新たな奥方
「旦那様、マリーネ様はいつ屋敷から出て行かれるのです? そろそろ新しい奥様を迎える準備を始めないと間に合いませんよ」
新たな奥方を屋敷に迎える準備を始めたいローレンスはアントンにそう尋ねた。マリーネがいる場所は本来女主人が使うための部屋。無関係の女にいつまでも居座られては困る。
「それが、いくら説得してもマリーネは頑として納得してくれないんだ。あの部屋からは出ないと言い張っている」
困ったように話すアントンに、ローレンスは思わず「はあ?」と声を張り上げた。
「何を悠長なことをおっしゃっているのです……? 王都から新しい奥様がいらっしゃる日まで、もう幾日もないのですよ?」
何言ってんだコイツは、という感情を隠しもせずローレンスはアントンに詰め寄った。
新たな奥方を迎えるまで猶予がないというのに、そんなことを言っている場合かと。
「そうは言っても……仕方ないだろう。説得しようにも、癇癪を起して話にすらならない」
「いや、ならないでは済まないでしょう? 力づくでも出て行ってもらわないと、新しい奥様を迎えられないではないですか?」
「力づくなど無理だ。一度は惚れた相手にそんな真似などしたくない」
「だから! そんなことを言っている場合ではないと申しているのですよ! マリーネ様がいらっしゃる部屋は、本来であれば屋敷の女主人が使う部屋です。まさか、このままマリーネ様に使わせて、新しい奥様に明け渡さないおつもりですか?」
「そんなつもりはない……。だが、現状はどうしようもないだろう? 新しい妻には別の部屋を用意して、後は当人同士で話し合ってもらうしか……」
「嘘でしょう⁉ まさか、新しい奥様にマリーネ様に部屋を明け渡すよう交渉しろとおっしゃるのですか? 流石にそれは非常識が過ぎます……。陛下がお選びになった花嫁にそんな真似をしていいと? クレア様に次いで今回も花嫁を蔑ろにしたのであれば、今度はお叱りだけでは済まされませんよ!」
マリーネとの交渉が面倒になったのか、アントンはあろうことかその役目を新たな奥方にさせようとしていた。だが、そんなふざけた真似をローレンスが許すはずもなく、今すぐにでもマリーネをどこかにやるよう一喝した。
しかし、仕事が忙しく面倒ごとから逃げたいアントンはローレンスの言葉を聞き流し、何も行動を起こさないままだ。結局、マリーネのことはそのままで新たな花嫁を迎える日となった。
「旦那様……私はもう知りませんよ? 新しい奥様はさぞかしお怒りになるでしょうが、それはご自分でどうにかなさってくださいね」
あれだけ忠告したにも関わらず、何も行動を起こさないままの主人にローレンスは心底呆れてしまった。彼が半ば匙を投げるような心境になってしまったのは無理もない。そんなローレンスからバツが悪そうに目を逸らしたアントンは、ふと一台の馬車が近づいてくるのに気づいた。
「随分と上等な馬車だ……。きっとあれがそうだろう」
視界の先にいる黒塗りの馬車が正門を抜け、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
おそらくは花嫁を乗せた馬車だろう。迎えのために並んでいたアントンと使用人一同は背筋を正した。
馬車が停まり、扉が開くと中から細身の女性が現れる。
涼やかな目元が印象的な女性はアントンの姿を目にした途端、露骨に顔をしかめた。
その女性は背が高く、整った顔立ちをしていた。
涼やかな目元に整った鼻筋、薄く結ばれた唇。冬の湖を思わせるような冷たい美貌はどこか近寄りがたい雰囲気を漂わせている。愛想の欠片もない顔で彼女は淡々と挨拶を述べた。
「お初にお目にかかります。本日よりこちらでお世話になる、バイオレットと申します。お出迎えいただき嬉しく存じます」
丁寧な口調だというのに、少しも心がこもっているようには聞こえなかった。
その態度からアントンに対して好意や感謝をまったく抱いていないというのが分かる。
初対面でここまでの嫌悪を向けられてしまったアントンは、迎えの言葉を口にするのを躊躇った。
「……旦那様、お言葉を」
隣に控えていたローレンスが小声でそう促し、アントンはそこで我に返った。
