それは最後の一本だ
クレアが屋敷を出てまもなく、アントンは恋人マリーネを屋敷へ招き入れた。
「まあ……なんて豪華なお屋敷なの!」
アントンに腰を抱かれながら玄関ホールへ足を踏み入れたマリーネは、目の前に広がる豪奢な光景に目を輝かせた。磨き上げられた大理石の床には、天井から吊り下げられた巨大なシャンデリアの光が幾重にも反射している。壁には精緻な装飾が施され、階段の手すりにまで細かな彫刻が刻まれていた。
「素敵……」
思わず感嘆の声を漏らしたマリーネは、きらびやかな室内を見渡す。
これまで目にしたことのないような豪奢な調度品の数々。壁に飾られた絵画も、そこに置かれた花瓶も、一目で高価なものだとわかる。
まるで別世界に迷い込んだような光景に、マリーネの胸は高鳴った。
「気に入ってくれたかい?」
「勿論よ! 我が家とは比べ物にならないわ。あなたのお屋敷はこんなにも広くて豪華だったのね……知らなかったわ」
実はマリーネがこの屋敷に足を踏み入れるのは、今日が初めてだった。
アントンの父が当主だった頃、彼女を屋敷へ招き入れることなど許されなかったからだ。
恋人を紹介したいと何度頼んでも、両親は首を縦に振らなかった。
──家臣の娘が当主の妻になどなれるか。身分が釣り合わぬ。
交際を反対され、無理やり別れさせられ、厄介払いをするかのようにマリーネは無理やり別の男へと嫁がされた。
もう二度と会えないと思っていた愛しい女性。
そんな彼女と再び巡り会えたのは、きっと運命に違いない。
もう二度とこの手から離さない――アントンは胸の内でそう誓いながら、ようやく取り戻した愛する女性を感慨深げに見つめた。
「今日から君はここに住むんだ」
そう言いながら、アントンはマリーネの腰を抱く腕に少しだけ力を込めた。
「嬉しいわ……」
目を輝かせる彼女を見て、アントンは満足げに微笑む。
父親が生きていた頃には決して見ることを許されなかった光景。
それを今は、自分の手で彼女に見せてやることができる。
――もう、誰にも文句は言わせない。
アントンはそう胸の内で呟きながら、マリーネを伴って屋敷の奥へと進んでいった。
背後で使用人たちが物凄い目で見ていたことなど知らずに……。
*
屋敷の中をひと通り案内したあと、二人は食堂へと向かった。
夕食が用意されたテーブルにはいくつもの料理が並べられている。
香ばしく焼き上げられた肉料理に、色鮮やかな野菜料理。銀の食器やグラスが灯りを受けてきらめき、テーブルの中央には美しく生けられた花まで飾られていた。
「こんなに……?」
席に着いたマリーネは、目の前の料理を見つめて目を丸くする。
その反応にアントンは思わず口元を緩めた。
「遠慮する必要はない。好きなだけ食べてくれ」
「ええ……いただきます」
嬉しそうに微笑むマリーネを目に映しながらアントンも料理に手を伸ばす。
かつてはこの屋敷に入ることすら許されなかった彼女が、今はこうして自分と同じ食卓を囲んでいる。
それだけで、胸の奥が満たされていく。
アントンは自らマリーネのグラスにワインを注いだ。磨かれたグラスの中が深紅の液体で満たされていく。
「いい香りね……」
「そうだろう? これは俺の一番好きなワインだ」
「まあ、あなたの好物を一緒に飲めるなんて……嬉しいわ」
それは西方から取り寄せた、この地方では決して手に入らない逸品。
このフォードの地でこれが飲めるのはこの家だけ。なぜなら、それはアントンの前妻クレアが実家を通して送ってもらった品だから。
──奥様が取り寄せたワインを他の女と平然と楽しむとは、どういう神経をしているのか。
食堂の壁際に控える使用人たちは、声には出さないまでも心の中では同じようにアントンを非難していた。そんな彼等の心境など知らない二人は嬉しそうに乾杯し、グラスを傾ける。
「美味しい……。こんな美味しいワインを飲んだのは初めてよ」
「君が喜んでくれて嬉しいよ。これからは好きなだけ飲めるからな」
「まあ、ふふ……」
うっとりと目を細めるマリーネを眺めながら、アントンは満足げに微笑んだ。
豪華な屋敷に贅を尽くした料理、そして高級なワイン。
かつては何ひとつ与えてやれなかった彼女に、今なら欲しいものを何でも与えてやれる。
アントンはそんな幸福に浸りながら、愛する女性のためにもう一度ワインを注いだ。
白けた目をした使用人たちが、心の中で「それが最後の一本だよ」と指摘していることなどつゆ知らず……。




