第63話 白き守護の声
ユグレシアでの暮らしは、穏やかに続いていた。
朝は森を歩き、里の仕事を手伝う。
昼になれば子どもたちの声が広場に響き、夕方には世界樹の枝葉が夕日に照らされる。
そんな日々を重ねるうち、ユグレシアへ来てから二か月ほどが過ぎていた。
カゲツにとっては、長い旅の途中に立ち寄っただけの場所だったはずだ。
だが、今では森の道を歩けば自然と声を掛けられ、子どもたちからは当たり前のように遊びへ誘われる。
薬草の採り方も覚えた。
森で採れる食材も少しずつ分かってきた。
そして何より、精霊たちの姿が日常の一部になっていた。
「カゲツさん、おはよう!」
「おはよう。」
朝の広場を通ると、子どもたちが元気に駆け寄ってくる。
「今日は何するの?」
「まだ決めていない。」
「じゃあ、一緒に遊ぼう!」
「朝から元気だな。」
「うん!」
子どもたちが笑う。その頭上を、小さな精霊がふわりと横切った。カゲツは視線だけを向ける。
精霊はそのまま子どもたちの周りを一周すると、森の奥へ飛んでいった。
「何か見つけたのか?」
「え?」
子どもたちは首を傾げる。
「いや。」
カゲツは小さく笑う。
「何でもない。」
最近では、精霊たちが何をしているのか、少しずつ分かるようになってきた。
言葉を交わすわけではない。
だが、光の揺れ方や飛び方から、何となく感情が伝わってくる。
楽しんでいる時。警戒している時。何かを知らせようとしている時。以前よりも、その違いが分かるようになっていた。
「カゲツ様。」
セレスが広場の向こうから歩いてくる。
「おはようございます。」
「ああ。」
「今日も森へ行かれますか?」
「少し歩こうと思っている。」
「では、私もご一緒します。」
二人は並んで森へ向かった。
いつもの道。いつもの景色。
だが、今日は少しだけ違った。精霊たちが妙に騒がしい。
木々の間を行ったり来たりしながら、何度も森の奥へ向かって飛んでいる。
「今日は随分と忙しそうですね。」
セレスが笑う。
「何かあるのかもしれない。」
カゲツは足を止めた。一体の精霊が目の前で宙に浮かんでいる。カゲツを見る。そして森の奥を見る。またカゲツを見る。
「……来い、ということか?」
精霊は大きく一度だけ光を揺らした。
「分かりやすいな。」
カゲツが歩き出す。精霊は嬉しそうに先へ飛んでいった。
セレスも後を追う。
だが、しばらく進んだところで、セレスの足が止まった。
「ここから先は……。」
そこには、以前白き守護に導かれた時と同じように、人の手が入っていない森が広がっていた。
「私はこちらで待っています。」
「いいのか?」
「はい。」
セレスは頷く。
「ここから先は、白き守護がカゲツ様だけを招いているように思えます。」
カゲツは森の奥を見る。精霊たちはその先で待っている。
「分かった。」
「すぐ戻る。」
「お気を付けください。」
「ああ。」
カゲツは一人で森へ入った。
しばらく進むと、木々の向こうに白銀の姿が見えた。白き守護が立っている。こちらを見つめていた。
「待っていたのか。」
カゲツが近付くと、白き守護は静かに歩み寄る。その大きな身体が、カゲツのすぐ目の前で止まった。
黄金色の瞳が真っ直ぐに見つめてくる。以前とは違う。
今日は、何かを伝えようとしている。カゲツも目を逸らさない。
「……どうした。」
白き守護は答えない。
代わりに、ゆっくりと頭を下げる。
そして、その額をカゲツの額へそっと触れさせた。
あの日と同じだった。
だが、今回は違う。
意識へ触れてくる感覚が、はっきりしている。
風でもない。
音でもない。
誰かの意思が、直接心へ届いてくる。
『……。』
カゲツは目を閉じる。静かに、その声にならない声を受け止める。
『……ようやく。』
今度は、はっきりと意味が分かった。カゲツの目が僅かに開く。
「今……。」
『ようやく、届いた。』
確かに聞こえた。耳ではない。頭の中へ直接響いている。
カゲツは驚きを見せながらも、すぐに落ち着きを取り戻した。