「遠路はるばるお越しいただき、感謝申し上げる……」
それだけ言ったきり、言葉が続かなかった。
まるでこちらを値踏みするような彼女の視線がどうにも落ち着かない。
「……申し訳ございませんが、長旅で少々疲れてしまいましたの。少し休みたいので、お部屋に案内していただけますか?」
来て早々に部屋に向かおうとするその態度は、夫となるアントンを拒絶しているかのようだった。
いや、実際にそうなのだろう。口には出さずとも彼女の表情にはアントンへの嫌悪が滲んでいた。
(……随分と失礼な女だな)
美人ではあるが、初対面でこんな態度をとられてはいい気はしない。
アントンは不機嫌な表情で侍女に部屋に案内するよう指示した。
嫌な気分を抱え、執務室に戻ったアントンの脳裏に浮かぶのは、かつての妻クレアの顔。
クレアなら、あんな無礼な態度は決してとらなかった。いつだって礼を尽くし、夫であるアントンを立ててくれた。
(離縁など、しなければよかった……)
何度目か分からない後悔が彼を襲う。出来ることなら過去に戻ってやり直したい。
そんな思いに駆られ、ため息をついていたアントンの耳に何やら騒ぎ立てる声が聞こえてきた。
「……なんだ、騒がしいな」
廊下のほうから聞こえてきた騒ぎ声にアントンは顔を上げた。何事かと執務室の扉を開け、廊下へ出る。
耳を澄ますと、何やら侍女達の慌てたような声が聞こえた。
「お、お待ちください……! ご用意いたしましたお部屋はお気に召しませんでしたでしょうか……?」
「あそこは客室でしょう? なぜ、女主人となったわたくしが客室に案内されなければならないの。ふざけるのも大概にしてちょうだい」
見れば速足で進むバイオレットの後を侍女達が慌てた様子で追いかけている。
何事か、と思いアントンはそちらに向かって声をかけた。
「どうした? 何があった?」
「……これは旦那様。この者達が女主人であるわたくしを、あろうことか客室に通そうとしましたの。おかしいですよね? わたくしは王命により、本日をもって貴方の妻となりました。であれば、女主人の部屋に通されるはずでしょう? これはどういうことですか」
責める口調にアントンは言葉に詰まった。明らかに怒っていると分かるバイオレットの背後で侍女達が恨みがましい視線をアントンへと向けている。
「あ……そ、それはだな……、女主人の部屋はまだ改装が終わっていないんだ。だからその間は申し訳ないのだが客室を使ってほしいのだが……」
「改装? まあ……そうですの。では、確かめさせてくださいます? 何をどの程度改装しているのかを……」
疑いを隠しもしない顔をバイオレットはアントンへと向けた。その鋭く心の内を見透かすような目に耐え切れず、アントンは思わず視線を逸らしてしまう。それがかえって怪しさを増長させた。
「い、いや……、内部は工具など置いてあって危険だ。悪いがそれは出来ない」
まさか中を見せろと言われるとは思わず、アントンは冷や汗を額に滲ませた。
改装中などというのは咄嗟に出た嘘だ。本当はそこにはまだマリーネが居座っている。
妻を迎えるというのに、恋人を女主人の部屋に住まわせている。そんなふざけた状況をどうにかしようとしなかったことを、今になって焦りだした。
(不味い……。この女にマリーネを会わせるわけにはいかない。なんとか誤魔化して客室に行ってもらい、その間にマリーネをどこか宿にでも移動させないと……)
アントンはどこか楽観視していた。所詮貴族の女など、こちらが押せば言う事を聞くだろうと。
だが、目の前にいる新しい妻は絶対に誰かの言う通りになどならないだろうことが雰囲気だけで分かる。勝気なマリーネと会えば必ず言い争いになるであろうことも。
アントンが焦っていると、背後の方から声がかかった。
「うるさいわよ、アントン。何を騒いでいるの……」
その声は廊下の奥の方にある、女主人の部屋あたりから聞こえてきた。
後ろを振り向かなくても分かる。それは騒ぎを聞いたマリーネが扉を開けて姿を現したのだと。
「……旦那様、あの女性はどなた? 随分と親しいご関係のようですけど……」
一段と低い声で詰め寄るバイオレットを前に、アントンは何も言えず、ただ立ち尽くした。




