代償
「では、離縁の条件として相応の慰謝料をお支払いいただきたいと思います」
「分かった。君が望むだけ支払おう」
準備を整えたクレアは応接間にて離縁の話し合いの席についた。
テーブルの上には離縁に関する書類が並べられている。
「こちらはフォード家の予算からでなく、あなたの個人資産からお支払いください。……そうですね、全体の半分で結構です」
「は、半分? そんなにか……?」
「あら……先ほど『君が望むだけ支払おう』と言ったばかりではありませんか? もう覆すおつもりで?」
「う……すまない。分かった。それでいい」
アントンはバツが悪そうに視線を逸らした。
「クレア。……君には申し訳ないと思っている。君はこの家の女主人として懸命に働いてくれたというのに……」
「ええ、まったくです。まさか結婚して一年足らずで離縁を言い渡されるとは思いませんでした。しかも、他の女性に目移りしたという、くだらない理由で」
「す、すまない……。駄目だと分かっていても、俺はマリーネを忘れられないんだ」
「愚かですこと。責任よりも愛を選ぶだなんて……。どうなっても知りませんよ」
この時のクレアの言葉をアントンはろくに理解していなかった。他の女を選んだ夫への、せめてもの捨て台詞だろうと軽く考えていた。彼がクレアの言葉を思い出すのは、もう取り返しのつかないところまできてしまったときだ。そんな未来が待っていることを、このときの彼はまだ知らない。
「……何とでも言ってくれ。愚かだとは承知している。それでも俺は……今度こそマリーネを幸せにすると決めた」
己に酔っているかのように、昔の恋人への愛を語る夫をクレアは白けた目で見ていた。
幸せになど、出来るはずがないのに──本当に愚かだ。
「ひとつ聞きたいのですが、そのマリーネさんはこのフォード辺境伯家に嫁ぐ覚悟はお持ちなのですか?」
「ああ、勿論だ。彼女も俺と共に頑張ると言ってくれている」
「ふうん……そうですか」
今の会話で、クレアはマリーネの頭が夫と同じように残念なことが分かった。
まともな頭であれば自分には務まらないことくらい分かりそうなものだ。それなのに、「頑張る」などと軽く言ってしまう。所詮その程度の考えしか持っていない女なのだろう。
(馬鹿ね。この地の領主夫人は、持たざる者には務まらないわよ……)
夫も、その女も、実際に経験しなければ分からないのだろう。
自分達が実現不可能な、無謀とも言えることに挑戦しようとしていることを。
(こいつらはどうなっても知らない。だけど、領民を見放すことはできないわね)
クレアが覚悟を決めたような目をアントンに向けると、彼はその鋭い視線にびくりと肩を震わせた。
「クレア……すまない。恨んでいるよな、俺を……」
「いえ? 別に恨んではおりません」
苦し気な表情で眉を寄せるアントンにクレアは苛立った。いちいち『愛を選び、妻を捨てる罪深い俺』を表現するのはやめてほしい。癇に障って仕方がない。
「それより、この離縁届けに署名を。それとこちらの同意書関係にも同様に署名を願います」
「こんなに……? 随分多いんだな」
「貴族の離縁が紙きれ一枚で済むはずありませんよ。どうぞ、内容をよくお読みになってから署名してください」
よく読めと言われたにも関わらず、アントンはろくに見もしないで次々と書類に署名をしていった。
予想はしていたが、内容を読みもせずに簡単に署名してしまう浅はかさに呆れてしまう。
「よし、これで最後だ」
「ありがとうございます。では、こちらは私の方で提出しておきますね」
クレアが書類全てに署名がされているかを確認していると、ふとアントンが不安そうに尋ねた。
「国王陛下は離縁を認めてくださるだろうか……」
「離縁に陛下の許可はいりませんよ。当人同士の署名があればそれで成立します。この離縁届けは事後報告のようなものですね」
この国の法では、離縁は当人同士の同意によって成立すると定められている。
それを聞いたアントンはあからさまに安堵した。
「そうか……よかった」
「ええ。……ただし、婚約や婚姻には陛下の承認を得なければなりませんけどね」
今、クレアは大切なことを言ったというのに、アントンはそれに気づいていない。
その意味を考えることなく、興味なさげに「ふうん、そうなのか」と答えるだけだった。
「では、これで離縁成立ですね。慰謝料の金額は本当にこれでよろしかったですか?」
「ああ、構わない。先程は異を唱えてしまったが、俺の勝手な都合で離縁するんだ。その代償は払う」
「代償……」
クレアはその言葉を反芻するように呟いた。
「私への代償はそれでいいでしょう。けど、行いの代償はこの程度では済みませんよ」
「ん? なんか言ったか?」
「いいえ、別に」
独り言のように呟いた言葉はアントンは届かなかった。
クレアは書類を揃えながら答える。
「では、私はこれで失礼します。一年足らずという短い間ではございましたが、これまでお世話になりましたこと、心より御礼申し上げます」
少しも心のこもっていない事務的な感謝の言葉を、アントンは「ああ、こちらこそ世話になった」と目に涙を滲ませる。それを見ながらクレアは内心で「こういうところなんだよな……」と蔑んだ。
「ええ、どうぞマリーネさんとお幸せに」
なれるものなら、と聞こえないほどの小さな声で付け加え、クレアはフォード邸を後にした。




