厨房の会話
「……ねえ、聞いた?」
夜も深い厨房で若いキッチンメイドが台布巾を手に握りつつ、声を潜めた。
「え? 何を?」
それを中堅のキッチンメイドが食器を拭きながら尋ねる。
「旦那様が……奥様と離縁なさるって」
「え⁉ うそ……何それ! 本当に?」
「うん……。従僕のトムがたまたま旦那様のお部屋の前を通りかかった時、中で家令さんとそう話しているのを聞いたんだって」
「ええ……うそでしょう? あんなに若くて美人でお優しい奥様を?」
「うん……なんか、旦那様……昔お付き合いしていた方と結婚したいから奥様と別れるそうよ」
「……はあ? 何それ? 旦那様、最低じゃん!」
その時、話に夢中になり、仕事の手が疎かになっていた二人に隅で明日の仕込みをしていた料理長の怒号が飛ぶ。
「こら! 手が留守になっているぞ! きちんと仕事しろ」
その声に二人は慌てて「ごめんなさい!」と謝り、仕事を再開する。
だが、しばらく間を置いた後、料理長がぽつりと「……さっきの話は本当か?」と問いかけた。
「え? ええ……おそらくは。結構大きなお声で話していたから、部屋の中の声がはっきり聞こえたってトムは言っていました」
「そうか……」
料理長は再び口を閉ざした後、ぽつりと「旦那様は奥様を何だと思っているんだ……」と憎々し気に呟く。
「奥様はこの地の救いの女神様だ。そんな奥様を、昔好きだった女とよりを戻すために捨てるなんざ、まともな人間のすることじゃねえ。旦那様はバチが当たるぜ、絶対に……」
「料理長……」
メイド達は主人に対して不敬だと料理長を咎めることは出来なかった。
彼が奥方に深い恩義を感じていることを知っているから。
「奥様は、娘の治療費を出してくださったんだ。旦那様にはいくら頼んでも『特別扱いは出来ない』って断られたのによ……」
「ああ……料理長の娘さん、病気だったんですよね。確か、治療費がかなりかかるって……」
「そうだ。俺も女房も諦めていたのによ……奥様はお見捨てにならなかった。おかげで今は元気にしてるぜ。俺は……奥様に一生をかけて恩をお返しするつもりでこの厨房に立っている。奥様に毎日美味い料理を召し上がっていただくためにな」
メイドたちは何も言わず、料理長の言葉に耳を傾けた。
二人も分かっているのだ。奥方が使用人にも気を配ることのできる優しい人だと。
「だから、それが本当なら俺はここを辞める。奥様がいないなら、ここで働く意味もない」
「え⁉ それは勿体ないですよ。領主の屋敷の料理長なんて、滅多になれるものじゃないのに……」
「かまわん。俺の恩人を、馬鹿みたいな理由で捨てる鬼畜の飯なんて作りたくない」
頑固で、一度こうと決めたら譲らない料理長のことだ。冗談ではないのだろう。
二人は驚いて顔を見合わせた。
「それに、奥様がいなくなれば使用人の給金の支払いも止まるかもしれないぞ? 実際に昔あったろう。あの時は数か月給金が支払われなかったな」
「あ……! そうですよ。資金繰りが厳しいとかで、大分給金の支払いが遅れたんですよ」
中堅のメイドは当時のことを思い出したのか、青褪めた顔で口元を手で覆った。悲痛な声で「そんな……困る」と呟きながら。
「え? そんなことがあったんですか? お給金貰えないなら働いている意味ないじゃないですか! ただ働きなんてごめんですよ!」
若いメイドが騒ぎ立てると、料理長は彼女の方にじっと目を向ける。
「そうか、お前は奥様が嫁いできてからここに勤めたから知らないんだな」
「知らないですよ、そんなことがあったなんて……。お貴族様のお屋敷なら給金の心配がないだろうと思って入ったのに、そんなのあんまりです。いくらいい勤め先でも、お金が貰えないなら何の意味もないですよ……!」
「そりゃそうだ。ただ、今俺が言ったのはあくまで想像だ。実際にそうなるとは限らないぞ」
「いや……そうなる気しかしないんですけど……」
しん、と場が静まり返る。しばしの沈黙のあと、若いメイドが口を開いた。
「旦那様の昔付き合っていた人は、ここの奥方になったらお金の支援とかしてくれるのかしら?」
「……いや、多分無理だろう。あんま金のない家の娘だって聞いたことがある。だから当時も大旦那様から結婚を反対されたらしいからな」
「えー……それじゃ何の意味もないですよ。……ん? 当時って、何年前の話なんです?」
「たしか……十年以上も前の話だ。つーか……それならその女も、もう三十を過ぎているのか」
「ええ⁉ お金もないし、若くもない女を嫁にするってことですか? 若くて美人で資産家の奥様を捨てて? 旦那様は頭がおかしくなったの……」
不敬ではあるが、若いメイドの言葉には納得させられるものがあった。
貴族の結婚が家の利益を優先するものだということは、彼女たちも知っている。
なら、何の利益もない結婚をしようとしている主人は頭がおかしくなったと言われても仕方ないのではないか。
「恋をしている人間の頭はおかしくなるものだ。ただ……それに巻き込まれた方は、たまったもんじゃないな」
「巻きこまれる人数が尋常じゃありませんよ。この領地に住む人間全員が巻き込まれるんですから。そんなことが許されるわけないのに……」
「旦那様にとってはどうでもいいことなんだろう。領民の命より、昔の恋の方がずっと大切なんだ。……じゃなきゃ、そんな馬鹿みたいな理由で奥様と別れたりしない」
「……そんな、あんまりです」
あまりにも不条理な話に、若いメイドの目から涙が溢れる。
大恩ある妻を捨て、領地の民を巻き込むことになろうとも、昔の恋を成就させようとする主人が少しも理解できない。
厨房はまるで通夜のような重苦しい空気に包まれた。




