第64話 森の時間
エルディアと初めて言葉を交わした日から、さらに日々は穏やかに流れていった。
翌朝になっても、ユグレシアの景色は何も変わっていない。
朝日が木々の間から差し込み、小鳥が鳴く。
森を抜ける風はいつもと変わらず、精霊たちは気ままに空を舞っている。
ただ一つ。カゲツの中では、ほんの少しだけ変わったことがあった。森の奥にいる白き守護。
いや。
エルディアという名を持つ存在を、ただの神秘的な獣として見ることは、もうできなくなっていた。
「おはようございます、カゲツ様。」
「おはよう。」
朝の広場でセレスと顔を合わせる。セレスはいつものように籠を持っていた。
「今日は薬草を採りに?」
「ああ。」
「でしたら、昨日教えていただいた場所を見てみようと思います。」
「もう覚えたのか。」
「忘れる前に行っておきたいので。」
「それなら一緒に行くか。」
「はい。」
二人は森へ向かって歩き出した。最近では、こうして並んで森を歩くことも珍しくなくなっていた。
最初の頃はセレスが道を教え、カゲツが後をついていくことが多かった。
今では逆になることもある。カゲツが先に薬草を見つけ、セレスへ教える。
「それは薬草ではありませんよ。」
「……そうか。」
「葉の形が少し似ていますからね。」
「紛らわしいな。」
セレスが笑う。
「カゲツ様でも間違えることがあるのですね。」
「俺を何だと思っている。」
「何でも知っている方かと。」
「買い被りだ。」
そんな会話をしながら歩く。以前なら、こうした何気ない会話をする相手も少なかった。
旅の途中で出会った人々とは、別れればそれまでということも多い。
だがユグレシアでは、同じ人と何度も顔を合わせる。同じ道を歩き、同じ場所で食事をし、同じ景色を見る。それが少しずつ当たり前になっていた。
「……変な感じだな。」
「何がですか?」
「こうして同じ場所に長くいることが。」
セレスは少し考えてから答えた。
「カゲツ様は、旅をされているのですよね。」
「ああ。」
「なら、そう感じるのも無理はありません。」
「エルフにとっては、数か月なんてあっという間ですから。」
「人族の方からすれば、違うのでしょうね。」
カゲツは苦笑する。
「俺の場合は、少し事情が違うがな。」
セレスはその言葉の意味を深く追及しなかった。カゲツが精霊族であること。
そして、普通の人族とは時間の感覚が違うこと。それはこの里にいる者なら皆知っている。
森の中を進んでいると、前方から小さな足音が聞こえてきた。
「カゲツさん!」
子どもたちだった。
三人ほどの子どもが、木の実を抱えて走ってくる。
「何をしている。」
「これ!」
一番年下の少年が、両手いっぱいに木の実を見せる。
「朝に拾ったの。」
「たくさんあるな。」
「食べられるやつだよ!」
「そうか。」
カゲツが一つ手に取って眺める。
「これは……。」
「食べてみて!」
「今か?」
「うん!」
セレスが横で笑っている。
「皆さん、カゲツ様に食べさせたいのでしょう。」
「なるほど。」
カゲツは木の実を一つ口へ運んだ。
甘い。少し酸味もある。
「うまい。」
「本当?」
「ああ。」
子どもたちは嬉しそうに顔を見合わせた。
「じゃあ、もっとあげる!」
「いや、そんなにはいらない。」
「いっぱいあるよ!」
「そういう問題じゃない。」
笑い声が森に響く。
その声に誘われたように、近くの枝から精霊が一体、ふわりと姿を現した。
子どもたちの周りを飛び回る。
「また精霊!」
「最近よく見るね!」
子どもたちは精霊の姿を見ることはできない。
それでも、風の動きや木の葉の揺れから、そこに何かがいることを感じ取っているらしい。
「カゲツさん、今そこにいた?」
「いるな。」
「やっぱり?」
「ああ。」
少年が嬉しそうに笑う。
「いいなぁ。」
「そのうち見えるようになるかもしれないぞ。」
「本当?」
「分からない。」
「なんだ。」
子どもたちは笑った。カゲツも小さく笑う。そんなやり取りをしているうちに、精霊は森の奥へ飛んでいった。
カゲツはその姿を目で追う。
そして、ほんの僅かに気配を感じた。
遠い。だが、確かに分かる。森の奥。エルディアがいる方向だった。
「……。」
カゲツはしばらくそちらを見つめた。
「どうしました?」
セレスが尋ねる。
「いや。」
カゲツは視線を戻す。
