静まれ、私の拳
それから、夫が若い女から当然のように愛されると思い込んでいる勘違い野郎だったとしても、クレアは辺境伯夫人としての役目を立派に務めた。実際、彼女の手腕により、フォード辺境伯領は見違えるほど改善された。
それまで王都から仕入れていた物品は、ヴァーレン伯爵家の商会を経由することで仕入れ値が大幅に下がった。そして、辺境の特産品も商会を経由し、適正な価格で王都へ売れるようになり、それまで仲買人に吸い上げられていた利益が領内に戻り、わずか一年で領の税収は目に見えて増えた。
さらにクレアは冬季の輸送が滞ることを見越して、穀物を安い時期に買い付けて備蓄する仕組みまで整えたことにより、領民たちは安心して冬を越すようになったのだ。
税収が増えたことにより兵士たちへの手当も改善され、領地も以前より豊かになった。
いつしか兵士や領民はクレアを『フォードの女神』と呼ぶようになる。
この時は誰も想像していなかった。
誰もが感謝を捧げる『フォードの女神』を、領主であるアントンが身勝手な理由で追い出してしまうことを──。
ある晩、妙に真剣な顔をしたアントンがクレアに衝撃の一言を放った
「クレア……。悪いが、離縁してほしい」
「……はい?」
何の脈絡もなく放たれた一言に、クレアは再び唖然とする。
その反応をどう受け取ったのか、アントンは再度同じ言葉を告げた。
「離縁してほしい」
「……何をおっしゃっているのですか、あなたは……」
ひと呼吸置き、気持ちを落ちつかせてからクレアはアントンに視線を向けた。
「急にどうなさったのですか。 私、何かお気に障るようなことをしてしまいましたか……?」
こいつ何言ってんだ、と呆れる気持ちを隠し、クレアはしおらしく尋ねた。
そんな妻にアントンは言いにくそうに顔を俯かせ、やがて決心したかのように口を開く。
「いや、君は何も悪くない。悪いのは俺だ。……その、実は昔の恋人と再会してな」
「……はい?」
恥ずかしそうに頬を赤くするアントンに、クレアは嫌悪を隠せなかった。
目の前の、まるで恋する乙女のように頬を染める夫の顔を両手で掴み、そのまま膝を入れてやりたい衝動を必死に押し殺し、問いかける。
「まさか、その恋人と再び関係を持ちたいから、私と離縁したいとでも?」
「ああ……そうだ。あの時の恋をやり直したいと思っている……」
その時クレアは、妙にポエムじみた台詞を吐く夫の顔面に拳を叩き込んでやりたい衝動と必死に戦っていた。内心で「静まれ、私の拳」と唱えつつ、冷静さを取り戻す。
「あの……旦那様、この婚姻は王命であることをお忘れでしょうか?」
色々と言いたいことはあるが、まずはそれを確かめたかった。
王命で結ばれた婚姻を、一方の都合で勝手に解消することなど、普通はしない。それは王命に背く行為になるのだから。それは貴族であれば誰しもが理解していることだ。アントンも知らないはずがない。
しかし、次の彼の口から出た発言は、実に残念なものだった。
「勿論覚えている。だから結婚して君と夫婦になったのだろう? なら、それで果たされたことになる」
「はい…………?」
やけに得意げな顔で言うアントンにクレアは首を傾げた。
結婚したから王命は果たされた? この人はいったい何を言っているのだろう……。
(あ、まさかこの人……結婚すればそれで終わりだと思っているの?)
