枯渇したのは酒だけではない
王太子が去った後、アントンはしばらくその場に立ち尽くしていた。
やがて大きく息を吐くと執務室へ戻り、椅子に腰を下ろして背もたれへ深く身を預ける。
「……疲れた」
低くこぼれた呟きに、少し離れた場所に控えていた家令のローレンスが言葉を返した。
「お疲れ様でございます。何かお飲み物でもお持ちいたしましょうか?」
「ああ、頼む……」
アントンは閉じた瞼の上に手の甲を乗せ、深い溜め息をつく。
このまま眠りに落ちてしまいたいほどの疲労を覚えていたが、まだ仕事が残っている以上、休むわけにはいかない。
「畏まりました。何になさいますか?」
「……酒がいい。ブランデーを頼む」
「ブランデーでございますか……。承知いたしました、少々お待ちください」
ローレンスは含みのある言葉を残して、部屋を後にした。
アントンはそれにさえ気づかず椅子に深く身を沈ませる。
(……俺は、どこで間違えた)
頭の中に今日の出来事が駆け巡り、アントンは何度目か分からない溜め息をつく。
王命違反を突きつけられ、叱責され、そこで初めて自分が王家に対する反逆者となり得ることに気づいた。
いや、成り得るではない。成っているのだ。王命による婚姻を勝手に破棄し、国王が選んだ妻を追い出した。こんなの謀叛ととられておかしくない。
(そういえば……クレアもそう言っていたな。だけど、俺はその忠告を聞かなかった……。聞いていれば、今頃はこんなことになっていなかったのに……)
あの頃のアントンはクレアの諫める言葉が耳に入らなかった。ただの小娘だと見下していたからだ。見下していた相手からの言葉はまともに受け取る価値がないと、身勝手にもそう思っていた。
「旦那様、お待たせいたしました」
ほどなくして戻ってきたローレンスがグラスをテーブルの上に置いた。
琥珀色の液体が燭台の明かりを受けてグラスの中でかすかに揺れている。
「ああ……いただこう」
アントンはグラスを受け取ると鼻先へ近づけ、香りを吸い込んだ。甘く芳醇な果実の香りが疲れた頭を刺激する。口に含むと舌に濃厚な甘みが広がり、飲み干すと喉に熱が灯る。今はこれくらい強い酒でないと疲れが抜けそうにない。
「……美味いな」
「お気に召していただけたなら何よりです。……こちらで最後ですので、どうぞごゆっくりお楽しみください」
「最後? ……どういうことだ?」
「当家に貯蔵されているブランデーは、これで最後だということでございます」
「は? どうして新たに補充しておかなかった」
「……お忘れですか旦那様、こちらは元奥様がご実家の商会から仕入れてくださった物です。本来、このような上物を入手するのは困難でございます。別の商会から手に入れるにしても……仕入れ値はかなりの額になるかと」
暗に「こんな高い物を買う金は家にねえよ!」と責めているのだと気づいたアントンは、気まずさで目を逸らした。
(そうだった……これはクレアが用意してくれた物だ。それまでは、ブランデーなんて王都に出向いた時くらいしか口に出来なかった。……すっかり忘れていたな)
「ちなみに在庫が枯渇しましたのはブランデーだけではございません。旦那様やマリーネ様がお好きだったワインもです。それにつきましてはマリーネ様が嘆いていらっしゃったでしょう?」
「ああ……」
そういえばそうだった。忙しさで忘れていたが、マリーネが気に入ったワインを飲めずに文句を言っていたのだった。あれが手に入らないのなら別の物を仕入れるように指示したが……それからどうしただろうか。
「お酒だけではございません。香辛料も蜂蜜も、上等な茶葉も菓子も、そろそろ在庫がつきます。新たな仕入れ先がまだ確保できておりませんので、当面は食卓が少々寂しくなるかと。……料理長も辞めてしまいましたしね」
「…………」
「……元奥様が与えてくださった恩恵は、想像以上に大きいものでした。それが無くなれば不便を感じるのは当然かと」
事あるごとにローレンスはクレアを追い出したことを引き合いに出して、アントンをちくちくと責めていた。初めのうちはそれを鬱陶しいと聞き流していたが、ここ最近はその意味が嫌でも分かるようになり、胸に刺さるようになった。
「そう……だな」
「おや? 本日はやけに素直にわたくしの言葉を聞いてくださいますね」
「……嫌というほど己の愚かさを突きつけられたからな。素直にもなる……」
「それは良いことです。王太子殿下にさぞかし厳しいお言葉を頂戴したのでしょうか」
「…………」
ローレンスの嫌味にアントンは何も返せなかった。図星を突かれて口ごもるというよりは、疲れすぎていて応じる気力が残っていない。誤魔化すように、グラスの酒を一気に呷った。
「お代わりはございませんので、何か別のお酒をご用意いたしますか?」
「……何が残っている?」
「何がある」ではなく「何が残っている」とアントンは尋ねた。先程の会話で、この屋敷に目ぼしい酒が無くなりつつあると流石に理解したからだ。
「領地で醸造したエールならございます」
「エールか……。ワインはないのか? クレアが取り寄せた物がないのは分かったが、別の物くらいあるだろう?」
領地で造られたエールはそこまで味の良いものではない。
昔はそれで十分だったはずなのに、今のアントンはそれを飲みたいと思えなかった。
作物の乏しい地で育った彼にとって、酒とは喉を潤し身体を温めてくれればそれでよかったはずなのに、王都で初めて葡萄酒やブランデーを口にしたとき、その考えは変わってしまった。
今味わっている琥珀色の酒。それは口に含めば甘やかな果実の香りが広がり、樽の芳香が鼻へ抜ける。喉を焼くような強さがありながら、その後には不思議な余韻が残るという得も言われぬ幸福感。この地で造られた安酒ではこの幸福感は味わえない。
一度、良い酒の味を知ってしまえば知らなかった頃には戻れない。
平民でも口に出来る安いエールを飲む気にはなれなかった。
「ございましたが、マリーネ様が全てお召し上がりになりました」
「は? 全部だと? 嘘だろう……」
「いえ、嘘ではございません。資金が乏しいのであまり仕入れていないというのもありますが、マリーネ様はワインがお好きのようで……毎日一瓶は必ず空にしてしまいますね」
「マリーネが⁉ そんな量を?」
恋人の意外な一面を知らされたアントンは驚愕に目を見開いた。ワインを好んで飲んでいたことは知っているが、そこまでの酒豪だとは知らなかったのだ。
(俺の金を散財しただけでは飽き足らず、人の屋敷の酒を飲み干すとは……)
あれだけ欲したはずのアントンのマリーネへの愛情は、今日、跡形もなく枯れ果てた。
ここにマリーネを招いてからというもの、彼女の嫌なところばかりが目につく。
遠慮なくアントンの金を使い果たす図々しさ。アントンが苦労している姿を間近で見ていても、何もしてくれない薄情さ。他人の屋敷の酒を飲み尽くす強欲さ。そして──恋人の目の前で、若く美しい王太子に媚びを売ろうとする浅ましさ。
そのすべてに、アントンは嫌気が差していた──。




