いらっしゃいませ、元旦那様
「その件は次の会議で取り上げましょう。資料の作成をお願いできる?」
「承知いたしました、クレア様」
ヴァーレン伯爵家所有の商会、南支部の代表室。そこで一人の貴婦人が傍らに控える秘書へ仕事の指示を出していた。貴婦人は身体の曲線を美しく引き立てる細身のドレスを身にまとい、艶やかな髪を結い上げてほのかな色香を漂わせている。
彼女がいるのは周辺でも一等地とされる場所に堂々と構えられた石造りの建物。これがただの商人の支部なのかと疑いたくなるほど大きく立派だ。それだけこの商会が莫大な利益を上げ、繁栄していることの証である。
高い吹き抜けにはヴァーレン伯爵家の紋章が掲げられ、建物の中では幾人もの商人や職員が絶え間なく行き交っている。
その建物の最上階にある一室で、貴婦人──クレアは朝から執務に励んでいた。
二十歳となった彼女は少女の面影を残しながらも成熟した大人の女性へと成長しつつある。その危うさすら感じさせる色香が彼女の美しさをますます引き立てていた。
クレアが書類にペンを走らせていると、不意に扉の向こうから従業員が声をかけてきた。
「あの、クレア様……。お約束のないお客様がお見えになっていまして……その、クレア様にお会いしたいとおっしゃっております」
戸惑ったような従業員の声に、クレアは小首を傾げて「お客様? どなたがいらっしゃったの?」と問いかけた。
「……それが、クレア様の元夫と名乗る方で……」
その言葉にクレアの眉がぴくりと動いた。
「そう……。では、応接室にお通しして」
「え? よろしいのですか……?」
「ええ。少ししたら向かいますから、お茶でもお出ししておいてちょうだい」
「は、はい……かしこまりました」
扉の向こうから従業員が足早に立ち去っていく足音が聞こえてくる。それを確認すると、クレアは不敵な笑みを浮かべた。
「来ると思っていたわ……」
静かな声なのにやたらと凄みがある。そんなクレアの独り言めいた呟きに、秘書は思わず息を呑んだ。
急ぎの仕事だけ終え、クレアは客人の待つ応接室へと足を運ぶ。
扉を開け中に入ると、そこには窶れ切った元夫──アントンの姿があった。
「お久しぶりですね、フォード辺境伯閣下。お変わりないようで……とは言えませんね。少し痩せました?」
目の前にいる昔の夫は、あの頃よりも随分と痩せ細っていた。鍛えられた体躯と、やけに自信に満ちた目をしたあの頃の彼は何処へ行ったのやら。最早その面影も残っていない。
「……そうだな。君は元気そうで……なによりだ」
「ええ、おかげさまで。それで? 本日はどのようなご用件でこちらへ?」
不躾にこちらを上から下までじろじろと眺める元夫を牽制するように、クレアは鋭く問いかけた。
すると元夫、アントンはバツが悪そうに視線を彷徨わせる。
「いや……その、君がどうしているかと思って……」
「あら、ご心配いただきありがとうございます。この通り元気に過ごしておりますわ」
「そ……そうか、それは何よりだ……」
本当に言いたいのはそれではないだろうに、本題を避けて当たり障りのない会話をする元夫にクレアは吹き出しそうになる。
(あれだけ思ったことをすぐに口に出していたのに、随分と大人しくなってしまって……。どなた様に自信を打ち砕かれたのかしら……って、あの方しかいないわよね)
かつての彼は思ったことをすぐに口に出すような、配慮も思いやりもない男だった。それが今では相手の反応を気にして、本心を口に出すのを躊躇っている。無駄に自信家だった彼をここまで自信のない男にした原因を、クレアは知っていた。
「そうそう、閣下は新たに奥様を迎えられたのですよね? たしか……宰相様のご息女のバイオレット様と。私は直接お会いしたことがないので人伝に聞いた話なのですが……お父君に似てご聡明なお嬢様らしいですね。そのような才女を迎えられましたこと、心よりお祝い申し上げます」
クレアがそう言った途端、アントンの顔色があからさまに悪くなった。
その反応だけで、彼が新しい妻を恐れていることが分かる。
「バイオレット様でしたら、私よりもずっと円滑に務めを果たしていらっしゃるのかと。私も父より領地経営を学んでおりますが、バイオレット様には到底敵いませんわ。宰相様も認めるほどの賢い方だと聞きますもの」
