奪われた権限
妻と恋人が鉢合わせてしまうという最悪な状況に、アントンの顔色は青を通り越して白くなった。騒ぎを聞きつけてやってきたローレンスは一目で状況を把握し、「だから言ったのに」と言わんばかりの目をしていた。
「……誰? あんた……」
アントンを「旦那様」と呼ぶ見知らぬ女に、マリーネは露骨に不快感を滲ませて問いかけた。
その無礼な物言いにバイオレットは眉をひそめる。やがて手にした扇子の先をマリーネへとゆっくり向けた。
「ああ……もしや、こちらの方が旦那様の情婦でしょうか? まあ、随分と悪趣味ですのね。ヴァーレン伯爵令嬢を捨ててまで選ぶほどのお相手には、とても見えませんけれど……」
アントンの事情を予め把握しているのか、バイオレットはマリーネを「情婦」と蔑んだ。クレアと離縁してまで欲した相手はこんな下品な女なのかと、責めるようにアントンへと視線を投げかける。
「情婦を屋敷で飼うことを、わたくしは認めませんわよ。速やかにわたくしの視界に映らない場所へと移動させてくださいまし」
「はあ? 何なの、あんたさっきから偉そうに……何様のつもり!」
「わたくしはこの屋敷の女主人です。情婦風情が……そちらこそ口の利き方に気をつけなさい」
汚らわしい、と吐き捨てるように告げ、バイオレットは扇子を広げて口元を隠した。まるで目の前にいるだけで穢れるとでも言わんばかりの仕草がマリーネの癇に障る。
「ふざけないで! この屋敷の女主人は私よ! アントンが愛しているのはこの私なの! ちょっとアントン、この厭味ったらしい女をどこかにやってよ!」
アントンの袖を引き、マリーネはバイオレットをどうにかするよう詰め寄った。
しかしアントンは額から冷や汗を垂らしながらその手をそっと外し、ぎこちなく首を横に振る。
「いや……マリーネ、それは出来ない。バイオレットは王命で正式に決まった俺の妻だ」
自分よりも見知らぬ女を優先し、あまつさえその女を妻と呼ぶアントンにマリーネは怒髪天を衝くほどの怒りを覚えた。しかし、あからさまに怒りを露わにするマリーネを見てもアントンの心は揺らがない。彼にとって、マリーネはもう機嫌を取りたいとさえ思えない相手と成り果てたから。
なんだったらこれはマリーネを追い出す絶好の機会なのではないか。そんな最低なことをアントンが考えていると、いきなり頬に衝撃が走った。
「妻ですって⁉ 私がいるのに他の女と結婚したわけ? 何考えてんのよ! 信じられない……!」
涙目になったマリーネは振り下ろした手を震わせていた。
そこで初めてアントンはマリーネに頬を打たれたのだと気づく。
「マリーネ……落ち着いてくれ。王命で妻を娶る話はしたはずだろう?」
「知らないわよ! そんなの断ってよ! 私に求婚したのは何だったのよ! 人の人生弄んで楽しいの? この人でなし!」
アントンの襟を両手で掴んで詰め寄るマリーネ。そんな二人の様子をバイオレットは冷ややかに眺めていた。
「……痴話喧嘩は他所でしてくださる?」
いかにも鬱陶しそうにバイオレットは冷たい声で言い放った。その態度がマリーネの怒りをさらに煽る。マリーネは血走った目を向け、憎々しげにバイオレットを睨みつけた。
「誰のせいでこんなことになっていると思っているのよ! あんたこそ何処かに行きなさいよ……この、泥棒猫!」
つかつかと近寄り、憤怒の表情でバイオレットに片手を振り上げるマリーネ。
しかし、その手がバイオレットの陶磁器のような肌を打つことは叶わなかった。
「え…………?」
「……汚らわしい。情婦風情がわたくしに触れようとするなど……」
気づけば、マリーネは床にへたり込んでいた。何やら生暖かいものが鼻から流れてきて、床に落ちる。
「え? え……?」
床に落ちたそれは血だった。遅れて顔にずきずきとした痛みが走る。
顔を上げれば侮蔑の表情でこちらを見下ろす女と、その女の手にある扇子の先が折れているのが目に入る。
多分、いやおそらくはその扇子で顔を殴られたのだろうと理解した途端、マリーネの背筋を冷たいものが駆け抜けた。
「この女を屋敷の外へ。……ああ、それとこの扇子は処分しておいて」
