王命に背いた代償
一方、クレアと伯爵が王宮を去った後、謁見の間には重苦しい空気が漂っていた。
「……まったく、呆れたものだ」
国王は玉座の背にもたれ、ぽつりと漏らす。その声には深い呆れが滲んでいた。
「ええ。陛下のおっしゃる通りでございます」
傍に控える宰相がズレた眼鏡の位置を直しながら答える。
国王の前でなければ深く溜息をついていたことだろう。
「王命による婚姻を、たったの一年足らずで『昔の恋人と結婚するから離縁したい』とは……ふざけているとしか言いようがない」
「史上稀に見る愚かさですね。三十を過ぎた男、しかも貴族家当主の発言とは思えません」
「ああ。あまりも馬鹿げた話だ。これがなければ、余とて到底信じることはできなかった。フォード辺境伯夫人……いや、ヴァーレン伯爵令嬢の作り話だとしか思えなかったろう」
国王は一枚の書類を手にし、一瞥した後それを宰相へと手渡す。
それはクレアが作成した離縁の報告書。そこには、いかなる経緯を経て離縁に至ったのかが詳細に記されている。
「この報告書の末尾には辺境伯ご本人の署名がございますものね。これに同意なさった以上、ここに記された内容が事実であることに異論はないということでしょう。己の恥を晒す内容を陛下にご報告するとは……いささか理解に苦しみますが」
クレアは離縁に関する報告書を作成しただけでなく、アントン本人に署名までさせていた。
そうでなければ、あまりに馬鹿げた内容ゆえに国王に虚偽の報告だと疑われてしまうからだ。
いい年をした男が、昔の恋人とよりを戻したからという理由で王命によって娶った妻との離縁を願い出るなど、あまりにも荒唐無稽で到底信じられるものではないだろう。
「辺境伯は己の行動がいかに非常識で、いかに無礼か、全く分かっていないのだろう。そうでなければこのような真似などしないはずだ」
「そのような無知蒙昧な者が貴族家当主とは……情けのうございます」
二人の間にしばし沈黙が流れた。あまりにも馬鹿馬鹿しい理由での王命違反に、怒る気力すら失う。
「あれほど若く美しく、非の打ち所のない令嬢を娶らせてやったというのに……恩知らずめ。ヴァーレン伯爵家と令嬢の献身に報いるどころか、恩を仇で返すとは何たる恥知らずか」
「ええ、おっしゃる通りです。何より、王命に背くことは陛下に対する反逆の意思を示すに等しい。処罰はいかがなさいますか?」
「そうだな……爵位剥奪のうえ、強制労働施設行きとしたいところだが……」
国王は表情を曇らせ、しばし考え込んだ。
少しの沈黙の後、小さく溜息をつく。
「当主としての器に欠けるとはいえ、武人としての腕は確かなものだ。戦が生業の辺境伯としては申し分ない。宰相、それに代わり得る者はいるか?」
「いえ、思い当たりません。執務能力のみならば、いくらでも該当するのですが……戦の能力となると難しいですね。ですが……いかなる事情があろうとも王命に背いた事実を看過することはできませぬ。陛下の御意志に背くことは王国の秩序を揺るがすに等しい。それをお許しになれば王命の権威そのものが損なわれましょう。王命を軽んじた代償は重いのだと、分からせねばなりません」
宰相の言葉を受け、国王は沈痛な面持ちで「そうだな……」と低く呟いた。
「そなたの言う通りだ。王命に背いた者には相応の罰を与えるべきであったな」
「ええ、そうでございます。辺境伯の武のみを必要とされるならば……身分はそのままとし、権利のみを剥奪してはいかがでしょう? 立場こそ残れど、これまでのように振る舞うことは叶わなくなりましょう」
「ほう……成程な。権限のない、お飾りの当主に仕立て上げるというわけか。それはよい。権力者にとって、権利を剥奪されるのは屈辱であるからな。しかし、その剥奪した権利は誰に与える? 代官にでも与えるか?」
「いえ。その家の権利は、その家の者が持つべきです。夫に与えられた権利は、妻へ譲るのが最もよろしいかと存じます」
「妻だと……? それは、妻であったクレア嬢のことを言っているのか? 余は、王命に従って嫁ぎ、妻としての務めを果たした彼女をこれ以上縛るつもりはない。ましてや、再び妻として生きよなどと命じることもな。あのような男の元に誰が戻らせるものか」
「それは勿論でございます。役目に従い、婚家の財政を建て直したヴァーレン伯爵令嬢にそのような苦行を強いるなどとんでもない。そうではなく、新たな妻にです。ヴァーレン伯爵家と縁を切ったフォード辺境伯家は、また赤字経営に戻ることでしょう。領民のためにも新たな支援先は必要です」
「ふむ……。だが、このような馬鹿馬鹿しい理由で妻を追い出した男の元に嫁ぎたいと思う令嬢などいるか?」
「ええ、一人だけおります。それは……」
宰相が告げた令嬢の名に、国王は一瞬驚いたものの、すぐに納得したように頷いた。
「成程……。確かに、彼女であれば適役だな」
国王の言葉に、宰相は「そうでございましょう」と嬉々として笑みを浮かべる。
その顔には隠しきれない黒さが滲んでいた。