「お前の声か。」
『そうだ。』
短い言葉。
だが、それだけで十分だった。
長い時を生きてきた存在なのだろう。その声には、不思議な静けさがあった。
「白き守護。」
カゲツが呼ぶ。
すると、白き守護の瞳が静かに揺れた。
『その名ではない。』
「……違う?」
『それは、人が我を呼ぶために付けた名だ。』
カゲツは白き守護を見つめる。
「なら……お前の本当の名は?」
しばらく沈黙が続いた。森を風が通り抜ける。精霊たちも静かに宙へ浮かんでいる。
やがて白き守護の思念が、ゆっくりとカゲツの心へ届いた。
『我が名は――』
そこで、声が途切れた。
カゲツは黙って待つ。長い沈黙の後。
その名が、静かに響いた。
『エルディア。』
その瞬間。
周囲の精霊たちが一斉に光を揺らした。カゲツはその名を心の中で繰り返す。
「……エルディア。」
初めて聞く名だった。
だが、不思議とその名は、この白き守護によく似合っているように感じた。
『その名を知る者は、もう長くいない。』
「そうなのか。」
『人々は我を白き守護と呼ぶ。』
『それで構わぬ。』
『我が真の名を知る必要など、誰にもなかった。』
エルディアの声には、寂しさも誇りもなかった。
ただ、長い年月を受け入れた者だけが持つ静けさがあった。
カゲツはしばらく黙っていた。
そして、穏やかに口を開く。
「エルディアか。」
『そうだ。』
「覚えておく。」
その言葉に、エルディアは静かに目を細めた。
『……それでいい。』
森を風が吹き抜ける。精霊たちが二人の周りを舞い始める。誰も知らない名。伝承にも残っていない名。長い年月の中で失われていた、その名を。
今、カゲツだけが知った。
エルディアの思念が、静かにカゲツの中へ響いた。
森は不思議なほど静かだった。
葉擦れの音も、遠くで鳴く鳥の声も聞こえている。
それなのに、カゲツの意識にはエルディアの声だけがはっきりと残っていた。
「思念で話すのか。」
『言葉を使う必要がないだけだ。』
「便利だな。」
『そうかもしれぬ。』
エルディアの返答は淡々としていた。長い年月を生きてきた存在とは思えないほど、妙に気さくだ。
カゲツは少しだけ口元を緩める。
「ずっと一人だったのか。」
『一人ではない。』
エルディアは周囲へ視線を向ける。精霊たちが木々の間を飛び、小さな動物たちが草むらを駆けている。
『森がある。』
『世界樹がある。』
『精霊たちもいる。』
『我が守るべきものも、ここにある。』
「そうか。」
カゲツは静かに頷いた。前世で百年を生きた自分にも、分かるところがあった。
長い時間を生きているからといって、必ずしも孤独になるわけではない。
ただ、長い時間を共に歩ける者は少なくなる。それだけだ。
「白き守護と呼ばれるようになったのは、いつからだ。」
『遠い昔だ。』
『我が覚えているよりも、さらに前のこと。』
「伝承にも残っている。」
『ああ。』
『だが、名は残らなかった。』
「なぜだ。」
『必要がなかったからだ。』
カゲツは少し考える。
「名前を知らなくても、守護者としての役目は変わらない。」
『その通りだ。』
エルディアの思念が、ほんの僅かに柔らかくなる。
『人々は我を白き守護と呼び、我は人々を見守った。』
『それだけで十分だった。』
「……なるほど。」
それ以上、カゲツは尋ねなかった。エルディアがそれを望んでいるのかどうかは分からない。
だが、今はそれでいいと思った。ふと、エルディアがカゲツを見る。
『お前は。』
「俺?」
『なぜ、この世界を歩く。』
予想していなかった問いだった。カゲツは少しだけ空を見上げる。枝葉の隙間から、青い空が見える。
「……分からない。」
『分からぬ?』
「ああ。」
「前世では、剣を振るうことばかり考えていた。」
「強くなること。」
「誰かを守ること。」
「それが自分の生き方だと思っていた。」
カゲツは一度言葉を止める。
「でも、死んで……。」
「もう一度生きる機会をもらった。」
「だから今は、知らないものを見てみたい。」
「それだけだ。」
