされていた仕事もすべて旦那様に引き受けていただくことになります。すぐにでも取り掛かってくださらなければ間に合いません」
その言葉にアントンの顔が固まる。クレアがいなくなれば、彼女がこれまでしていた仕事はすべてアントンのところへ回ってくる。そんなことは当たり前であるのに、マリーネとのこれからのことばかりに気を取られ、すっかり頭から抜け落ちていた。
「大袈裟な……仕事と言っても、そう多くはないだろう」
「いえ、多いです。まず、領地の収支報告の確認、次に各地の代官から届いている報告書の確認、そして商人との取引についても、いくつか判断をしていただかなくてはなりません」
「……」
「それから、使用人への仕事の割り振り、そして領民から届いている陳情にも目を通していただく必要がございます」
「……そんなにあるのか?」
「はい。これ以外にも社交の予定の調整などありますが……それは今すぐでなくとも構いません。使用人への仕事の割り振りはしばらくわたくしのほうで行います。旦那様はそれ以外の業務をお願い致します」
「え? 俺一人でその量の仕事を……?」
「そうなりますね。……奥様は、それだけの仕事をお一人でこなしておられました。ご存じなかったのですか?」
ローレンスの声には驚きよりも呆れが滲んでいた。
そこには「何で知らないんだよ」という非難が潜んでいる。
「加えて、旦那様の承認が必要な書類も沢山ございます。ご理解いただけましたら、すぐにでも執務室へお越しください」
「………………分かった」
先程までの多幸感はすっかりと消え、重々しい気持ちでアントンは扉から離れた。
*
愛に満ちた新生活の幕開け――のはずだった。
しかし現実はそう甘くない。執務室の机の上に山積みになった書類を目にしたアントンは、あまりの量に言葉を失った。
「……なんだ、これは」
積み上げられた書類の山に唖然とする。
「これを……今日中に?」
「さようでございます」
ローレンスは当然のように答えた。
アントンは椅子に腰を下ろし、眼前にそびえ立つ書類に息を呑む。
「旦那様……」
アントンの様子に、ローレンスは非難めいた声で呼びかけた。
まるで「何回驚いてんだよ。早くしろ」と責めるように。
観念した様子のアントンは、黙って一番上に積まれている書類を手に取る。
「…………これは、何をすればいい?」
「内容を確認後、ご署名をお願いします」
「確認と言っても……内容が分からないのだが……」
「……旦那様、分からないでは困ります。奥様がいらっしゃらない今、旦那様がなさらなければ他に誰がするというのです?」
「それは分かっている……。だが、読んでも分からないのだ」
「なら、奥様が作成しました引き継ぎ書をご覧になっては?」
「そんなものがあるのか?」
「……はい? 旦那様が直接奥様から受け取られたではありませんか。業務の引き継ぎの際に」
「あ…………」
そう言われてアントンは思い出した。クレアが屋敷を出る前、やたら分厚い冊子を何冊も渡されたことを……。
──私がこれまで携わっていた業務の手順や必要事項を、こちらにすべて記してございます。
クレアは自分がこの屋敷を去った後も仕事が滞らないよう、何冊にもわたって業務の手順を細かく書き記し、それをアントンに託していた。それをまとめるだけでも相当な時間と労力が必要だったことだろう。だが当時のアントンはそんなことには思い至らないどころか、頭の中はすでにマリーネとのこれからのことでいっぱいで、すっかり上の空だった。
「クレアは……こんな量の仕事を毎日こなしていただけでなく、手順書まで残していったのか」
今さらながら、クレアがこれほどのものを残していったことに気づく。その労力を思えば思うほど、罪悪感が胸に押し寄せる。アントンはしばし何も考えられず、ぼうっとしているとローレンスの叱責が飛ぶ。
「旦那様? 何を呆けているのですか。ほら、こちらが手順書です。時間がないので早く始めてください!」
「わ、わかった……」
アントンは分厚い冊子を開き、そこにびっしりと記された文字へ目を落とす。
しばらく読みすすめると、重いため息をついてアントンは冊子を閉じた。
「分からん」
「……はい?」
ため息とともに零れたその言葉に、ローレンスは耳を疑った。
「何一つ分からん!」
「はあ?」
何言ってんだコイツ、といわんばかりに眉を潜めるローレンス。そんな家令の不敬に気づくことなくアントンは机を叩いた。
「読んでも分からんのだ! 見たことも聞いたこともない言葉ばかりで、何が書いてあるのかさっぱりだ! 難しすぎる!」
「……何をおっしゃっているのですか。今さら分からないなどとおっしゃられても、どうしようもございません」
「本当にクレアはこれを全部やっていたのか……? こんな難しいことを理解していたのか?」
「さようでございます。奥様……いえ、もう『元』がつきますね。元奥様はその難しいことを完璧に理解し、毎日やっておられましたよ」
その言葉が妙に重く胸に響き、アントンは言葉を失った。
「クレアは……本当に優秀だったのだな」
ここで初めてアントンは別れた妻がどれだけ優秀だったかを、嫌というほど思い知った。
それと同時に、領地の仕事など簡単に出来ると思い込んでいた自分がどれほど甘かったかを知る。
「この仕事を……これからは俺がやらねばならないのか」
「はい、その通りです。……出来ますよね? 元奥様にもそのようにおっしゃっておりましたし……」
「…………」
アントンはローレンスが念を押すように問いかけた言葉に何も返せなかった。
あの時の自分は、何を根拠に「出来る」と断言したのかまったく分からない。
かつてこの仕事を一人でこなしていたクレアはもうこの屋敷にはいない。アントンが追い出してしまったから。
「…………」
アントンは震える手で冊子を掴み、事の大きさに顔を青くした。