いつの間にかバイオレットが連れてきた侍女と護衛がその傍に控えていた。
侍女は恭しく折れた扇子を受け取り、新しい扇子を取り出してバイオレットに渡す。
護衛は鼻から血を流して床に座り込んだマリーネを無理やり立たせた。唖然として抵抗することもできない彼女の腕を掴み、そのまま引きずるように連れて行く。
蚊帳の外に置かれたアントンはただその光景を唖然と眺めていた。
バイオレットはそんな彼を一瞥し、軽蔑の眼差しを向けた。
「結婚初日に情婦と妻を会わせるなど有り得ません。予め何処かにやっておく程度の配慮もできないなんて……想像以上に無能ですこと」
「…………ッ‼」
辛辣な台詞を吐き、バイオレットはそのまま彼の前を通り過ぎて行った。
*
それから、バイオレットから力ずくで追い出されたマリーネをアントンはひとまず町の宿に匿った。
彼女はよほどバイオレットが恐ろしかったのか、一切抵抗することなく大人しくそれに従う。あれほど屋敷を出ることを拒んでいたというのに、以前の癇癪を起す姿は見る影もない。
アントンは最低なことにマリーネが屋敷を出てくれたことを喜んだ。
これで面倒事が一つ減ったと安堵していたのだが、彼の苦難はここからだった。
「婚姻にあたって、いくつか注意点がございます。今からそれをご説明させていただきますね」
まるで何事もなかったかのように淡々と話すバイオレットにアントンは戦慄した。結婚初日に夫が他の女を屋敷に連れ込んでいたというのに、どうしてここまで動じないのか。呆気にとられている夫など意に介さず、バイオレットは侍女から数枚の書類を受け取り、その内容を読み上げた。
「まず、フォード家当主としての一切の権限は本日をもちましてわたくしに譲渡されます。以降、あなたには当主としての決定権は一切ありません。領地に関することはもちろん、何かを決定する際には全てわたくしの判断に従っていただきますので、あしからず」
「当主の権限を譲渡だと? 馬鹿なことを言うな! そんなものを了承できるわけないだろう!」
「できる、できない、ではありません。これは陛下のご命令なのですから、従ってもらいます」
そう言ってバイオレットは手にしていた書類をアントンの目の前へ突きつけた。そこには国王の玉璽がはっきりと捺されている。それが正式な命令書であることは疑いようもなかった。
「なっ……! なんだ、このふざけた命令書は……。こんなの、あまりに横暴ではないか!」
「あら、『陛下のご命令なら何でも聞きます』とおっしゃったと聞いておりますけど? 違うのですか?」
「はあ? そんなわけ…………あっ……」
そこでアントンは思い出した。王太子に「何でもします」と言ってしまったことを。
「い、いや……あれは……」
「おっしゃったのですね? まあ、いずれにしましても、またもや王命を破るのであれば、罰として爵位剥奪のうえ投獄と記載されておりますから従うしかないかと……」
書類の下部には先ほどバイオレットが告げた内容が確かに記載されていた。
従わなければ貴族の身分を失うどころか罪人として投獄される。これではバイオレットの言う通り、従うしかない。
「な……なんで、こんな……」
「一度王命に背いたのですから、当然では? むしろ、この程度の処分で済んだのですから、十分に温情ある措置だと思いますけれど」
「温情だと⁉ 当主の権限を全て奪われることのどこが温情だ! これでは……まるでお飾りではないか!」
「『まるで』ではなく、実際にそうなのです。致し方ないのでは? 勝手な真似をなさったのですから」
困惑と怒りでぶるぶると身を震わせるアントンに、バイオレットは「ああ、そうそう……」と話を続けた。
「ちなみに、わたくしに少しでも危害を加えたら先程の罰を受けることになりますので、お気をつけて」
「は? みくびるなよ。俺が女に危害を加えるような屑だとでも?」
「……身勝手に妻を追い出した方ですもの。しないとは言い切れないでしょう?」
そう言われてアントンは愕然とした。自分では国境を守る辺境伯として誇りを持っていたというのに――まさか、妻や、それを命じた国王からそんな最低な男だと思われていたなんて。




