下りない承認
クレアと離縁したアントンの毎日は目まぐるしく過ぎていった。
執務室に積まれた書類は一つ一つを捌くにも時間がかかるというのに、次から次へと持ち込まれてくる。とてもではないが一人で処理しきれる量ではなかった。
それだけではない。辺境伯であるアントンには国境を守護するという重要な務めがある。
国境付近で小競り合いが起きれば兵を率いて現地へ赴かなくてはならない。一日で済めばいいが、時には何日も屋敷を離れることになる。
戻ってきた頃には疲労困憊だというのに、休む間もなく机に向かわなければならない。
「……まだあるのか」
何度目か分からないため息を吐き、アントンは新たな書類の束を前に頭を抱えた。
ここまで休む暇もなく仕事に追われることは初めてだ。
クレアがいた頃は領地に関する仕事の大部分を彼女が引き受けてくれていた。クレアを娶る前は、亡くなった母がそれを担っていた。
(まさか『妻』という存在がここまで大きなものだったなんて、知らなかった……)
このフォード辺境伯家において『妻』がどれほどの役割を担っていたか、それをアントンは追い出してから初めて思い知った。彼はそれまで妻というのはただ子供を産み育てるだけの存在だと、心のどこかで軽視していたのだ。
だが、蓋を開けてみればとんでもない。妻という存在は、当主である夫が安心して家を空けられるよう家に関するすべてを請け負ってくれる、必要不可欠な存在だった。
そして皮肉なことに、必要不可欠な存在であったクレアを追い出してまで屋敷に迎え入れたマリーネとも、ほとんど時間を過ごせていない。
(せめて、マリーネに仕事を手伝ってもらえたなら……)
家令のローレンスにそう提案してみたものの、「だめです」とにべもなく断られた。
理由は、マリーネがこの家の人間ではないから。
「マリーネ様はフォード家とは何の関係もない部外者です。部外者に領地に関する書類をお見せするわけにはいきません」
「部外者って……マリーネは俺の恋人だぞ?」
「関係ございません。奥方でも婚約者でもないのでしたらフォード家にとって部外者です。ご結婚後でしたら、お手伝いすることも可能でしょうけど……」
「……ッ! 仕方ないじゃないか! 婚姻の許可が下りないのだから……!」
クレアとの離縁が成立するとすぐ、アントンはマリーネとの婚姻を王宮へと申請した。
しかし、いつまで経っても承認が下りたという書状が届かない。だから、マリーネはまだアントンの妻ではなく、ただの恋人という立場でしかないのだ。家政はおろか、領地の仕事に携わることも出来ずにいる。
「……国王陛下はご多忙なのでしょう。他に優先すべき事項が沢山お有りなのです」
「だが……! クレアの時はもっと早く承認が下りていたはずだ。あまりにも遅すぎないか?」
「そうおっしゃられましても……。旦那様に出来ることは待つことだけです。言っておきますが、急かすような真似はしないでくださいね? 不敬なので」
「そんなことは分かっている! だが……どうにも不安なのだ……」
想像していた生活とはかけ離れた現状に、追い打ちをかけるかのように下りない婚姻の承認。
何もかもが上手くいかない状況に、アントンの心には常に不安が付きまとっていた。
「どうしようもありません。それに、仮に婚姻の承認が下りたとしても、マリーネ様は領地に関する仕事を手伝えるのですか?」
「……は? クレアは出来ていたのだから、マリーネだって出来るだろう?」
「いやいや……元奥様はご実家でそういったご教育を受けていらっしゃったから出来たのですよ? 一般的なご令嬢は領地経営は学んでいないと思いますが……」
「なに? いや……そんな馬鹿な。だって、母上は……」
「先代の奥様もそういったご教育を受けていらっしゃったと聞いております」
「なんだと……⁉」
驚きに目を見開くアントンを前に、ローレンスは呆れた顔を隠そうともしない。
「なぜ知らないのですか……。家を空けることの多い当主の妻はそういった女性でないと務まりません。まさに今、旦那様はそれを実感なさっているのではありませんか?」
「…………」
アントンは何も答えない。いや、答えられなかった。
母親も元妻も特殊な教育を受けていたことを、彼は知らなかった。だからこそマリーネも同じようにできるものだと、何の疑いもなく思い込んでいたのだ。本人に確かめることさえせず、その思い込みが間違いだったと今さら思い知らされる。
「それに、マリーネ様のご実家は領地を持たない無領貴族ですよね? 領地経営をしなくてよい家のご令嬢が、それを学んでいるとはとても思えないのですが……」
マリーネの家は爵位はあるが自分の領地はなく、フォード辺境伯家から俸禄をもらって仕えている無領貴族である。領地を持たぬ家が、領地の経営方法を娘に学ばせているとは思えない。アントンは無言のまま椅子から立ち上がった。
「そんな……。なら、俺はどうすればいいんだ……このままでは仕事に忙殺される……」
「……今更そのようなことをおっしゃられても困ります。あれほど私が奥様との離縁を思いとどまるように申し上げたというのに、旦那様は聞く耳を持ちませんでしたよね? 奥様の仕事もご自分がどうにかするとおっしゃいました。なら、ご自分でどうにかなさってください」
アントンが弱気な言葉を漏らそうと、ローレンスは容赦なくそれを切り捨てた。
再三にわたって忠告したというのに耳を貸そうとしなかったのは、ほかでもないアントン自身だ。今さら絶望したところで、何を今更としかローレンスは言えない。
「知らなかったんだ……! クレアや母上が、これほど多くの仕事をこなしていたなんて……! 大変そうな素振りなんて少しも見せなかったし……」
「それだけお二人が優秀だったということでしょう。今更嘆こうがどうにもなりません。元奥様の抜けた穴を旦那様が埋める以外に方法などないのですから」
いくらアントンが悲痛な叫びを漏らそうと、ローレンスの反応は終始冷ややかだった。
この状況を招いたのはほかでもないアントン自身だ。ならば、その責任は自ら負うしかない。
「ああ、それと……マリーネ様にそろそろ散財を控えるよう旦那様からお伝えください。このままですと、旦那様の個人資産が底をつきますので」
「は……? 何のことだ?」
ローレンスから思いもよらない言葉を投げかけられ、アントンは呆気に取られた。
「おや、ご存じありませんか? マリーネ様は毎日のように商人から高価な品をお求めになっておりますよ。代金は旦那様の個人資産から支払うよう仰せつかっておりますので、これまで請求されるたびにそこから賄ってまいりました。ですが……そろそろ底をつきそうです」
「なんだと……? あれだけあったのに? そんな馬鹿な……!」
「それだけマリーネ様の浪費が激しいということでございます。私の立場からはお止めすることができませんので、どうか旦那様からお諫めください」
そこまで聞いて、アントンは言葉を失った。
いくらクレアに慰謝料として個人資産の半分を支払ったといえど、それでも十分な金額があったはずだ。
それを、こんな短い期間で底をつきそうなほど浪費するなど考えられない。
(俺はこんなにも大変なのに……マリーネは更に追い打ちをかけるような真似をするのか……)
そう理解した途端、アントンは目の前が暗くなるような感覚に襲われた。