多分、いやおそらく、夫は結婚さえすれば王命は果たされたものだと勘違いをしている。そして、果たされたなら後はいつ離縁しようとかまわないと思っている。
いったいどうしよう、このとんでもない思い違いを。
そう頭を抱えるクレアにかまわず、アントンは聞いてもいない恋人への思いを吐露した。
「……今でも、彼女を愛している。彼女とは家の事情で別れるしかなかった。父に結婚を反対されて……。別れたのは俺の意思ではなかったんだ」
「はあ、そうですか」
「別れてから一日たりとも忘れたことはない。もしあのとき、俺がもう少し強く父に逆らっていれば──」
「ふーん、そうですか」
ひどく悔やんだ顔で恋人への愛を告げる夫に、クレアはひどくどうでもいい返事をした。妻に向かって何を言ってんだ、この脳内お花畑中年は。
「……ところで、お義父様に結婚を反対されたということは、その彼女はこの家にとって利にならない相手だったのでは?」
「ああ、そうなんだ。彼女は我が家に仕える家臣の娘でな。爵位も男爵と、家格が低い。
おまけに大きな財産もなければ有力な親族がいるわけでもない。他家との縁も薄い。だから、商人や貴族との繋がりが増えるわけでもない。彼女を妻に迎えたところで我が家に新しい後ろ盾ができるわけではない、と反対された」
「それが今は違うと?」
「ああ……。あの時とは違う。俺は家督を継ぎ、フォード辺境伯となった。もう誰の反論も受け付けぬ立場となったからには、晴れて彼女を妻に迎えられる」
「…………ん?」
おかしい。今のアントンの発言は自分の質問への答えになっていない。
先ほどクレアは夫の昔の恋人が辺境伯家の後ろ盾になる存在なのかと問うたはずだ。なのに、どうして夫が当主になった話にすり替わっているのだろう。
嫌な予感がして、クレアは再度夫に問いかけた。
「彼女はこの家の後ろ盾に成り得る存在なのですか?」
「いや、先ほども言ったが、それは無理だ。彼女は嫁ぎ先で離縁され、実家に戻った。だから身分も立場もあの頃と変わりない」
「……なら、あなたとの結婚もその頃と同様に無理なのでは?」
「無理ではない。あの頃の俺に決定権はなかったが、今はある。当主は俺だ。誰にも文句は言わせん」
「……私は言いますけど? むしろ、どこから文句を言っていいか分からないほど、たっぷりと」
馬鹿か、と罵倒してやりたい気持ちを抑え、クレアは夫を睨みつけた。
この馬鹿な夫は「僕ちん当主だから誰にも文句を言わせないもん!」という戯言をほざいている自覚があるのだろうか。あってもなくても変わらないが……。
「……恋人を愛人としてお迎えするのはいけませんの?」
いくら貴族といえども、後ろ盾にもなりやしない身分ではこの家の夫人は務まらない。
愛人として外で囲うくらいならクレアも受け入れられる。アントンのことなど微塵も愛していないから、愛人の一人や二人くらい構わない。その費用はアントンに割り当てる予算から差し引けばいい。
「駄目だ。彼女を──マリーネを日陰の身になどさせられない。それに、愛人など君にもマリーネにも不誠実だ」
「妻である私に、他の女への愛を語られることも十分不誠実だと思いますけど?」
どうやらアントンの恋人の名はマリーネというらしい。それはまあどうでもいいとして、アントンの言う「誠実」の定義がクレアは本気で分からなかった。妻がいながら他の女に心を寄せている時点で十分不誠実だろうに、何故か彼の中でそれは構わないようだ。
「そもそも、王命に背くなど何を考えているのです! 間違いなく国王陛下のお怒りを買いますよ? 旦那様は謀反を疑われてもよろしいのですか?」
それは王命に逆らうも同義。王への反逆と捉えられてもおかしくない。
これくらい貴族なら理解していて当然で、改めて言うものでもない。クレアは年下の妻にそれを言わせる夫が心底情けなくなった。
しかし、ここでもまたアントンはズレた発言を放つ。