エルディアは黙っている。カゲツも急かさない。やがて、思念が届いた。
『……良い旅だ。』
「そうか。」
『お前には、急ぐ理由がない。』
「そうだな。」
カゲツは笑う。
「だから、好きなところへ行く。」
『それでよい。』
エルディアはそう告げる。
『この森も、お前が望むならいつでも迎えよう。』
「……ありがとう。」
短い言葉だった。だが、カゲツにとっては十分だった。
エルディアは静かに目を閉じる。その周囲を精霊たちが舞う。一体の精霊がカゲツの肩へ止まり、別の一体がエルディアの角へ降り立つ。
「なあ。」
『なんだ。』
「エルディアって呼んでもいいのか。」
『構わぬ。』
「白き守護と呼んだ方がいいのかと思っていた。」
『あれは人の呼び名だ。』
『お前が我をどう呼ぶかは、お前が決めればよい。』
「じゃあ、エルディアだな。」
『ああ。』
カゲツは小さく頷いた。その名前を呼ぶことに、不思議な重みを感じる。だが、それを表に出すことはなかった。
「一つ聞いていいか。」
『なんだ。』
「俺がここに来る前から、俺のことを知っていたのか。」
エルディアはしばらく答えなかった。やがて、静かな思念が届く。
『知っていたわけではない。』
『感じていた。』
「感じていた?」
『世界樹が、お前を受け入れた時に。』
『森全体へ、お前の存在が伝わった。』
カゲツは世界樹の方角を見る。
『精霊族の気配は、この森に長く残る。』
『だが、お前の気配は我が知るものとは少し違った。』
「違った?」
『お前には、長い旅の跡がある。』
カゲツは黙った。前世の百年。戦場を歩いた日々。剣を握り続けた時間。
そして、この世界で始めた新しい人生。それらをエルディアは感じ取っているのかもしれない。
『だから、会ってみたかった。』
その言葉に、カゲツは少しだけ目を見開いた。
「……それだけか。」
『それだけだ。』
「随分と単純だな。」
『お前もそうだろう。』
「……まあな。」
二人の間に、静かな笑いが生まれたような気がした。声を上げたわけではない。
ただ、互いの思念が僅かに柔らかくなる。それだけだった。
しばらくして、エルディアが立ち上がる。
『戻るがよい。』
「もういいのか。」
『セレスが待っている。』
カゲツは目を丸くする。
「分かるのか。」
『森の中にいる者のことならな。』
「そうか。」
カゲツも立ち上がる。
「また来てもいいか。」
『いつでも。』
短い返事だった。それだけで十分だった。カゲツは森を振り返る。小さな精霊たちが、別れを惜しむように周囲を舞っている。
エルディアはその場に残り、静かにカゲツを見送っていた。
「じゃあな、エルディア。」
『また会おう、カゲツ。』
初めて名前を呼ばれた。その声を背に受けながら、カゲツは森の出口へ向かって歩き始めた。
少し先には、セレスが待っている。カゲツの姿を見つけると、安心したように微笑んだ。
「お帰りなさい。」
「ああ。」
「何かありましたか?」
カゲツは少しだけ考える。
そして、いつもの穏やかな表情で答えた。
「少し話をしてきた。」
「白き守護と……ですか?」
「ああ。」
セレスは驚いたように目を見開く。
だが、それ以上は尋ねなかった。カゲツが話したくなれば、いつか話す。そんな距離感を、二人はいつの間にか築いていた。
森の奥から風が吹く。カゲツは一度だけ振り返った。木々の間に、白銀の姿が見える。エルディアもまた、こちらを見ていた。
カゲツは小さく手を上げる。白き守護は動かない。
ただ、その大きな耳が僅かに動いた。それを確認すると、カゲツは前を向いた。
ユグレシアで過ごす時間は、まだ終わらない。この森で得たものは、剣でも武具でもない。
一つの場所。そこに暮らす人々。精霊たち。
そして、長い時を生きる一頭の守護者。
カゲツは静かに歩きながら、胸の内でその名をもう一度だけ呼んだ。
――エルディア。
その名は、誰にも語られない。
少なくとも、今は。
ただ一人、カゲツだけが知る名として、静かに心へ刻まれていた。




