ホットワイン
「奥様、本当に離縁されるおつもりですか?」
「……ええ。もう、何を言っても聞かなそうだもの。それに、このまま拒否し続けたら何をされるか分かったものではないわ。恋に狂った人間は恐ろしいもの」
このまま離縁を拒否し続けた場合、アントンが強硬手段に出ないとも限らない。流石にそこまで愚かだとは思っていないが、恋に狂った人間というものは時折とんでもない行動に出る。こんなくだらない理由で害されるなど冗談ではない。
「ですが……よろしいので? あの気持ちの悪い旦那様に未練などないことは重々承知しておりますが、王命に背いたとなれば奥様にも咎が及ぶのでは……」
ヴァーレン伯爵家から連れてきた侍女のキャサリンが心配そうにクレアを見つめる。
そんな侍女に、クレアは微笑みかけた。けれど、その笑顔には隠しきれない疲れが滲んでいる。
「勿論、そうならないようにきちんと離縁に至った経緯について、国王陛下にご報告させていただくわ。どういう理由で旦那様が王命に背く行為をなさったのか、事細かくね。ヴァーレン伯爵家に咎が及ばぬよう、夫の横暴で婚家を追い出された可哀想な妻を書面上で演じてやるわよ。そういった文章を作るのは得意だもの」
「まあ……流石でございます」
「ただ、それをやるのは明日にするわ。今日はもう疲れたの……」
「ええ。馬鹿と話すのは精神力を削られますものね。今夜はもう、温かいものをお飲みになってお休みください」
そう言ってキャサリンは部屋を出て、しばらくして銀の盆を持って戻って来た。
「どうぞ、ホットワインです。蜂蜜を加えて甘くしております」
盆の上にあるのは湯気の立ったグラス。そこに満ちた液体は暖炉の火を映して艶やかな深紅に揺れている。ふわりと立ちのぼる湯気からは、赤ワインの芳醇な香りに、シナモンとクローブの甘い香り、そしてほのかに爽やかな柑橘の香りが重なっていた。
「いい香り……。ありがとう、いただくわ」
クレアはそっとグラスを口元へ運ぶ。一口含めば、温められたワインのまろやかな甘みが舌の上に広がり、蜂蜜の柔らかなコクが続く。シナモンの香ばしさとクローブのかすかな刺激が鼻へ抜け、最後に柑橘の酸味が後味を引き締めた。疲れた体と脳にじんわりと染み渡っていく。
「……おいしい」
思わずこぼれた声に、キャサリンが嬉しそうに顔を綻ばせた。
「それはようございました。お代わりもありますので、遠慮なくおっしゃってくださいね」
「ええ、ありがとうキャサリン」
クレアは再度グラスをゆっくりと口に運ぶ。
甘い香りが鼻を抜け、張りつめていた心が緩んだ。
西方で作られている上等な赤ワイン、外国から仕入れたシナモンやクローブ、南方で栽培されている柑橘、そのどれもがクレアが実家の商会を通じて取り寄せたものだ。蜂蜜だって、養蜂場のないこの地域では手に入らない。
このホットワインに使われている材料全てが、フォード辺境伯家の力だけでは手に入れられやしない贅沢品。特にワインは夫も好んでよく飲んでいた。
クレアはグラスの中で揺れる赤い液体を眺めながら、ため息をつく。
(私がこの屋敷を去れば、こういった物全てが手に入らないと、あの人は想像もしていないのでしょうね……)
他にもあるが、数え出したらきりがない。少なくとも嗜好品のほとんどがクレアが嫁いだおかげで楽しめていることを、アントンは忘れている。クレアが屋敷から去った後、それらが口に出来ず不満そうにする夫の姿がありありと浮かんだ。
(本当に、馬鹿な人……。私を追い出した後のことも、王命に背くことがどういうことなのかも、まるで分かっていない。あんな人がこのままのうのうと当主の座に就いていいわけがないわ……)
結婚当初から上がることのなかった夫への好感度は、今回のことで地の底まで落ちた。
これから上がることは未来永劫ないと断言できる。
そんなだから夫が自分以外の女をずっと愛していようが、傷つくことはない。馬鹿にされたと腹は立ったが。
それよりも今はこれからどう動くかを考えなければならない。このままクレアが何もせず去れば、その影響を受けるのは間違いなく領民たちだ。クレアが嫁ぐ以前、食料も燃料も足りず、冬を越せず亡くなってしまった領民もいたと聞いたし、実際に記録にもあった。
せっかく領民が安心して冬を越せるようになったというのに、このままでまた元に戻ってしまう。人の生死が関わっている以上、「後はよろしく」とアントンに丸投げして去ることはクレアには出来なかった。
だって、アントンには無理だ。どうにかできているならとっくにしていたはずなのに、これまで何も成されてこなかった。本人は何とかすると言っていたが、とてもじゃないが信用できない。
(とは言っても……離縁して何の関係もなくなったら、私やヴァーレン家は介入できない。他家が他領に口を挟むことは難しいもの。……だったら、ここは王家に介入してもらいましょう)
そう決意し、クレアはホットワインを飲み干した。