──まあ、賢いだけではありませんけど……
クレアは心の中でひっそりと呟き、満面の笑みをアントンへと向けた。
彼はそれを何も勘違いしたのか縋るような目を元妻へと向け、掠れた声で助けを求めた。
「クレア……頼む、戻ってきてくれないか? 何でもするから……どうか、もう一度俺の妻になってくれ……」
絞り出すような声で懇願するアントンを前に、クレアはとうとう堪えきれず吹き出してしまった。
「ふっ……あはは! 戻るわけないじゃありませんか? 面白いことをおっしゃいますのね、ふふっ……」
大口を開けて笑うクレアを前にアントンは目を見開き、言葉を失った。こんなにも感情を露わにして笑う彼女をアントンは一度も見たことがない。記憶にある彼女はいつも貼り付けたような笑みを浮かべていたのだから。
「な……な、クレア……どうして……」
「もう、夫婦ではないのですから名前で呼ぶのはお止めください……と言いたいところですが、今の私に家名はありませんので許して差し上げます」
「は? 家名がない? 何を言っている。君はヴァーレン伯爵家の籍に戻ったのだろう?」
「いいえ? 一時はそうでしたけど、今は違います。私はヴァーレン伯爵家の籍を抜け、平民となりました。今の私はもう貴族ではございません」
「はあ? 平民だと? な、なんで君が平民に……」
「それはそうでしょう。王命によって結ばれた婚姻を勝手に解消したのですから。国王陛下の意に反した女が貴族のままでいられるとでも?」
「いやっ……それは、俺が言ったことで、君は何も悪くないじゃないか⁉ なのに、どうして君が貴族の身分を失わなければならないんだ!」
アントンの悲痛な問いかけにクレアはひとつため息をつき、露骨な軽蔑を浮かべた目で彼を見据えた。
「ク、クレア……?」
「本当に……何も分からない人ですね、貴方は。王命に背いた娘を置いておけば、ヴァーレン伯爵家の評判が悪くなりかねません。私が原因で家の名に傷をつけるわけには参りませんので、自ら籍を抜くよう父に申し出ました。確かに私は夫から身勝手に離縁を言い渡された可哀想な妻という立場でございますが、それでも王命に背いたことに変わりはありません。離縁を受け入れたことで私も貴方と同罪ですから」
「馬鹿な! そんなわけあるものか! 離縁を言い出したのは俺だ! 君は何も悪くないだろう?」
「……まあ、そうですね。しかしながら、そうだとして貴族の身分のままでいるわけにはいきません。貴族にとっては、出戻りというだけで醜聞ですのに、王命に背いた女となれば娶ってくださる殿方などおりません。貴族の女は結婚しなければ生活していけないのですよ。だから、私は平民となったのです。平民は女でも働き口が沢山ございますので」
自分のせいでクレアが貴族籍を捨てなければならなかった。その事実がアントンの心に重くのしかかる。
「すまない……本当に。俺は君になんてことを……」
「……今更謝罪など結構です。済んだことですので」
それから、その場に沈黙が落ちた。二人とも何も言葉を交わさない。クレアは秘書が運んできたお茶を何事もなかったかのようにゆっくりと口に運ぶ。
「……だったら、俺とやり直そうクレア! そうすれば、君は貴族に戻れる」
「ほほ……ご冗談を。平民となった私が辺境伯の妻になどなれるはずもございません。だいいち、貴方……奥様がいらっしゃるではありませんか?」
沈黙を破ったアントンの戯言をクレアは鼻で笑った。
しかし、クレアの反応を気にする様子もなくアントンは熱の籠った瞳を向ける。
「大丈夫だ! 今の妻とは別れる。だからクレア、また俺とやり直そう……。もう『愛さない』などと言わない。君だけを愛し、守り抜くと誓うよ」
アントンからの求婚にクレアはしばし目を丸くした。そうしてしばらくすると彼女の口から笑い声が漏れ始める。
「ふっ……ふふ、ははっ……! 貴方とやり直す? ご冗談が過ぎましてよ、フォード辺境伯閣下。たとえ私が貴族の身分だったとしてもお断りです。もう一度貴方と夫婦になるなど虫唾が走りますわ。……気持ち悪い」
「え……クレア……?」
思い切り嫌そうな顔で「気持ち悪い」と吐き捨てるクレアに、アントンは何が起きたのか理解できず固まってしまった。