「……そんなに俺と離縁したくないのか? 君はマリーネに嫉妬しているのか? ……すまない、俺の気持ちはずっとマリーネにある。生涯愛するのは彼女一人だけと心に決めているんだ」
「ずっとあなたは何を言っているんです? 王命だと言っているでしょうが! 愛だの何だのと喧しいんですよ!」
勘違いも甚だしい発言に、クレアは思わず声を荒げた。
アントンの愛が自分に向けられていないことなど、かなりどうでもいいことだ。嫉妬などするわけもない。
大人しいクレアがいきなり怒鳴ったことに驚いたアントンは目を丸くした。
「いい年をして馬鹿みたいなことばかり言わないでください! 昔の恋人に再会して気持ちが戻った? だから私と離婚したい? これが三十を越えた男の言うことですか! 恥を知りなさい!」
あまりにも馬鹿馬鹿しい夫の言い分に、クレアは我慢の限界に達した。
近くにあった花瓶を掴み、怒りに任せて夫の足元へ叩きつける。
ガシャンッ、と耳をつんざくような音が響き、花瓶が砕け散る。床には水が広がり、花が無残に散らばった。
「ク……クレア?」
流石のアントンも、普段とは違うクレアの様子に驚きを隠せなかった。
年の割に落ち着いており、淑女然としていた妻がここまで感情を露わに怒る様など見たことがない。
その瞬間、廊下から慌ただしい足音が聞こえて来た。
「失礼いたします、旦那様、奥様! 今の音はいったい……」
扉が勢いよく開き、家令のローレンスを先頭に、数名のメイドが駆け込んできた。
彼等が目にしたのは、俯いたまま肩を震わせるクレアと、困惑した表情のアントン。そして床に散らばった陶器の破片と花、零れた水。その様子を見た家令は、険しい表情をアントンへと向けた。
「……旦那様。奥様に何をなさったのです?」
それは、疑いを隠そうともしない声だった。「何があったのか」と案じるのではない。「何をした」と、最初からアントンに非があると決めつけている。
「いや……少し、喧嘩をしただけだ」
誤魔化すアントンをクレアはキッと睨みつけた。妻からの鋭い視線に、アントンはバツが悪そうに目を逸らす。その態度は、アントンがクレアに何かをしたのだと物語っていた。
「奥様、お怪我はありませんか?」
心配そうに問いかけるメイドに、クレアは穏やかな声で「大丈夫よ」と答える。
そうして長いため息をついた後、床に飛び散った花へと視線を向けた。
「……悪いけど、片づけてちょうだい」
「奥様……?」
「ごめんなさい。不注意で花瓶を落としてしまったの」
「あ、はい……かしこまりました」
「ええ、お願い」
どう見ても落としただけとは思えないほど、花瓶は激しく砕けていた。これほどの破損は思い切り投げつけなければ生じない。メイド達は戸惑いながらも命令通りに床を片付けるべく、清掃道具を取りに向かった。
「……旦那様」
地を這うような低いクレアの声に、アントンは肩をビクッと震わせた。
「な、なんだ……?」
「あなたのお望み通り、離縁して差し上げます」
「え? いいのか……?」
「ええ、どうぞ昔の恋人とお幸せに。ただし、離縁するにあたって、いくつか条件は提示させていただきます」
「分かった。何でも言ってくれ。せめて出来る限り君の希望通りにしよう」
離縁、という言葉に家令が信じられないような目をアントンへと向ける。
すると、嬉しそうに目を輝かせたアントンの顔が視界に入った。
「旦那様……! 離縁とはどういうことです? まさか、奥様に離縁を迫ったのですか⁉」
そう詰め寄る家令に、アントンは「い、いや……これは理由があって」と口ごもる。
先ほどまで妻に昔の恋人への愛を饒舌に語っていたとは思えないほどの狼狽した夫の姿に、クレアはひどく幻滅した。
「それでは私は荷造りを始めますので、これで失礼します」
夫の返事を待たず、クレアは足早に部屋を後にした。
これ以上ここにいたら、どんな口汚い言葉で夫を罵倒してしまうかも分からない。
部屋を出て、クレアは廊下でひとりポツリと呟いた。
「最後まで気持ちの悪い男だったわ……」