「何でもない。」
精霊が飛んでいっただけだ。そう思った。
だが、その日の夕方。カゲツが世界樹の近くを歩いていると、一体の精霊が再び姿を現した。今度は、いつもと違う。
カゲツの周りを回るのではなく、森の奥へ進んでは戻ってくる。
まるで、何かを伝えようとしている。
「……またか。」
カゲツは立ち止まる。精霊が止まる。
そして、もう一度森の奥へ飛ぶ。
「行けばいいのか?」
精霊が光を揺らした。
「分かった。」
カゲツは歩き出す。世界樹の周辺を抜け、少しずつ人の気配が薄くなる。夕方の森には、昼間とは違う静けさがあった。
木々の隙間から差し込んでいた光も、少しずつ弱くなっている。
やがて、見覚えのある白銀の姿が見えた。エルディアだった。
「また呼んだのか。」
カゲツが近付く。エルディアは静かに顔を上げた。
『来たか。』
「精霊が案内してきた。」
『そうか。』
短い思念が返ってくる。カゲツはエルディアの隣まで歩いた。
「何かあったのか。」
『何もない。』
「……。」
『ただ、来てほしかった。』
カゲツは少しだけ目を細めた。
「そうか。」
それ以上、何も言わなかった。エルディアも何も言わない。
ただ二人並んで、夕暮れの森を眺める。精霊たちは二人の周りを静かに舞っている。
やがて、世界樹の向こうへ夕日が沈み始めた。
「綺麗だな。」
『ああ。』
「こういうのを見るために、旅をしているのかもしれないな。」
『それならば、良い旅だ。』
「……そうだな。」
カゲツは静かに笑った。しばらくすると、エルディアが立ち上がる。
『また明日も来るか。』
「明日?」
『嫌か。』
「いや。」
カゲツは首を横に振った。
「来る。」
『そうか。』
エルディアは満足したように森へ向き直る。カゲツもその隣を歩き始めた。帰り道。
木々の間から見えるユグレシアの灯りが、少しずつ増えていく。
その光景を眺めながら、カゲツは思った。ここで過ごす時間も、悪くない。
むしろ、思っていた以上に心地良かった。
だからこそ。この先、いつか旅立つ時が来たなら。
その時は、きっと今までの旅とは少し違う気持ちになるのだろう。
そんな予感だけが、静かに胸の中へ残っていた。
翌朝。
カゲツが森へ向かうと、昨日と同じ場所に小さな精霊が待っていた。
「おはよう。」
声を掛けると、精霊は嬉しそうに光を揺らす。
そして、昨日と同じように森の奥へ飛んでいった。
「今日もか。」
カゲツは小さく笑い、後を追う。少し歩いた先には、エルディアがいた。昨日と同じ場所。同じように静かに佇んでいる。
「早いな。」
『お前もな。』
「呼ばれたからな。」
『それなら、私のせいか。』
「そうなるな。」
エルディアの思念に、僅かな変化があった。笑っている。声を出しているわけではない。
それでも、カゲツには何となく分かるようになってきた。
「少し慣れてきたな。」
『何がだ。』
「お前との話だ。」
『そうか。』
「最初は頭の中へ声が響くのが妙な感じだった。」
『今は違うのか。』
「まあな。」
カゲツはエルディアの隣へ腰を下ろした。二人の前には、朝の森が広がっている。
小鳥が枝から枝へ飛び移り、草むらでは小さな動物が動いている。
精霊たちは木漏れ日の中を舞っていた。
しばらく、何も話さなかった。それでも気まずくはない。
むしろ、こうして黙っている時間が心地よかった。やがてエルディアが尋ねる。
『お前は、どれほどここにいるつもりだ。』
カゲツは少し考えた。
「決めていない。」
『そうか。』
「急いで出る理由もないからな。」
『ならば、しばらくいればいい。』
「ああ。」
それだけの会話だった。けれど、その言葉を聞いたカゲツの胸には、不思議な温かさが残った。
しばらくして、里の方から子どもたちの声が聞こえてくる。
「カゲツさーん!」
「……もう見つかったか。」
声の方へ振り返ると、木々の間から数人の子どもたちが走ってくる。
その後ろにはセレスもいた。
「やっぱりここでしたか。」
「どうした。」
「子どもたちが朝からカゲツ様を探していたんです。」
「何か用か?」
「昨日の続きをしてほしい!」
「剣の練習?」
「うん!」
子どもたちが一斉に頷く。カゲツは少しだけ考える。
「朝飯は食べたのか。」
「食べた!」
「なら少しだけだ。」
「やった!」
子どもたちは嬉しそうに声を上げる。エルディアはそんな様子を静かに見つめていた。
「お前も来るか?」
カゲツが尋ねる。
『私が?』
「ああ。」
『私は剣を振れぬ。』
「見るだけでもいいだろう。」
エルディアは少し考えたように黙る。
『……それも悪くない。』
「じゃあ行くか。」
カゲツが立ち上がる。エルディアもゆっくりと立ち上がった。その姿を見たセレスが目を丸くする。
「白き守護も、一緒に来るのですか?」
「そうらしい。」
「……本当に変わりましたね。」
「そうか?」
「はい。」
セレスは嬉しそうに微笑んだ。四人と一頭は、里へ向かって歩き始める。森の中を歩いていると、エルディアの周囲へ精霊たちが集まってくる。
角へ止まる者。背中へ乗る者。そのまま風に乗って飛び去る者。それを見た子どもたちは大喜びだった。
「白き守護、すごい!」
「精霊がいっぱい!」
「近くで見たい!」
「走るな。」
カゲツが言うと、子どもたちはすぐに足を止めた。
「ゆっくり近付け。」
「うん!」
以前と比べれば、子どもたちも白き守護との距離感を覚えてきている。
エルディアも嫌がる様子はない。
一人の少年が恐る恐る近付き、エルディアの脚へ手を伸ばした。
「触ってもいい?」
『構わぬ。』
「……。」
カゲツは思念を受け取った。
「いいそうだ。」
「分かるの!?」
子どもが驚く。
「何となくだ。」
本当のことを言う必要はない。今のところ、この会話はカゲツとエルディアだけのものだ。少年は嬉しそうにエルディアの毛へ触れる。
「ふわふわだ……。」
「私も!」
「順番だぞ。」
子どもたちは笑いながら並び始めた。エルディアは静かにそれを受け入れている。セレスは少し離れた場所から、その光景を眺めていた。
「不思議ですね。」
「何がだ。」
「白き守護が、こんなに穏やかな顔をするなんて。」
カゲツはエルディアを見る。
「前からこうだったんじゃないか。」
「私たちが知らなかっただけかもしれません。」
「そうかもな。」
やがて広場へ戻ると、里の者たちもエルディアの姿に気付いた。
だが、もう以前のように驚く者はいない。ただ静かに頭を下げる。白き守護も、それに応えるようにゆっくりと頭を下げた。それだけで十分だった。
昼になると、カゲツは里の者たちと食事を共にした。
森で採れた野菜。焼いた魚。香草を使った料理。特別豪華な食事ではない。
だが、皆で囲む食卓には穏やかな笑い声があった。
「カゲツさん、これ食べて!」
子どもが料理を差し出す。
「自分で食べろ。」
「いっぱいあるから!」
「そうか。」
結局、カゲツは受け取った。
「うまい。」
「でしょ!」
嬉しそうな笑顔。その隣ではセレスが笑っている。
エルディアは広場の端で伏せ、そんな光景を静かに見守っていた。その姿を眺めながら、カゲツはふと思う。
この世界へ来てから、どれほどの人と出会っただろう。
ローヴェンで出会ったクルトたち。王都で出会った者たち。
そして、ここユグレシアで出会ったエルフたち。旅をしていれば、出会いと別れは避けられない。
だからこそ、今この時間を大切にすればいい。カゲツはそう思った。
夕方。
食事を終えたカゲツは、世界樹の近くまで歩いてきた。エルディアも少し離れて後をついてくる。
世界樹を見上げる。初めてこの場所へ来た時とは、少しだけ見え方が違っていた。
あの時は、ただ巨大な樹だと思った。今は違う。
この森で暮らす者たち。
精霊たち。
エルディア。
そのすべてを繋いでいるものが、この世界樹なのだと感じる。
『カゲツ。』
「なんだ。」
『お前は、この森を気に入ったか。』
カゲツはしばらく考えた。
「……ああ。」
素直な答えだった。
『そうか。』
「お前は?」
『何がだ。』
「俺がここにいるのは、嫌じゃないのか。」
エルディアは少しだけ黙った。
『嫌なら、近くには呼ばぬ。』
「それもそうだな。」
カゲツは笑う。
『お前は、ここにいてもよい。』
その言葉に、カゲツは世界樹を見上げたまま静かに頷いた。
「ありがとう。」
風が吹く。枝葉が大きく揺れる。
その中を、無数の精霊たちが舞っていた。ユグレシアで過ごす時間は、まだ続いている。
明日もきっと、同じような朝が来る。森を歩き、里の者たちと話し、精霊たちと過ごす。
そんな穏やかな日々が、また一日積み重なっていく。
そしてカゲツは、その時間を急いで終わらせようとは思わなかった。




